8、逃亡


「マリウス……!」

「メリルローザ!」


 二つの影が室内に飛び込んでくる。

 マリウスを羽交い締めにしたのは見知らぬ栗色の髪の女性で、メリルローザの元に駆け寄ったのはグレンだ。


「叔父さま、ヴァンが……!」


 ヴァンは姿を保てないのか、ゆっくりと薄れて消えていく。触れていたメリルローザの手が、空を切って床に落ちた。

 マリウスは奇声を上げて女性を振りほどこうともがく。暴れて取り落としたレッドスピネルをグレンが素早く回収した。


「早くその子を連れて逃げて!」

「ディアナ、君は……」

「マリウスはわたしを襲わない。早く!」


 マリウスは細身とはいえ男の子だ。女性がしがみつくように押さえこみ、なんとか動きを封じることが出来ている状態だ。

 グレンは後ろ髪を引かれたようだが、素早くメリルローザを背負うと部屋を出た。


「ヴァンは……」

「宝石の中に戻ってる。消えたわけじゃないから大丈夫よ」


 フロウの声に少しだけ安心した。

 屋敷の外はいつの間にか暗雲が立ち込め、雨が振りだしていた。グレンは迷ったようだが、「アルテ橋の方から帰ろう」とメリルローザを背負ったまま東側へと足を向ける。

 街には近いが、かなり急な下り坂だ。濡れた石畳で足もとられやすい。


「叔父さま、危ないわ。わたし、歩きます」


 マリウスの焚いた香のせいか、それとも呪いにあてられたせいか。頭がガンガンと痛むが、二人で滑って転んだら怪我をしそうだ。

「無理よ」と押し留めたのはフロウだ。


「坂道はアタシが連れておりるわ。んもう、今日だけサービスよ」


 実体化したフロウの姿を見て、グレンは事態を忘れて呆気にとられたようだ。多分、想像していた姿とはかけ離れていたに違いない。

 グレンは戸惑いつつも、フロウにメリルローザを託した。「うっかり転んで自分が割れたら困る」というフロウの主張はもっともだし、雨はどんどん強くなってきている。

 フロウはメリルローザを横抱きにすると、チャイナドレスから長い足を出して走りだす。幸い、雨のせいで出歩いている人はいない。


「……ごめんね、フロウ……」

「いいのよ。人目につくから、降りたら代わってもらうわね」

「ああ、わかった。済まないが頼むよ」


 安定したフロウの走りとは反対に、やはりグレンは何度か足をとられそうになっていた。


 十五分ほど走ったところでアルテ橋が見える。

 姿を消したフロウに代わり、もう一度グレンがメリルローザを背負った。既にびしょ濡れなうえ、息もあがっているので、グレンは早足よりもやや遅いくらいのスピードで歩く。


「メリルローザ。あの少年に、何をされたんだい?」

「……お香を焚かれたら、急に眠くなって……。マリウスが突然、わたしの首に手をかけたんです。それから……」


 ――きれいな宝石に呪われて死んだ、きれいなおねえさん。


 そう言ってメリルローザを殺そうとし、レッドスピネルに呪いをかけた。


「マリウスは、どうして呪いをかけることが……?」


ただ触れただけでスピネルに呪いをかけてしまうことが出来た。呪文や祈祷は一切なく、あんなに簡単に。

苦しみながら姿を消したヴァンのことが心配で、今すぐにでもレッドスピネルを確認したかった。無事よね、と祈る気持ちで唇を噛みしめる。


「……彼は、呪術師の末裔だ」

「あの女性は? あの人が、マリウスのお姉さんなんですか?」


 ディアナ、とグレンが呼んでいた。マリウスが呪術師の末裔ならば、その姉も呪術師なのではないだろうか。


「……そう。年の離れた弟がいるっていうのは知っていたけれど、まさか彼がね」


 グレンが疲れたように息を吐く。

 事情がわからないメリルローザに、グレンは歩きながら話し出した。


「僕とディアナは、三年前この街で出会って恋に落ちたんだ。彼女は街で部屋を借りて、絵を描きながら一人暮らしをしていた。家には母親と年の離れた弟がいるけれど、自分は家を出たんだと言ってね」

「……じゃあ、叔父さまはディアナさんが呪術師の血をひいているって知らなかったんですか?」

「ああ。彼女のことはふつうの画家だと思っていた。ただの旅先の恋で終わりたくなくて、ローテンブルクで一緒に暮らさないかと伝えたんだけどね」


 それはプロポーズしているに等しい。グレンにそんな情熱的な一面があったとは知らなかった。


「でも、彼女は何も告げずに僕の前から消えたんだ。住んでいた部屋も解約して、街中探しても見つけられなくて。……さすがに、実家の場所までは知らなくてね。僕は振られたんだと思ってあの街を後にしたんだ」


 グレンはディアナに出会った時、美術商だと名乗ったらしい。

 当時は、貴族であることを隠していたからディアナが怒ったのだと思ったそうだ。


「彼女が引っ掛かったのは、僕がいわく付きの品を取り扱う美術商、ってところだったんだろうね。呪われた品を集めているとなれば、いつか自分達の一族に辿り着いてしまう」

「……叔父さまはどうしてディアナさんが呪術師の一族だと気がついたんですか?」

「ユリア嬢が持っていたカードも、君が露天で買ってきた本に挟んであったものも、……ディアナが好んで描いていた模様だったからだよ。彼女は、サインの代わりによくあの絵柄を描き込んでいた」


 ハイデルベルク行きに反対しなかったのも、もしかして彼女が関わっているのではないかと思ったからなのだろう。

 ホテルに入ると、ずぶ濡れのメリルローザとグレンを見て、すぐにフロントがタオルを用意してくれた。簡単に水気を拭き取り、部屋へと戻る。


「……また明日、どうするのか話そう。今日はとにかくすぐに着替えて休みなさい」

「叔父さまも、……今日はちゃんと休んでくださいね」


 この雨の中、無茶なことはしないで欲しい。

 グレンは苦笑すると「わかっているよ」と頷いた。


 ふらつく足取りで部屋に入り、のろのろと濡れた服を剥ぎ取る。本当は熱いシャワーでも浴びたほうがいいのだが、とてもそんな体力も気力もなかった。それに。

 呪いを受けてから、ヴァンは一言も発していない。レッドスピネルには黒いもやがかかったままだ。


 ヴァン、と小さく呼び掛けると、レッドスピネルから現れたヴァンがベッドへと倒れこんだ。

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