3. おかえり、不如帰



「卒業式を閉幕します」


スピーチを聞いて立ち上がると、俺は大学生じゃなくなった、らしいんだけど、いまいち感慨なんかはない。帰り道に急に来たりするんだろうか?どうだろう。


会場の講堂を出ると、私服姿のカコが待っていた。

高校生になって一年間過ぎたら、こいつは急に男性ホルモンを増やしたようで身長が俺よりも高くなり、同時にすこしだけ生意気にもなった。


「カコ」

「コージにおめでとうって言いに来た。おめでとう」

「そりゃどうも。ありがとう」


でも相変わらず犬みたいに懐いてくるこいつ。

だけどお前、俺の周囲がざわめいているんだぞ。俺はこれから飲み会に行くんだ。女子からお前の話題しか話しかけられなくなるだろ?


「部外者立ち入り禁止だけど」

「父さんが忘れ物したんだ」


なんだ。俺はついでか。

カコは紙袋を右手に持っている。


「コージ、明日家でお祝いやるから来てね」

「本当に行っていいのか?」

「勿論。あ、じゃあ俺行くよ。卒業おめでとうコージ。飲み会楽しんで」


そう言ってカコは人だかりの中に入っていった。

その中心にはカコの父親で、この学校の非常勤講師。加古総こと成木総が、洋画科の生徒全員からサインをせびられている。


あ、ずるい。俺も行きたい。

だけど俺はどうやら明日、加古家に招待されるようだから、いまだけのみんなにここは譲ろうじゃないか。


成木総はカコを見つけて人混みから抜け出す。

紙袋の中身は卒業生へのプレゼントだったようで、叱るように笑うカコの姿がちらりと見えた。




日本に帰ってきた成木総は、去年の春からとある少年と、彼の祖父母の家で一緒に暮らすことになった。


新しい生活が始まってもう一年間が経った。


成木総は俺の大学と契約を結んで、非常勤の教授として指導を行いながら、日本で制作活動を続けている。少なくともカコが高校を卒業するまでは、彼は日本にいる予定らしい。


思い出の本屋に近い彼の家は、作品を描くアトリエと、台所に面した広い居間と、バリアフリーの和室と、図録や画集に満ちた小さな部屋と、ごく一般的な男子中学生の自室がある。まともでありきたりな一軒家だ。


表札の字は、加古。成木総は現在、加古という苗字を名乗っている。


なんだっけ、冥婚?日本じゃ死者とは結婚が出来ないから、加古衛二は成木衛二になれても、加古衛子は成木衛子にはなれない。エーコさん一人だけが違う苗字になるのがどうしても嫌だったらしい成木総は、自分が二人の苗字になることを考えついた。

カコの養父である秀一さんを経由して頼み込み、エーコさんの実家の養子になった成木総は、エーコさんの仏壇と老夫婦のいる一軒家に転がり込んだ。


「単純に養子縁組にすればいいのに、こだわるから複雑なことになった」


頭を抱えながらカコがぼやいた言葉を思い出す。カコとともに俺も随分法律を調べたけれど、制約を回避するために成木総がややこしい回り道をするたびに、制限なんて無くなればいいと叫びそうになった。


「じゃあそのうち作家カコソウになるわけ?」

「さすがに仕事の名義は変えらんないと思う」

「…まあ、そのほうが静かに暮らせるか」


売れっ子の画家とはいえ、見た目は小綺麗で小物のセンスがいいおじさんだ。作家本人の見た目なんて、よほど個性的か相当な美術ファンでもない限り一般人はわからないもんだろう。


成木総の見た目を思い浮かべながら、目の前で麦茶を飲んでいる美少年の横に並べてみる。どうやらカコは両親から良い部分だけを見事にとって生まれたらしい。


成木総が女子高生と同棲してるというデマは、なにを隠そう、17歳になっても可憐なこの美少年が原因だ。

成木総がカコに初めて会った時に、唖然としたあと嗚咽しながら泣いたほど、カコは若い頃のエーコさんにそっくりだったようだ。


「…エーコさんって、綺麗だったんだろなあ」


きっとアルマ・マーラーのように悠々自適で創造的で、芸術家たちの繊細な感受性をゆさぶって、大きな波へと変えてしまうような。そんな女性だったんだろう。




まあなんであれ、親子の再会のきっかけになった一枚の油絵の話をしておこう。その頃、パリにいた成木総が数ヶ月で仕事を終わらせて飛んで帰ってきたという一枚だ。


疲れきってくたびれた顔でも美しい少年。重なった絵の束に手を伸ばす。その背後にはきらびやかで美しい景色が広がっているというのに、触れようとして躊躇う手つきと、押さえきれない愛情を湛える眼は、ただ一心に埃を積もらせた絵を見つめてる。


描き終えたばかりで生乾きの絵を見せると、カコは何も言わなかった。

何も言わずに、ぎゅっと筆を握りしめていた。ただ、しばらく経って乾燥した絵を成木総に郵送してもいいかと持ちかけた時には、カコの頬はすこしふくよかになったように見えた。


俺は大学を卒業したら一般の企業に就職して、たまに美術を嗜んで、たまに趣味で絵の具を走らせる。

時間を忘れてすべてを注ぎ込むような執念も、食事も物欲も堪えて絵の具を買う情熱も、次第に忘れて薄らいでいくんだろう。


あれ以上のものはこの先作り出せないだろうけど、俺は絵を描いていた時間を一生誇りに思うだろうな。


題名は無いけれど、一人の友人の今をありありと描きだした。俺の最高傑作だ。



***

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