第2章 包囲線を噛み千切れ
日常はやがて隙間の時間
アラームの音で跳ね起きる。
朝五時。習慣づいた時間に、志之はすぐ目覚める。
両親の海外赴任が決まって、思う存分自堕落な生活を送ってやろうと思っていたのに、これだ。バイオリズムが定まってしまっている。
外はまだ薄暗い。運動着を着込んで、日課のランニングを始める。これは宇宙開発機関の研修生になってから始めたことだ。
オペレーションは長時間に及ぶ場合がある。宇宙施設の建設や修理。ただでさえ集中力を要する作業なのに、トラブル時には精神力の消耗も著しくなる。
そんなときに自分を支えてくれるのは、体力だ。
よき食事、よき運動、よき睡眠。
志之は惰性的にその教えを守り続けているのである。
これから、自分はハウンドを操るプレイヤーとなる。戦闘となれば、集中力も精神力も体力も、短時間で一気に燃焼させることになるだろう。
志之は今までよりもペースを上げて、ほとんど誰もいない街を走り抜けていく。
新臨海区はその字のとおり、海に隣した地区だ。太平洋側に拡張された埋立地の半島であり、岬の先には深海開発船の停泊する港がある。
海岸沿いの四車線道路には、トラックがまばらに走っているのみだ。
信号を渡り、道路脇の階段を下りると、そこは散歩とデートに打ってつけな公園がずっと続いている。
念のため補足すると、志之がデート目的で訪れたことは一度もない。夜にここを訪れると、恋人たちがあちこちのベンチを占領している。海なんて見て何が楽しいのだろう。
さておき、海岸線は湾曲しており、公園からは向かいに行楽地区のビルを見ることができる。
ひと際大きいドームが、クロムウェルスタジアムである。
こちらとあちらには橋がかかっていて、その上を私鉄が走っている。こちら側の住民が出かけるときは、電車を利用するのが一番早く着く方法だ。
これからは交通機関を利用する機会が増えるだろう。
志之はこちら側の落ち着いた住宅街ではなく、あちら側の、今は眠れる繁華街に視線を釘づけにされたまま走っていく。
佐伯家は二階建ての自宅を所有している。
そこにひとり暮らしというのは寂しいものだ。がらんとした空間で、流れる音はテレビの騒々しさ。それと自律型掃除機がせっせと稼働する音。そんなものだ。
両親からの連絡は全く来ない。たまにメールが届いたかと思えば、添付ファイルを保存しておいてくれ、なんて用件だったりする。
両親は好きなことをやっているが、自分には好きなことなんてない。
保存作業中、胸にぽっかりと空いた穴を感じて、ぼんやりと考え込んでしまうのである。
しかしここ最近は、志之にも没頭する案件ができた。
朝食を取りながらテレビに流しているのは、過去の試合だ。
四機入り混じっての銃撃戦。どういう流れで乱戦に突入し、いかに自分だけが生き残るか。志之はとにかく学ばなければならなかった。
『自分から仕掛けちゃダメ。まずは様子見ね』
これが絵馬から送られてきたアドバイスのひとつ目だ。
プレイヤーたちは他のハウンドが立てる音を聞いて索敵をする。自分が銃を発射してしまうと、その音はフィールド全体に響き渡る。銃撃戦に発展すると、漁夫の利を狙う第三者が忍び寄ってくる。
すると、最初に発砲したプレイヤーが、他の猟犬たちに包囲されることになる。
狙われても、まずは逃走。他のプレイヤーの位置関係を把握して、叩き潰すなら迅速に、そうでないなら誘導して潰し合わせる。
こうした判断を試合中に下さなければならないのだという。
中には『片っ端から潰す』というショースタイルを売りにしている者もいるが、それは確かな腕があって初めてできるプレイングである。
志之は目的を生存第一とするため、安全策を取っていくつもりだ。
過去の試合を分析していると、確かに戦闘に消極的なプレイヤーが最終的に勝ち残っている割合が高い。
つまらない試合運びと批判されるかもしれないが、最後に立っている者が勝者なのは間違いない。
「……つまり、最低ひとり倒せばいいんだな」
そういう状況を作るにはどうすればいいか。
志之はレトルトのスープをスプーンでかき混ぜながら時間まで分析を続けた。
スタジアム観戦からやや時間が流れ、四月下旬。
志之が通う高校は設立されて十年も経っていない公立の学校である。
この新臨海区は先述したとおり、深海開発を主な目的とした都市であり、引いては開発に携わる人材の育成も重要課題――ということで、この辺りには小中高大の一貫性学校が建ち並んでいるのだ。
といっても、学業を怠れば、当然、留年もありえるわけで。
……今年はちょっと頑張らないときついよなあ、と思う志之であった。
研修を受けていたなら理系は得意科目だろうと思われるかもしれないが、どっこい、頭に叩き入れた専門知識が学生の要する知識にほとんど結びつかないのだ。
これが『ああ、あのことね』と理解すると、試験問題もすんなり解ける。
この結びつきを増やしていくことが当面の課題だろう。
久しぶりに授業を真面目に受けた志之は、昼休み、売店へ向かおうとした。すると教室を出たところで、女子生徒と鉢合わせになる。
理緒だ。今年も違うクラスになってしまったのは、少し残念だった。
セーラー服姿の彼女は、すらっとした秀才少女に見える。ステレオタイプにはめ込むなら、『委員長』か『生徒会』の雰囲気を纏っている。実際誘いを受けているらしいが、家の仕事があるため断っているそうだ。
そんな彼女が、手に市松模様の包みを抱えていた。
「はいこれ」
受け取った志之は、困惑して尋ねる。
「はいこれってなんだこれ」
「や、わかるでしょ。お弁当よ」
視線を逸らし気味に答える理緒に対し、志之もぎこちなく礼を言う。
「さんきゅー……」
「私のを作るついでに余ったおかずで志之の分も作ってあげただけ。だからなんだから」
「の割にしっかり作ってくれてるのな」
志之は重さを主張するように弁当の包みを持つ。
すると、理緒からは険しい視線を向けられた。
「私も、ほら、うちの無茶聞いてもらってるから、……つまり、そのお礼といってはなんだけど、……黙って受け取ってよ!?」
最後のほうは顔を真っ赤にしての怒声だった。
志之は思わず笑ってしまったが、周りがやけに静かなことに気がつく。授業明けに動き出していた級友たちが、みな一様に凍りついてこちらを注視していたのだった。
さすがに志之も気まずさを覚えて下手なからかいを切り上げた。
「箱は後で洗って返すから」
「うん、じゃ、そゆことで」
理緒は急に肩の力が抜けた様子で、足早に自分の教室へと戻っていった。
級友たちも慌てたように動き出す。学食組と売店組は完全に出遅れたことだろう。知ったことではないが。
志之は集まっていた友人たちのもとへと向かい、
「というワケで弁当もらった」
「……どういうワケだ!」
やいのやいのと
理緒の母親は早くに亡くなっている。
幼い志之はそのことを立川から聞かされた。両親健在を疑問に思うことのなかった少年は、世界というものに少しだけ触れた。
理緒は引きこもりがちなくせに、志之がどこかへ行こうとするとついてくる、不思議な子供だった。多分、いきなり預けられてきた少年に戸惑っていたのだろう。
あの子供が、今はこうだ。
志之は彼女が作ってくれたおかずを味わいながら思う。
学業、〈ハウンド・ア・バウト〉、今年からがんばらないといけない?
何バカなことを言っているんだ。
理緒はずっとそうしてきたんじゃないか。
「立川さんのこと狙ってるヤツは多いんだよ」
その日の昼休みは、いかに志之が奇跡的な体験をしているのか、という話題を聞かされ続けた。
理緒は美人で、人当たりもいいのだが、いざ告白しようとするとハードルが高い、そんな印象なのだという。
それが去年度末、志之の元に『話がある』と現れた。
新年度が始まってからは何も起きていないように思われたが、今日のこれには激震が走ったのだとか。
「別にそういう仲じゃないんだけどな。単に幼馴染で」
「早く言えよそういうことは!?」
「……やー、最近まであんまり話もしてなかったし」
志之はどこか上の空で答える。
いつもならこんな話題でも一緒に盛り上がれるだろう。
だというのに、頭の中では四機のハウンドが駆けている姿ばかりを思い描いている。
空になった弁当箱に、フィールドの路地を重ねているのだった。
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