15缶目 Poison
「……隣、いいかしら ? 」。
二十代前半であろうか、いわゆる「前髪パッツン」の黒髪のパンツスーツの女性が
常連客である日野と一緒に飲んでいた女性だ。
カウンターの中の
酔っぱらった男性を女性からそれとなく遠ざけた経験ならあるが、女から男に近寄ってくるケースは初めてだった。
(……逆ナンなんてタピオカドリンクでカクテルを作るような都会のオシャレなバーでやればいいのに…… ! こんな田舎の場末のスナックで何してくれてんのよ…… ! それに……)。
零はちらりと、店の奥のボックス席で接客中の母親を見て、ぶるりと震えた。
「……こういう者だけど……最近何かおかしなものを見たとか……変な噂を聞いたこととかない ? 」。
すっと、女が出したものを
「いや、特にないな」。
ごく自然に無表情な彼と違って、零は平静を保つの必死だった。
少し前に自動車窃盗と酒酔い運転のコンボを発動させた酉井が受けているのが職務質問だと理解したからだ。
「そう ? 隠さない方がいいわよ。あなたが何か知っているってことを私は知っているんだから」。
女刑事が少し目に力を込めて酉井を見た。
「いや、何も知らないな。それに俺は生理でもないのに血の臭いがする女が死ぬほど嫌いなんだ。あっちで機嫌よくカラオケを歌ってるオッサンの元へ帰るんだな」。
酉井が顎で示した先にはマイクを握る日野の姿があった。
そして天井近くの壁に備え付けられたモニターには胸を丸出しにした女性が悩ましげなポーズで歌い手を誘惑している。
デンモクを操作してアダルト採点モードを日野が発動させたのだ。
前門の煽り気味なセクハラ男と、後門のベタなセクハラ親父。
そんな状況で女がとった行動は非常にシンプルなものであった。
ゴシャン ! と薄いカウンターテーブルが割れそうなほどの勢いで何かが叩きつけられた。
酉井の頭だ。
突っ伏すようにカウンターにうずくまる彼の後頭部には女の片手が添えられている。
女が彼の頭を少しの遠慮もなく叩きつけたのだ。
「……いいからさっさと知ってることを言えよ…… ! こっちは田舎の警察が全く役に立たなくてイライラしてるんだ」。
奥のボックス席は茫然とした表情の日野と部下の若い刑事、そして都会から来たという中年のすらっとした刑事が無表情でそのやりとりを見つめ、ママは青い顔で今にも倒れそうだった。
そんな望んでもいないのに突然現れた非日常の空気の中、酉井はむくりとごく自然に顔をあげた。
飲み過ぎてカウンターで眠りこけていた客が急に目を覚まして起き上がったかのように。
場末のスナックでの日常の風景のように。
そして少しの変化もない顔で、幸運にもこぼれなかったグラスを持ち、再び口をつける。
「……そう言えばまだ注文の電話してないだろ ? 大分、腹が減ったから大至急頼むよ」。
いつもの穏やかな声だった。
それはこのいつも通りではない状況において、逆に異常だった。
混乱しながらも零は、こんな状況に対して意地でも日常を貫くことが、酉井の理不尽に対しての戦い方なのかもしれない、とふと思うが、すぐにそれを頭の片隅に追いやり、電話をかけるために動こうとして、できなかった。
「え…… ? ぐ……る…… ! 」。
顔を真っ赤にして首もとを抑える零。
「……舐めやがって !! なんの力も感じないから油断したけど、お前『術師』だな !? 抵抗するようならこの女を殺す !! おとなしく言う通りにしろ ! 」。
零はまるで不可視の手に首を締めあげられているように空中に浮かび上がる。
理屈はまるでわからないが、この現象に激昂して立ち上がった女刑事の意志が介在していることは明らかであった。
酉井は手にしたグラスを置くと、ゆっくりと女刑事の方を向いて、口の中の酒をその顔に浴びせかける。
もはや怒りすぎて言葉ではなく獣の咆哮のような叫びを発した瞬間、女刑事はスナックの通路とも言えぬカウンター席の後ろの狭いスペースに倒れた。
瞬間、零は首の拘束を解かれ、大きく息をつく。
しばらく深呼吸を繰り返してから、ようやく彼女は倒れた女を見やる。
土気色の肌に、顔中に妙に赤い発疹、苦しそうな呼吸等々、どうみても先ほどまでの健康な状態とは程遠い。
「……酉井さん、あんたこんな一瞬で
「そんなわけねえだろ。俺は肝臓の数値以外は健康体だ」。
酒飲みのよく言う歪んだ健康自慢を聞き流し、零は問う。
「じゃあこの女の状態は何なの ? 」。
「毒だよ」。
酉井はなんでもないことのように言った。
「毒 ? 」。
「知らないのか ? 『酒は百毒の長』って言うだろ ? 」。
にやりと笑い、彼はその百毒の長の入ったグラスを傾けた。
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