6. カッコーと底無し

冷めたコーヒーはさらに不味くなっているけれど、カコはマグカップをぎゅっと握って離さない。油絵に満ちたこの部屋で息を吸うと、コーヒーよりも強いリンシードオイルの匂いが鼻についた。

ぼそぼそと話すカコの声は調合を間違えて剥離していく被膜みたいに、ブルーシートを敷いた床に降り積もっていく。


「…今日は、家に画商の人が来てたんだ。最近絵を描けてないから」

「プレッシャー?」

「違う。でも今日だけは純粋に逃げたくなってさ、明日からまた描くよ」

「本当にしんどいなら休めよ。断ってもいいんじゃないか?」

「断らないよ。お金が貰えるから」

「金の問題かよ」

「そうだよ。俺はお金のために描いてる」


ぐっと一度なにかを飲み込むように息を詰まらせ、勢いよく顔を上げたカコは蒼白で、本当にひどい顔をしていた。


「だって俺、人を一人殺してるから」

「え?」


その言葉で堰がきれたように、カコの口は滑らかに動き始めた。ゴヤの末期の絵画で見たような、おどろおどろしい混沌の顔になって、流暢に言葉を吐き出していく。


「引き取ってくれた家の子ども。アキラっていって、俺と同じ年だった。同じ子ども部屋で育ったけど、アキラは漫画とゲームが好きだった」


話しながらカコの顔がぐしゃぐしゃに歪んでいった。

笑ったように泣いたり、泣いたように笑ったり、感情のキュビズムみたいに、違う表情を同じ顔の上に表していく。乾燥していない油絵が蠢いているようで、背筋がぞわりと粟立った。


「小学生の時にはもう俺は絵が好きで描き狂いで、子ども部屋はアトリエみたいな状態だった。シュウさん…引き取ってくれた母さんのお兄さんと、その奥さんの早苗さんが応援してくれたんだ」


「そんな時、成木さんが審査員をしてる海外のコンクールがあって、ためしに俺も出品してみた」


「その絵が賞をとって、シュウさん…引き取ってくれた母さんのお兄さんに、海外まで連れて行ってもらった。受賞者には審査員のコメントがあるからって」

「え、じゃあ成木総に」

「会えなかった。成木さんは別の場所で仕事があって、コメントをした審査員は別の人だった。すごく褒められて、絵を売ってくれって言われたりもした。嬉しかったんだ」


でも、と躊躇いながら、背負う重荷を示すように項垂れて話は続く。


「国際電話がきて、子ども部屋が火事になったって連絡が入ったんだ。収斂しゅうれん火災だって」


「火元は俺が窓際に置いていた硝子玉。立て掛けていた油彩画に引火して……誰もいない時間帯だし、一気に広がった」


「子ども部屋ではアキラが寝てたんだ。高熱で朦朧としてた。火事が起きたのは、ちょうど早苗さんが薬を買いに出掛けたその間だった」


キュビズムの顔がぴたりと止まり、がらがらと砂でできた像みたいに崩壊していく。崩れきったカコの顔は確かに眼も鼻も口もあるはずなのに、穴みたいにまっさらで、無表情より何もない。のっぺらぼうだ。


「シュウさんも早苗さんも俺を責めなかった。でも俺はだめになったんだ」

「罪悪感で?」

「そうかも。シュウさんにも自分勝手に罰を受けるなって言われたな。でも無理なんだ。俺はもう俺に許してもらえないよ」


聞き返す前にカコは筆立てにあった筆を手に取り、ぎゅっと強く握りしめた。


「どうした?」

「こうして筆や絵の具を握るとだんだん体が勝手に震えだして、前も後ろもわからなくなっていく」

「それって」


たぶんPTSDってやつだ。心的外傷後ストレス障害。強いショックに撃たれた心が、体にまで影響を及ぼしてしまう。


「でも絵を描いてるって」

「横にバケツ置いて、少しずつならなんとか完成させられるから」

「バケツ?」

「吐くための」


頭に、嘔吐を繰り返しながら何度もキャンバスにすがりつくカコの姿がありありと浮かんだ。


「描くのをやめろよ!」

「だめなんだ。これでお金が貰えるから」

「金で償ってるつもりか?」

「償うなんて無理だ、でもそうしてないと息もできない」


のっぺらぼう状態のカコが喋り続ける。もう俺に話していることすら忘れているのか、その眼も鼻も口も、役に立たないただの穴になっている。


「どうしたら許されるのかわからない。みんながどれだけ許してくれても、俺自身が自分を許さないんだ」


「評価されるたびに、絵を描けって声が聞こえる。それ以外、お前に出来ることは無いんだって」


「好きなのに体は苦しくてはちきれそうで、だけど俺にはこれ以外なにも返せるものがない…」


すこし前まで俺とカコは鏡を見る気分で話していたのに、今は壁のようになって俺はカコの声を聞いていた。

どうすりゃいいんだろうな。目の前にいる瀕死の天才少年に、才能を諦めた俺がかける言葉なんてあるんだろうか。

ただぼんやり、お前が俺だったら良かったのに。なんて言葉だけがぷかりと浮かんだ。


「カコ、俺には才能がなかったよ」

「まさか」

「もう飲み込んだんだ。撤回できないとこまでな」

「諦めたの?」

「ああ。羨ましいか?」

「そうだね。すごく」


そう言って、カコが泣いた。のっぺらぼうの顔が溶けて流れ落ちていく。ぼこぼこと色んな場所から汁が出てくるたびに、その顔は複雑な色味を取り戻していった。


「俺、コージになりたいな」


なら言わせて貰うよ。俺だってカコになりたいさ。だけど衝動的に口から出す寸前でやめた。

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