第10話 突撃の雪崩


 空気が震え始めた。


 一つ一つの足音は小さくとも、それが万を超えれば、波となって崖の上に潜むマルガリータ姫の全てを振動させる。


 その発生源は異形であった。


 いや、通常とは異なるものを異形と言うならば、その数量はもはやスタンダードと言っても良いほどに溢れていた。


 良き人が理由もなく無残に殺された遺体を火葬した後に残る灰のような色の肌。


 棺桶の蓋を打ち付けた出来損ないの釘のような、黄色い乱杭歯。


 浴槽で死んだ者の脂肪が流れ出して白く濁った湯のような瞳。


 無縁仏を埋めた場所に、お情けで置かれたような墓石替わりの岩のようなゴツゴツとした身体。


 魔物の軍だ。


 ごく一部の者を除いたほとんどは武器も持ってはいない。


 それを扱う知能も、それを必要とする脆弱さも、持ち合わせてはいないからだ。


 その空気の震えに共鳴したのか、ベニャトの身体も彼の意思に反して、ぶるぶると震えだす。


「……怖いのか ? 」


 彼女の声は、どうしてかこんな状況で、小さな声なのに、よく通る。


「ああ……正直に言うぜ。怖い…… ! あいつらが兵站を……食料を運んでないのは……人間を食うからだ……。先の大敗でも……どれだけの兵士があいつらに食われたか……。……あんな死に方だけは……化け物の餌になって……あいつらの汚らしい身体の一部になるなんて……考えたくもねえ ! 」


 本当はマルガリータ姫の前で弱音なんて吐きたくもないのに、それでも絞り出すように彼は言う。


 そうせざるを得ない圧力が足元の山道を通っているのだ。


「そうか……お前は勇気があるのだな」


「はあ ? 」


 思ってもみない彼女の言葉に、思わずベニャトは無礼も省みずに呆れた声を出す。



「だってそうだろう ? そんなに怖いのにここから逃げないのだから。私よりもよっぽど勇気があるぞ ! 」


 そう言ってマルガリータはベニャトの肩を叩く。


 崖を駆けおりるために軽装となった彼の肩に、直接彼女の手が触れた。


「……ひょっとして元気づけてるつもりなんですかい ? 」


「その通りだ ! 」


 まるで恐怖を感じていないように彼女は薄い胸を張る。


「まったく……あんた、本当は『勇者』なんじゃないんですかい ? こんな状況なのにまるで動じてねえんだから……」


「何を言うか。私のような可憐な乙女にできるのは、精々、ゼロ距離から突きを撃って敵兵の鎧を貫くことぐらいだ ! 」


 マルガリータは愛用の剣を構えて笑ってみせる。


「何を言ってんだ……。あんたが可憐な乙女なら、この世の男はみんな病弱な深窓の令嬢になっちまうよ」


 そんな二人のいつも通りのやり取り。


 それを見ていた兵達は震えが止まった。


「……来るぞ ! 」


 その言葉にベニャトはそっと崖下を除くと、まるで河のように流れる魔王軍の中、緑色の馬のような化け物に乗った一団が目に入る。


 そいつらは他の魔物どもと違い、鎧を纏っている。


「あれですかい ? 」


「ああ…… ! 似たような装備の魔物がいたが、全部違う。あの中にこそ、この大軍を操っている魔族がいる ! 」


 軍神からの託宣を受けて、マルガリータは笑う。


 先ほどとは違う笑顔で。


 まるで獲物を前にした肉食獣のように。


「いいか ! 貴様ら ! この一戦に我が国の命運がかかっている ! あんな化け物どもを我が国へ入れるな ! 我々が死ねば、次は国に残してきた大切な人が食い殺されるのだ ! それが嫌ならば、私に続け ! 」


 兵士達がそれぞれの大切なものを思い浮かべる間に、マルガリータは落ちていった。


 単騎、崖下へ。


「弓兵 ! 撃て ! 歩兵 ! 覚悟を決めろ ! この戦いに勝つにはどこかで命を賭けなけりゃあならねえ ! それが今だ ! 」


 そう叫んで、ベニャトも彼女に続いて崖を駆け下りる。


 雪などどこにも見当たらないのに、まるで雪崩のように、人が流れ落ちていく。


 巨大な蛇のように長くなった化け物の隊列の横っ腹を食い破るために。



────



「……いよいよ始まるね~」


「ああ……」


 まるで衛星写真のように上空から俯瞰した戦場予定の山道を二人は荒い呼吸とともに見つめる。


 小さな青い凸マークが、赤い凸マークで示された敵部隊の一つの側方から突撃していく。


 そのマークの中、さらに赤く点滅する光点に向かって。


「マルガリータさん ! 頑張って~ ! 」


「さっき見たあの崖を駆け下りて突撃してるんだろ。すごいな……」


 夕夏ゆかは、もしそれが株価のチャートであれば、週明けに電車の人身事故が多発しそうなほどの急角度を思い出し、身を少しだけ震わせた。


「それにしても夕夏ちゃん、さっきから興奮しすぎだよ~。ひょっとして坂東武者ばんどうむしゃの血が目覚めちゃった~ ? 」


「ただ関東生まれってだけで、人を武家ぶけ棟梁とうりょうみたいに言うんじゃない…… ! それに興奮してるのはうたの方だろ ? 」


 先ほどから聞こえてくる荒々しい呼吸の主が、自分でなければこのリビングにいるもう一人の人間に違いないという名推理から、二人はそれぞれ、相手が興奮しているという結論を持っていた。


「え~ ? 私は緊張してるけど、そんな息が荒くなるような興奮はしてないよ~」


「私だってそうだ」


 首をかしげる二人。


 彼女達の指にその発声源はあった。


『……ハァ、ハァ……よし……いいぞ…… ! ダメだ…… ! 弱卒どもめ……遅くてマルガリータが囲まれる…… ! 』


 リングだ。


 少し前まで、機械的で抑揚のない中性的な音声であったのが、抑えきれない興奮の坩堝の底から絞り出したような感情的な声となっている。


 二人がその囁きをもう少し鮮明に聞こうとして、リングが嵌められた左手の薬指を耳に近づけた瞬間、それは爆発した。


『ぃぃぃいぃぃいいいいよぉぉぉおおおっしぃぃぃいいいいい !!!!!!!!!!!!!!! いいいいぃぃぃいいいぞおぞおおおおお !!!!!!!!!!!!!!! 弓兵ぃぃぃいいい !!!! もっとありったけの矢を撃てえぇえぇええええええ !!!!!!!!!!!!!!! 薄汚ねえ魔族どもの○○○を○○して、○○に突っ込んで、繁殖できねえようにして滅亡させてやれえぇっぇぇええええ !!!!!!!!!!!!!!! ……った…… ! 殺っったぁぁぁぁあああああああ !!!!!!!!!!!!!!! ざまあみやがれぇえぇええええええ !!!!!!!!!!!!!!! 』


 そしてしばらくして、落ち着いた知能を持つアイテムは、それを装備する二人があまりの爆音に、泡を吹いて気絶しているのに気づくこととなる。


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