第4話 水の流れ

 魔術的な煙の模様に魅せられているわけでもないが、やっぱりなんだかんだ言っても、今の私はタバコをやめられそうにない。口や鼻の粘膜にスーっとしみる煙の感触が、炎天下に放置されたチョコレートのように溶けかけた私の意識に鞭打っているみたいで、どこか倒錯的な快感にすらなりつつあるのかもしれない。でもメンソール入りのタバコは好きではない。薄荷のような爽快に鼻に抜ける感じは、別にタバコでなくてもノド飴でも舐めればいいと思うからだ。私がタバコに対して一番求めているのは味ではなく、隠れて社会に反抗して吸っているという事実だ。だから、健康に対して一番影響が少ないはずの、タールもニコチンも軽めのエクストラライトなのだ。

 と、その時、扉の外に人の気配を感じた。私は息を潜め、耳をすませて外の様子に気を配る。タバコは手に持ったままだ。いざという時には便器の中の水が溜まっている所へ素早く捨てて、水を流さなければならない。

 さっきまではタバコの煙を吸って吐いてと大きく息をしていたのに、今は呼吸すらも最小限にとどめている。アクション映画で、体制側の敵に見つかりそうになったテロリストみたいなスリリングな状況を、今の私が味わっている。

 張り詰めた緊張の糸が支配する時間。ゆっくりと流れ行く。

 何も起こらない。

 タバコを吸っている時は常に疑心暗鬼状態だからか、何でもないことに過剰に反応することがある。今回も、最初に人の気配らしきものを察知してからは、特に異常は感じられない。人の気配と思ったものは、どうやら私の錯覚だったらしい。そう結論づけて、ほっと胸を撫で下ろす。

 その間、緩慢に時間が流れているように体感してはいても、客観的な時計の針は着実に進んでいる。タバコの先端は、吸っていなくてもほんの少し灰が長くなっていた。

 先端の灰を、便器の中へ落とす。白い便器を黒っぽい灰が染みとなって汚す。あくまでも、水を流すまでの一時的な汚れだが。

 潔癖を装いつつも理不尽で世知辛いな世の中への、小さな染みのようなささやかな反抗。

 私にとってのタバコの意味は大部分がそれに集約される。

 わざわざ自宅からは離れた場所にあるコンビニエンスストアにまで出向いて買っているタバコだ。大人っぽいメイクをして、薄くて色気に乏しい唇に口紅も塗って、二〇歳以上の容姿に見えるように念入りに偽装して、それでもレジに出す時には年齢を尋ねられたりしないかどうかドキドキしながらある意味ではスリルを味わいながら購入している。だからちょっとだけ吸って捨てるなんて非常にもったいなくてできない。フィルターを挟む人差し指と中指に火の熱が伝わって来るくらいにキッチリ根本まで吸ってから、口紅でちょっと赤くなった吸い殻を便器に捨てる。水に流してしまえば証拠が残らない上に、万が一火の不始末で火災が発生するという危険も無い。これがトイレでタバコを吸う利点である。不良の溜まり場の定番である体育館裏などではこうは行かない。最初に発明したのが誰かは知らないが、人類の叡智の結晶である水洗トイレは便利で無敵だ。

 慎重な私は吸い殻を流した後もしばし個室にとどまる。煙のにおいが換気扇に吸い込まれて完全に消えた頃を見計らってから、耳をそばだて、周囲に誰もいないことを確認してから個室を出る。今回使った個室が、一番奥であることは覚えておく。毎回同じ個室ばかり使っていると、タバコのヤニがアイボリーホワイトの壁に染みついて残ってしまうかもしれないからだ。タバコを吸うという冒険をしてはいるものの、私は基本的にはイヤになるくらいに臆病で小心者なのだ。見つかってしまえば停学処分を食らってしまう。とりあえず勉強さえしていれば化粧は大目に見てくれている親も、タバコを許容してはくれないだろう。大きなペナルティは避けたいからこそ、タバコを吸う時は神経質過ぎるくらいに注意を払っているし、不安や不満を抱きつつも受験勉強という大きな流れに身を任せている。

 手洗い場で水道の蛇口を小さくひねる。水音で誰かの注意をひきたくないからだ。控えめに水が出てくる。指先についたタバコの臭いを消すためにも、じっくりと手を洗う。夏になると、蛇口から出る水もなんとなくぬるいが、冷たい水だと時間をかけて手を洗うのが辛いので、これでいいのかもしれない。私は口紅は塗っているけど、マニキュアやネイルは付けていない。昨日も、別の高校に通っている友人と談笑した時に、ネイルをやってみなよと勧められたが、お小遣いがあまり多くないから、と言って断った。

 鏡に映った自分と向き合う。ルックスはそこそこ可愛い方だ、と思う。思いたい。

 講習を受けて勉強をするために夏休みの学校に来ているのだし、あまりお金が無いというのも嘘ではないから、口紅以外の化粧っ気は全くない。お金の節約のためにも、化粧に力を入れるのはタバコを買いに行く時だけだ。言うなれば勝負下着ならぬ勝負メイクである。


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