2. カッコーと底無し

 ***



カリカリと、繊維を掻く音がした。

頬に刺さる空気ともいえない微かな違和感に、風に漂って香るこれは、


「におい、」

「あ、あ!動かないで!」

「え?」


伏せていた目を開けると、知らない人がいた。俺から数歩離れたところで座り込んで、膝にはスケッチブックを抱えて叫んでいた。

驚いた拍子で動きを止めた俺を確認すると、彼は床に置いたケースから鉛筆を取り出して、またスケッチブックに向き直った。


「いま描いてんの」

「俺を?」

「そう」


なんだかよくわからない行為だけど、いまの俺は怒ったり嫌がったりするのも面倒で、また元に戻るように目を閉じた。

鉛筆が走る音、歪に削られた芯が紙を掻く。黒い粉が擦り付けられる。どうせ閉じても目蓋の裏にいくらでも浮かんでくるんだ。


「お兄さん、絵描きなの?」

「美大生。洋画専攻の」

「洋画…道理で油絵具のにおいがするんだ」

「そう。いまは鉛筆とスケッチブックだけど」

「俺を絵にするの?」

「あ…そうだ。今更だけど、描いてもいい?」

「今更だね」


ふっと息が鼻から突き抜けて口を曲げた。まあ勝手に写真を撮られたこともあるし、すぐ近くまで無言ですり寄られたり、直接触られたこともある。

驚いたけど彼との距離は三歩ぶんくらい離れてて、その視線に嫌な感じは混じってないから、ただ純粋に自然に、なにも考えず描いてしまったんだろう。その生態もよくわかる。


「いいよ。描きたいなら描けばいい」

「良かった」

「そのかわり、今夜ちょっと泊めて」

「家出?それとも喧嘩?不良には見えないけど」

「どっちかというと家出かな」


そう言うと彼はうーんと唸りながら真っ黒の手で顎を掴む。


「…こういうのって、変に手を貸すと警察になんか言われたりするんかな」

「勝手に描いたのはそっち」

「それは…そうだけど」

「モデルになるよ。描きたくない?ちゃんと絵の具で」


彼の喉が音を鳴らした。その誘惑に正直すぎる反応はちょっと…、いや、かなり気持ち悪い。


「大丈夫。捜索願とか出されないから」

「え?中学生だろ」

「そうだけど。引き取って貰った家の離れで暮らしてるから、実質一人暮らしみたいなもんだよ」

「……へえ」

「朝と夜に少ししか会わないからバレたりしない」

「苦労してんだな」

「そう?じゃあ泊めてくれるよね」

「理由は話せよ」


変態でもなんでも良かった。彼に染み付いてる匂い。鞣し革のような手。洞察力に特化しすぎた独特の視線。

それと同じものを俺は持っている。彼は絵描きだ。それも相当、描き狂ってる同類だ。



 ***

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