怒り

神尾点睛

第1話 或る男

 その男は人間のあらゆる感情を理解していた。だから、彼は人と会話をするのが好きであった。相手の心の機微を感じ取り、共有するのが楽しかったのだ。しかし、そんな彼にも唯一、理解できない感情があった。

 それは怒りだった。


 怒り。それは彼にとって忌むべきものであった。怒りこそ、諸悪の根源だとさえ思っていた。怒りさえなければ、喧嘩はおろか、戦争も無くなり世界は平和になるのに、と思っていた。怒る側も怒られる側も、どちらも嫌な気持ちになるのなら、むしろ怒らなければいいのに、と思っていた。

 だから、彼は怒りだけは認めなかった。


 彼の職業は、教師だった。

 彼は、この仕事に誇りを持っていた。この世の中に、満ち溢れている怒りに対して、対抗し得る人間を育てているという矜恃きょうじを持っていたからだ。実際彼は、常日頃、生徒たちに、怒りという感情が、どれほど愚かで惨めな言動か、説いていた。何があっても怒らない人間になれ、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る