ケーキ屋の帳は、まだ落ちない

ミルクレープ 上

 人生は理不尽なことが多くある。

それらを受け入れられたら、大人になったという事だ。どこぞの人格者の言葉をパクった部長の言葉が疎ましく耳に残っていた。


 月は嫌味なほど完璧で、欠けたところが

見当たらない姿は自分を見下しているようだ。


「帰るか‥」


 誰もいない川のほとりで呟く。

やけに重く感じる荷物を背負い、頼りない足で家に帰る。


 帰り道は興味のないテレビを見ているように風景が頭を通り過ぎて行った。

肌を刺すような冷たい風は僕の熱を奪ってい

く。


 寄るつもりの無かったコンビニで暖を取り、酒とツマミを適当にカゴへ入れていく。


 さっきまで飲んでいた酒はずっと残っているが、意味はなかった。おそらく今から飲む酒にも意味はない。


 店内に流れている聞いたことのある曲は

「月曜から金曜まで仕事を頑張るあなたに エールを」と歌う。


 励ましているようで、これからも苦痛な

仕事が続く事を僕らに刷り込ませているような気がする。


 いてもいなくてもよい店員が年齢確認ボタンを押すように催促してきたのが、今日だけは癪にさわる。


 なんだと言うのだ、周りも自分も。


 明るすぎるコンビニを出て、駐車場の隅に

申し訳程度で置かれた喫煙所で煙をふかせる。


 自分が企画したプロジェクトが頓挫した。

ほぼ自社の企画で決まりかけていたところに

大手の企業が嵐のように現れ、組み立てたものを跡形もなく破壊していった。。


 無遅刻無欠勤と勤めて8年の真面目だけが取り柄の凡庸な中堅社員の俺が背伸びをした結果がこれだ。


 珍しく褒めていた上司も手のひらを返して

僕の企画を非難した。


「だからもっと予算を抑えて

規模をコンパクトにしろと言ったんだ!

失敗した時のリスクを考えるのは社会人として常識だろ!」


 そんな事、プロジェクトの途中で言ってないくせによく言えるものだと文句の1つでも返してやりたいが言えなかった。


 大切に慎重に進めていた自分の仕事が

ゴミに変わる瞬間。小学生の頃、自分の

好きだったマンガを周りの友達がバカにし、

好きだったマンガが宝物からガラクタに

変わっていく。そんな感じだった。


 慣れないことなんてするもんじゃない。

朦朧もうろうとした意識で自分を卑下する大和やまと

フラフラとした足取りで家の近くまで歩いていた。


 意識のない息が白く染まるほど、冷たい

気温は夜と混じり、雪が降っていると勘違いしそうだ。


 マフラーが必要になる夜の道で、大和の

目に入った店がある。

赤茶色のレンガ造りの建物で、店の両端に

ある2つのランタンがオレンジ色に近い

黄色の灯りで柔らかく店を映し出していた。


『cura sun』


 少し筆記体のような流れた文字で看板に

書かれていた。


 こんな店、今まであったか?

ぱっと見の印象は落ち着いた喫茶店だが、

こんな時間まで開いている喫茶店なんて相当

珍しいし、本当に営業してるのか疑問だ。


 今の時刻は深夜1時、普段の大和なら

このまま一目散に家に帰っていただろうが

今日はそんな気分ではなかった。

灯りに誘惑された虫のようにフラフラと

店へと進む。


 カランカラン


 扉を開けると元気の良いベルの音が鳴る。

暖色の灯りに包まれた店内はこぢんまりとしており、入り口から向かって左には

アンティークのような机と小さな椅子が

向かい合うように置かれており、右側は

クッキーやバウムクーヘンといった

小さく梱包されたお菓子が置かれていた。


 正面には白くて大きいショーケースが

置かれていた。


 これはまるで‥


「ケーキ屋さん‥?」


 誰が見ても、紛うことなきケーキ屋だ。

だがケーキ屋はこんな時間まで開いていても大丈夫なのか?


 普通、ケーキというのは日持ちしないから

こんな深夜までケーキ屋さんがオープンしてることなんて無いはずだが‥


 あれこれ考えていると店の奥から

はーい、と高い声が聞こえてきた。

大和は声が聞こえた方に目を向ける。


「お客さんですかー?」


 小動物のようにヒョコリと顔を出した

白いコックコートと茶色いエプロン、

小さなハンチング帽を頭につけた

黒髪ショートの小柄な女性は自然に声をかけてきた。


「えっと‥

 そうですが、まだやってますか?」


「はい、やってますよ!」


 こちらの疑問を全力で打ち消すように元気な声で答える女性は眩いばかりの笑顔でそう答える。


「でも、もうケーキは1種類しか残って

 ないんですけどね‥」


 右手を頭の後ろに当てて、照れ臭そうに

彼女は呟く。


「何が残っているんですか?」


 こんな深夜にケーキなど食べる気など

起こらないはずだが、大和は何の考えもなく

店員に尋ねた。


 すると彼女はこちらを見てニカッと口角を

上げて無邪気そうに口を開いた。


「ミルクレープです!」

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