ミルクレープ 中
ミルクレープか‥
小さな頃に比べてケーキを食べなくなり、
たまに食べるとしても妹や母の誕生日に
ショートケーキを食べるくらいだった僕が
ミルクレープに特別な思い入れなどあるわけもない。
「ミルクレープ苦手ですか?」
「いや、別に苦手というわけでは」
「でも、ミルクレープか‥
って残念そうに呟いてましたよ?」
彼女は少し大げさに私のモノマネをして
聞いてくる。
しまった、漏れていたか。
だが本当にミルクレープは苦手というわけではない。
思い入れがないというだけで別に好きでも嫌いでもないし、どちらかといえば食べれるので好きな部類だろう。
でも、どっちでもいい。
「久しぶりにミルクレープって単語を
聞いたので少しびっくりしただけです」
するとクスッと笑って彼女は
そんなにびっくりすることですか?と
右手を口に添えて小さい笑みを浮かべる。
そして、笑い終えた後にガラリと空いた
ショーケースの中からミルクレープを1つ
取り出して僕の目の前に置いた。
「好きですか?」
急な愛の告白かと勘違いする尋ね方だが、
彼女の目はまっすぐで濁りがない黒色だった。
「嫌いじゃないですよ、別段好きというわけでもないですが」
「好きか嫌いかで言えば!?」
「‥‥まぁ好きですが」
「だったら最初から好きって言ってください。ケーキ好きとパティシエに失礼ですよ?」
分かりましたか?と彼女は白いトングを
こちらに向けて強く指摘した。
僕が頷くと彼女は満足そうに笑みをこぼした。
そんな彼女は何かを忘れたように店の裏へと消えていき、店には僕とミルクレープが
残されていた。
幾重にもクレープと生クリームが重なり、
規則正しく並べられた地層のように几帳面な断面は品格すら感じられる。
少しだけ出た唾液を飲み込み、まじまじと見つめていると、奥からガチャガチャと音が聞こえてくる。
しばらくすると白いティーカップに入った
紅茶と小さな小皿とフォークがそれぞれ2つずつ入ったトレイを持って彼女は現れた。
「もうお店も閉めますので、よろしければ
一緒にお茶しませんか?」
年下の可愛らしい女性からのお誘いを
断る男は数少ないだろう、しかも準備まで
してもらった状態を断るのは男として情けない気もする。
だが、明るい店内のせいで忘れそうになるが今は深夜だ。女性がこんな夜中に2人きりでお茶を誘ってくるなんて常識外れ過ぎて
受けるべきか断るべきか分からない。
「ええ‥大丈夫ですけど、大丈夫ですか?」
「何がです?」
「いや、こんな夜中に紅茶なんて、、
それに男と2人きりなんて」
最初の理由はどうでもいい。
問題は2つ目の問題だが気恥ずかしさで声が尻すぼみになって彼女が聞き取れたか心配になる。
「大丈夫ですよ大人になれば紅茶の一杯
ぐらいで眠れなくなる訳ありませんし、
対処の仕方ぐらい分かりますから」
と少しだけ幼さく見える彼女が艶っぽく
笑っていた。
「でも名前も知らない見知らぬ人ですよ?」
「私の名前は
「えっと
もう大丈夫ですね、と満足そうに笑う。
目が点となる僕を尻目に、八尾さんは小さなテーブルに着々とケーキを食べる準備を進めていた。
今まで体験したことのない出来事が
目の前で起こりすぎたせいだろう。
今の時間がどこか
はんぶん夢見心地のように頭の中がフワフワしていた。
準備を終えて、椅子に座って八尾さんは
手招きする。僕は向かい合うように座り、
少し熱くなった頬を隠すようにポッケにあるハンカチで汗を拭うふりをした。
「知ってますか?何でミルクレープは
ミルクレープって言うのか」
「普通にクレープの中にミルクを使った
クリームを入れるからミルクレープじゃないんですか?」
ぶぶーっ、
可愛い女の子か幼い子でないと似合わない
ぐらい八尾さんは元気よく両手でバツを作る。
「正解はフランス語で1000を表すミルと
クレープを合わせてミルクレープです」
うんちくを熱心に聞くタイプではないのだが今の大和は不思議と関心を持って聞いていた。
「大和さん、ミルクレープは好きだって
言ってたのに知らないんだね」
「ミルクレープが美味しいということは
知ってるのですけどね」
「それじゃあ、ミルクレープの発祥はどこだと思う?」
フランス語のミルという言葉から名前が
決まるのだったら、フランスが正解だと思うが、わざわざクイズにすると言うことは
フランスではないのだろう。
ならばここは美食として有名な、
「イタリア‥ ですか?」
「ぶぶーっ!残念でしたっ♫」
先ほどと同じように腕を交差し、
体全体で俺が間違えた事を嬉しそうに表現
していた。
「正解は日本でした。」
「日本なのですか?」
「そう、
ルエル・ドゥ・ドゥリエールで作られたんだよ」
面白いでしょ、とあどけなく笑う八尾さんはまるで九九を覚えた事をひけらかす小学生のように愛らしい。
「日本で作られたのにフランス語とは
意地悪な問題ですね」
「あっ、私のことを意地悪って言いたいの?」
少し不満なのか拗ねた声を出す。
言っては悪いのだが、その姿はとても様に
なっていた。
「では、そのルエルとやらの店で
ミルクレープは生まれ、今もこのように
残っているというわけですね」
「そうなんですよ、でもね‥」
と彼女は少し何かを含ませて言葉を漏らす。
「何か問題でもあったのですか?」
「実はミルクレープは売り始めの時は全然
売れなかったんですって」
「こんなに美味しいのに?」
一口食べるとクレープとクリームが口の中でほどけていき、卵の優しい甘さと生クリームの上品な甘さが混ざり合い、幸福感が口を
満たしていく。
「こんなに美味しいのに」
八尾さんはミルクレープを口に運び、
んー♫と頬に手を当て、ミルクレープの
幸せに浸るように目を閉じていた。
「でも、ある会社がこのミルクレープを
気に入ったらしく、うちの店で使いたいって注文が入ったんですよ。」
ほぉ‥
僕は唸るように相槌を打ちながら紅茶を
飲む。
銘柄は分からないが、鼻に抜ける茶葉の
香りと控えめな甘さがミルクレープの上品な味わいを引き立てる。
最低限の暖房設備と暖かい紅茶のおかげで
冷え切った手足の感覚がジンワリと戻ってきた。
「そして、その会社が大企業だったみたいで
その会社の全国の喫茶店でミルクレープが
販売されて、ミルクレープは大人気となり
今や人気の洋菓子の一つとして地位を確立
したというシンデレラストーリーなんですよ!」
シンデレラではないだろう、と言いたかったがドラマチックな内容ではあるので、
大和はちゃちゃを入れるのをやめた。
「八尾さんは物知りですね」
「ケーキ屋さん、ですので」
ニッと口角を上げて微笑んだ彼女の皿には
もうミルクレープは居なかった。
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