7. カッコーと底無し


こいつは間違いなく才能を持ってる。だけど胸をかきむしりながら筆を欲して、嗚咽をつまらせながら絵の具にしがみつき、才能と境遇の間でいまにも壊れそうなほどもがいてる。

俺だったら、こいつの境遇で描き続けられるか?

正直、自信がないと思った。


でもカコ、お前は罰を受けたがってるようには見えないよ。助けてくれって叫んでるように見えてるよ。


才能を捨てられたらいいのにな。たぶんそれは誰もが損失と言うだろうけど、お前がその命をひきちぎるほどの価値はないよ。


生み出せなくなった芸術家だって生きる道は残ってる。そうじゃないと駄目だって。そんなに世界は怖いもんじゃないはずだ。

俺は腕を組んでうんうん悩んで、思いついたアイデアを素直に口にした。


「そうだカコ。俺にカコを描かせて」

「え、」

「絵の具にたっぷり塗り込んでやる」


焦げて舞い散る灰の色も、硝子に閉じ込められた光彩も、熱く体を溶かす赤い色も、体を腐食する罪悪感も。絵の具の世界にカコを投げ込んでやる。


「ひとつ残さず額縁の中に置いていけ。それで脱け殻になっても、中身はちゃんと画面の中にある」

「……」

「捨てたいけど捨てられないなら置いとけよ。また必要になってもいいし、ずっと置いておいてもいい」

「コージの絵に預けろって?」

「俺の絵はなんでも飲み込む底無しだ。お前の過去も悩みも描き込んでやる」


肥溜めだとか、描きすぎと批判されてしまうほど、自分が描く作品はいつも俺が抱えきれないものを残さず飲み込んでくれている。

俺は売れる絵を描く才能はなかったけれど、切り離すための絵画ならきっと誰よりも得意だろう。


「カコの苦しみをここに残そう」

「…怖いねそれ。コージの絵を見たから余計に怖い」

「そうだな。嘘はつかない。見たまま描くからな」


お前は鏡を覗いたら劣等感や罪悪感が目を霞ませて、自分の姿が悪魔にでも見えているんだろうが、それなら俺が絵でカコのそのままを表してやればいい。

そしたらよく見えるだろ。お前はこんな姿をしていたんだって思い出すだろう。


カコの眼は俺と同じ、描き狂いの観察眼だ。現実がその眼には絵画のように映るなら、現実よりも絵画のほうがよく真実が見えるはず。


「モデルになる約束だろ?」

「そうだけど」

「ほら椅子に座って。朝まであんま時間ねえから」

「わ、ちょ、引っ張らないでよ」


急かすように腕を引くと、カコの手から筆がぽろりと落ちて床の上を転がった。


聖なる女神みたいだったカコの顔はいまはもうボロボロだ。水分を排出したせいで透明感があった頬は萎み、輪郭はぐずぐずに熟れた蜜柑みたいに歪んでる。

だけどそれがなんか生きてる感じで、描く欲をそそられた。

色を取り戻したのは命が通っているからで、輪郭が崩れるのは脈が動いているからだ。


お前、そっちのほうがいいよ。

俺は沈鬱で聖的なカコを地上に落として笑ってる。天に恵まれた才能を泥の上でべたべたに汚してる。あーあ、これたぶん大罪だ。なんて思いながら、苦しんでいる同類から重荷をひきずり落とそうとしている。


カコはずっと話をしていた。アキラという少年の話を、焼け落ちた部屋への後悔を。成木総の絵を見たときの感動を。養父の前では否定していた、会ってみたいという本音を。



やがて、朝になって。

力尽きたように筆を置くと、俺はカコをイーゼルの前に呼び出した。



***

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