3. カッコーと底無し
***
部屋に入った少年はキョロキョロと部屋のなかを見回して、一向に座ろうとしない。それどころか乾燥中で立て掛けたままの油絵に近寄っていって、触れたりしやしないかと俺をヒヤヒヤさせた。
「サカエコージ?」
「作家名だよ」
「本名は?」
「サカエユキツグ。栄えるの栄が名字で、下は幸せに次々の次」
「幸次…あー、なるほど。コージとも読めるから」
「そう。呼びやすいからみんなコージって言うんだ」
作家名をコージにしたのは、カタカナで並べた時のバランスが気に入ったからで、絵に入れるサインも一般的な英語表記じゃなくカタカナを使ってる。
「実は俺、カコエージっていうんだ」
「へえ」
「衛星の衛に漢数字の二で、衛二」
「そう」
「コージとエージって、似てるね」
あざといつもりはないんだろうけど、苛立たしいほどあざといカコエージから、俺はどうでもよさそうな感じで目を逸らした。
というか早く座れよデッサンしたいんだけど。
「コージ、もっと他の絵も見てもいい?」
「え?なんでだよ」
「面白いから、ほらこれとか」
「あ、そこのは乾燥してないから触るな!」
油絵は乾燥に時間がかかる。
ラピットメディウムみたいな乾燥促進剤を使えばいいんだけどな。そんなの知らずにシッカチーフを買ってしまった俺はずっとそれを使ってる。
瓶のものをすこしずつ使うからなかなか減らないけれど、貧乏の悲しいサガで使いきるまで変えられない。
「触ってないよ」
「勘弁してくれ…ほんと焦った」
「ごめん」
興奮も冷えきって本気で
大人になるの苦手なんだけどなあ、仕方ない。
「こっちなら見てもいいよ」
棚の脇には乾燥が終わった絵を、結構無造作に重ねたまま立て掛けている。学校に置いていたら持ち帰れと怒られた過去の作品だ。
ごそっと引き出してそのまま床に置くと、へこんでいた少年がその前にすとんと座って広げ出した。
「お前、絵が好きなの?」
「お前じゃなくてエージ」
「カコ」
「…俺も油絵描いてる」
「中学校で?美術部か、画塾か?」
「家で」
「独学かよ。油絵はいきなり難しすぎだろ」
「でもあの粘土みたいな感覚って、油絵の具にしかなくない?アクリルでもある程度できるけど」
「まあ、確かに」
同意しながら見ると、顔に対して綺麗じゃないカコの手が目に入った。
倒れていた時は隠れていたけれど、染まった爪に固くなった肌は、俺の手とよく似てる。
洋画専攻のなかでも、俺は異常なくらい描いているほうだ。息を吸うように指を動かして、吐くように横に絵を積んでいく。そんな人間の手は歪なほど特徴的ですぐわかる。
「コージも変態だね?描き狂い」
「…わかってるじゃん」
自分と同じ変態にはじめて出会った興奮のあまり、俺の鼻から何故かぷすぅと変な音が出た。顔を上げたカコがちょっと引いた様子で後ずさる。
「もっと話そうカコ。コーヒー飲む?」
構うもんか。ぷすぷすと音を立てながら俺は言う。
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