2. おかえり、不如帰


ギャラリーを出てから、誰もいない下町の古い喫茶店を見つけて席につくと、俺たちはようやく深い長い息を吐き出した。

俺は感嘆から。カコはなにを思ったのかわからない。


カコは目元を影に隠していた帽子をとると、やっぱちょっと暑かったらしくパタパタと手で扇ぐ。高校生になってかなり女性っぽさは抜けたけど、相変わらず聖女感がある可憐な美人顔だ。


「あー恥ずかしかった」

「女装したカコがいっぱいいたな」

「やめて、なんか自分でも錯覚してたから」


カコが眉間を絞って首を振ると、きらきらと汗が飛んできたので俺はすぐにやめさせた。いくら美少年のものとはいえ、男の汗は心象的に無理だ。汚い。


汗がつくのは死んでも嫌だから、クーラーの効いた室内で汗が乾き、カコの指がお手拭きで綺麗になった頃を見計らって、買った図録を机に広げた。


「あれ?買ったの?」

「勿論」


貧乏とはいえ図録だけは惜しまない。それに今回の作品集は個展限定の自費出版らしいので、これを逃せば再販は望めない。

カコはちょっと眉を下げてなんだかどことなく嫌そうにしている。まあカコにとっては自分にそっくりな母親への父親からのラブレターみたいなもんだから、複雑なんだろう。

わかるよ。でも知るもんか。ファンなんだ俺は。


「見ろよ略歴。これなんかロシア後すぐブラジルに飛んでる」

「ほんとだ。寒暖差どうしたんだろ」

「夏だから毛皮一枚から半裸になったくらいじゃないか?」

「途中で日本の空も通ったかなあ」

「ヨーロッパ側から大西洋経由だろ。って、怒るなよ」


夢のない発言に向けるこの冷ややかな表情も、今日の会場で見たっけな。いやこれはもしかしたら成木総に似たのかもしれない。


「これじゃ確かに帰れないね」


心から惚れた女がいても夢を突き詰めて、ようやく後ろを振り返った時には失ってる。夢も叶える間も時間は過ぎていくことに、失ってから気づいたなんて。


「なんか成木総のイメージ変えられた感じだ」

「へえ、どんなふうに?」

「男としては、思ったよりかっこ悪い」

「ぶはっ確かに」


だけど真摯で情熱的だ。

大袈裟に笑い転げるカコはそんな彼を許せたのだろうか。いや、これから楽しくなりそうだと感じたのかもしれない。


会えない間に、彼は息継ぎをするように彼女の絵を描いた。画商にも恩人にも才能を評価してくれる誰にも見せず、少しずつ描きためた絵を抱え、ようやく日本に帰ってきた時、彼は彼女の死を知った。


十七年も経つというのに、彼は彼女が永遠に変わらずにいると信じて疑わなかったらしい。

古い巣のような奥まった本屋のカウンターで、しかめっ面で美術書を読み耽る彼女の姿は、いつまでもそこにあるのだと。


「そういう思い込みの激しさが、いかにも芸術家だ」

「実際エーコさんはどう思ってたんだ?」

「シュウさんの話によれば、妊娠が発覚した時も、末期癌が見つかった時も、あっさりしてたみたい」

「本当にへんな人だったのか」

「まあ、あの人の妻ならそれなりに…だったんじゃない?」


ある意味胆力がすごいというか。まあ流石に、突然連絡がとれなくなった自分の恋人が、彼女の愛読書で特集されていた時は、ちょっとだけ驚いていたらしいが。

成木総と知ってからも全く知らせずに未婚のまま子どもを産んで、一人で死んでいった彼女はやはり、普通じゃなく肝が据わっていたのだろう。


「今回の作品って、不倫とかインモラルとか変な誤解を全部捩じ伏せるためだろ?」


今回の個展はいつもより評価は悪い。だけど成木総もそれは重々承知だっただろうし、ギャラリーでの展示で作品は売らず、作品集も自費出版していることがその証拠だろう。


「良かったな。なんか安心したわ」

「え?なんかその言葉おじさんみたいだよコージ」

「うるせえ心配してたんだよ」


悪態つかれながら読み終えた図録を閉じて鞄にしまう時に、ちらりと見上げたカコの姿を俺はやけに鮮明に覚えている。



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