第2話 事件

 ところがある日。彼はとんでもないことに気がついてしまった。


 その日、彼はある友人とレストランで食事をしていた。その友人とは、度々こうして一緒に食事に行く仲だった。

 彼が友人にする話は、大抵生徒の愚痴だった。その日も例に漏れず、最近鈴木くんが言うことを聞かなくて困っている、などと、生徒の愚痴を溢していた。

 一方友人は、話の流れで最近あったことを話すことが、多かった。この日も何気なく最近の話をした。

「この間さ、甥のお墓参りに行ったら、お寺でかすみ草が咲いてて、すごく綺麗だったんだ」

「へー」

 彼は曇った顔で答えた。友人が甥の話をすると、彼はいつも、どこか悲しそうな顔をする。同情してくれているのは分かっていたが、もう随分経つのだからそんな顔をする必要は無いのになと、友人は思っていた。

「ほら、写真撮ったんだ」

 そう言って、友人は彼にスマホの画面を見せた。

「おー、本当だ! ムレナデシコだね」

「流石は生物教師!」

 その後もしばらく、世間話を弾ませていると、店の奥の方から、何やら店の雰囲気にそぐわない罵声が、飛んできた。

「おいっ! ふざけるなよ!」

 見ると、中年のスーツ姿のサラリーマンらしき男が、同じくスーツ姿の若い男の胸倉を掴んでいた。それまで賑わいでいた店内が、まるで誰も居なくなったかのように静まりかえった。

「人を侮辱するのもいい加減にしろ!」

 そう言って、中年の男は若い方を殴りつけた。

 呆然としていた店員が、やっと我に返って仲裁に入ろうとした時には、既に彼とその友人が間に入っていた。

「まぁまぁ、そんなに怒りなさんな。 一体何があったんだ?」

 彼が中年の男に尋ねると、

「お前には関係ないだろ! この男は俺を侮辱したんだよ! だから怒るのも当然だろ!」

 と怒鳴られた。どうやら中年の男は、若い方の会社の上司で、お互い酔いが回り、些細なことから喧嘩になったようだった。そこで彼はとにかく、若い方を友人に任せ、中年の男を落ち着かせようとした。しかし、後々これが、彼にとってカタストロフの始まりとなるのだった。


 彼は、中年の男を何とかなだめようとしたが、その男は初めの態度を一向に変えようとしなかった。それどころか、あまつさえ彼の説得に対して更に激昂し出した。彼の性格が忍耐強ければ、事は丸く収まったかもしれない。しかし生憎あいにく、教師のさがとでも言うべきか、彼は昔から、言いたいことはハッキリと言うタイプだった。元々怒りという感情を忌み嫌っていた彼は、止せばいいものを、とうとうこんなことを言い出した。

「だいたいそんなことで怒ること事態、言語道断。 お前みたいな器の小さな大人がこの社会に蔓延はびこっているから、世の中平和にならないんだ!」

「なんだとっ!」

 日頃からこの社会に持っていた不満を、中年の男についうっかり洩らしてしまったのだ。果たして、これは火に油を注ぐ結果となり、罵倒の応酬はますます激化していった。


 そんな中、中年の男が彼に言い放ったある言葉に、彼は凍りついた。

「百歩譲って、お前の怒ることは罪だとする主張が、正しいとしよう。だがそうすると、お前もまた罪を犯しているということになる」

「……どういうことだ」

「お前だって、今俺に向かって怒っているではないか。 いや、俺に、というよりも、むしろこの社会に対して、また怒りという感情そのものに対して、怒っているではないか!」

「……!」

 彼は、雷に打たれたような衝撃を食らった。彼は、思わず絶句せざるを得なかった。先程まで、何か熱いものが跋扈ばっこしていた胸は、いつの間にか冷えきり、寒々しく空洞になっていた。

 彼は今まで、周囲の怒りに対しては、非常に敏感だったが、自分に対しては、全くもって無神経であった。俯瞰ふかんした目で冷静に見つめれば、中年の男の言うことは、至極真っ当なことであるが、彼は一度もそのように考えたことがなかった。

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