第3話 抜かれていない牙
やはり今回も一人で訪れたトイレは、寒色系の色彩のせいか、あるいは人がいなくて体温による嵩上げが無いためか、教室よりは少しだけ涼しいように感じられた。半袖から突き出た二の腕に浮いていた汗が少し引いたようだ。
私の上履きの足音だけが響いて、無人のトイレの静けさを引き立てる。それでも慎重な性格の私は決して油断はしない。まずは全ての個室の扉を開けてチェックし、本当に誰もいないことをしっかりと見届ける。電車の車掌のように、わざわざ指さし確認をする。
全部無人だったのだからどこでも構わないのだが、この時の気分でなんとなく一番奥の個室に入って鍵をかける。チェック柄ダークグリーンのプリーツスカートに手をやる。が、ファスナーを下ろすでもなく、ベルトを外すでもない。また、スカートだけをめくってレモンイエローのショーツを下ろすつもりもない。用便のためにトイレに来たのではないから。
慣れても緊張感は緩和されないものだ。巣穴に閉じこもった小動物のように心臓をドキドキさせながら、陰気な愉しみに頬を緩ませつつ、私は制服のスカートのポケットからタバコとライターを取り出す。タバコは、ニコチンもタールもごく少ないエクストラライトの銘柄。緑色のライターはどこにでも売っている百円ライターで、まだたっぷり中身の液体が残っている。
こういう時の唯一の楽しみともいえる悪事はある意味蜜の味だ。くわえたタバコの先端にそっと火をつけると、肺には入れず、口の中だけで煙をふかす。嗅覚が神経質になるためか、僅かな紙が焦げる臭いとガスの臭いが一瞬だけ感じられ、でもすぐに消滅する。煙とトイレ全体のラベンダーの香りが、薄紫色の世界を構築する。
「ふうー、生き返るねぇ……」
万が一にも誰かに聞き咎められることが無いよう控えめな声で、独り言を呟く。唇と歯と舌の隙間にタバコの煙が漂い、エクストラライトな刺激を粘膜に残す。
夏のビアガーデンで一杯やっている仕事帰りのサラリーマンオヤジの心境はこんな感じだろうか。あるいは厳冬の山奥で秘湯と呼ばれる温泉に浸かった時の解放感はこういう心境に似ているのか。
トイレで隠れて吸うタバコの味は……美味しいとは言わないが、格別だ。
タバコなんて、美味しくて吸っているのではない。それは私に限らず、健康に悪く肺ガンや脳溢血などの危険があると知りつつもやめられずに吸っている多くの人がそうなのではないだろうか。
禁止されているからこそのレジスタンス、背徳感と快感のせめぎ合いの中で吸いたくなるのが人情というものだ。
ビールだって、一年中朝昼晩いつでもコンビニエンスストアあたりで買って飲めるだろうに、企業戦士がビアガーデンで飲むのをありがたがるというのは、夏の間だけと期間が制限されているからだろう。ビアガーデンという開放的なスペースによる味わいだけではないはず。……とはいっても私は、タバコは吸うけど、お酒は飲まないからビールのありがたみはイマイチ分からない。テレビのニュースで『本日ビアガーデンがオープンしました』というのを見て、サラリーマンのみなさんが美味しそうに飲んで気持ちよく酔っているのを眺めるだけ。暑い夏だからビールの冷たさがウマい、のかもしれない。全ては推測でしかない。
タバコを吸えば、少しは大人に近づけて格好良くなれるかと最初は思っていたが、他者に対して喫煙している姿を見せずにあくまでも隠れて吸っている限りは自己満足にしかならないということには既に気付いている。そこまで見越していたわけではないが、私はタバコの煙を肺には入れていないから、中毒にはなっておらず、本気でやめようと思えばすぐにやめることができる。今すぐにやめないのは、吸うことによるメリットがせいぜいレジスタンス精神の維持と気分転換ぐらいでしかないという物足りなさ以上に、やめることによる利点が小さく思えるからだ。
「ふうー」
溜息か、タバコの煙か。よく分からないものを吐き出す。その分、自分の中に濃縮して蓄積してある大事な物も一緒に流れ出て行ってしまいそうな錯覚に陥ってしまいそうだが。
いや、ネガティブな思考に陥ることが一番良くないだろう。
私は、牙を抜かれて檻の中でうずくまっているだけの虎じゃない。いや、もしかしたら社会とか学校とかいう檻の中で飼われて寝そべっているかもしれないけど、牙は抜かれていないで健在だし、常に磨いているつもりだ。タバコはその象徴だ。
頭上では、籠もった暑さに不平も言わずに静かに換気扇が回っていて、トイレの個室に発生した悪い空気を校舎外へ排出してくれている。私の口と鼻から吐き出されたエクストラライトの紫煙は、栓を抜いたお風呂のお湯のように渦を巻きながら、換気扇のフィルターの向こうへ吸い込まれて行く。空気は普段は目に見えないものだけど、煙で色が付くとまるで唐草模様か何かのような不思議な動きをしていることが分かる。
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