新任貴族と収穫祭前夜

 マラヤディヴァ国を揺るがす大騒動が一段落した頃、辺境伯領は実りの季節を迎えていた。

 山奥にあるグリタヘイズ村から、領都の新式農園に働きに来た女性エレンは、仲間達と共に朗らかな笑みを浮かべて作物の収穫に勤しんでいた。


「芋も野菜もたくさん取れたし、足も快調。わだすは幸せさあ」


 エレンは昔、左足に酷い怪我を負って自由に歩くことが困難だった。けれど、農園付き病院に勤務する医師達の献身的な手当を受けた結果、症状は見違えるほど良くなっていた。


「……これも、クロードのお陰さね」

 

 エレンは、お忍びで農園を手伝いに来る領主であり、弟分のように可愛がっている少年クロードに深く感謝していた。

 彼は領主になり変わった後、かつて誰もが絶望に目を曇らせていた領を激変させた。

 俯いて地面ばかり見ていた人々が背を伸ばして前を向き、明日に怯えるのではなく未来に想いを馳せるようになった。

 それは、領民達が明日の食べ物にも困る生活から解放されたからかも知れないし、理不尽な罪状で処刑される恐怖が終わったからかもしれない。あるいは、文字や計算を習ったことで、自信がついたからかも知れない。

 ともあれ、クロードが統治を始めて以来、領の状況は日々上向いていた。一時期は餓死さえ噂されていた領の食糧状況も改善されて、当分の間は心配ないようだ。

 そんなある日、彼女はくだんの少年から、こんな誘いを受けた。


「エレンさん、今日の夕刻、農園の東にある作業小屋に来て欲しいんです」

「ふふ。ひょっとしてデートのお誘いかい? 私も罪な女だ。駄目だよ、クロードには侍女さんとか巫女様とか、大切な娘っこ達がいるだろう?」

「いえ、そういうんじゃないんです。どうしても力を貸して欲しくて」

「うんうん。皆まで言わなくていい。お姉さんに任せておきな」


 エレンの記憶にある作業小屋は、農具の修理に用いたり、作業員が軽食をとったりする為の、枯れた木の匂いが漂う簡素な丸太小屋だった。

 しかし、仕事を終えたエレンが扉を開けると、予想もしなかった光景が待ち受けていた。


「小屋の中にあるのは霧、いや湯気かい? 何が起こっているのさ?」


 彼女の司会は一面の湯気に覆われて、まるで見通せなかった。異臭が鼻を刺し、目から涙が溢れ、耳がガンガンと鳴って、息をするのも困難になる。

 どうにか目を凝らすと、天井から吊り下げられたランプと囲炉裏の火に照らされて、毒々しい色の鍋がグツグツと煮立っているのが見えた。

 エレンは慌てて小屋の扉と窓を全開にして、火にも灰をかけて消した。

 風に吹かれて湯気が晴れると、年若い細身の少年、三角巾を被った美しい薄墨色の髪の少女、そしてタヌキに似た小さな金色の猫が、鍋を囲んで苦悶の表情で倒れているのがわかった。


「クロード、しっかりおし。いったい何があったんだい?」


 エレンは、見覚えのある少年に駆け寄って抱き起こした。


「……う、エレンさん。なべにふれちゃだめだ、ごふっ」

「なべって、この鍋か。ひょっとして毒を盛られたのかい? 今、助けを呼んでくるからね」


 エレンは、息をきらせて小屋を飛び出した。

 不安定な左足で大地を蹴り、必死の思いで街道を目指す。

 けれど、完治していない足に無理を強いたのが祟ったか、彼女の身体は大きく均衡を崩してしまう。


「あっ……」

「お嬢さん、そのように慌ててどうなされました?」


 短く刈った白髪に灰色の中折れ帽を被った浅黒い肌の男が、幸運にも町の方角から駆けつけて、転びかけた彼女を紳士的に受け止めてくれた


「あ、ありがとね。実はあっちの小屋で人が倒れているんだ。病院には、まだお医者様がいるかも知れない。すぐに呼んでこないと……」

「ふむ。病院ですが、先ほど見かけた時にはもう明かりが消えていました。私はハサネ・イスマイール。多少ですが、医療の心得があります。緊急時ゆえ、失礼をお許し下さい」

「え、ちょっと、何をするのさ?」


 ハサネは驚くエレンを抱きかかえると、風のような速さで走り始めた。

 彼は農園周辺に張り巡らされた水路を一跳びで越え、踏み荒らされたあぜ道を足音ひとつ立てずに進み、荷物移動のために結ばれたロープの上をスタスタと渡って、あっという間に目的に到着した。


「アンタは、いったい何者なんだい?」

「お嬢さん、驚くことはありません。紳士であれば、この程度、容易いことです」

「そ、そうかい」


 ハサネに抱き下ろされたエレンは、感覚的に理解した。

 クロードで慣れていたつもりだったが、この自称紳士も大概な変人らしい。

 彼は足早に小屋に入ると、二人と一匹の脈を取り、水を飲ませて応急手当てを施した。

 

「ハサネさん。クロード達は、大丈夫なのかい?」

「心配御無用。健康には何の問題もありません。おそらくあの鍋の料理が、とてつもなく不味かっただけでしょう」


 エレンは少し冷めた鍋からスープをひと匙すくい、指にのせて舐めてみた。


「うっぷっ」


 それは目が覚めるほどに甘く、苦く、辛く、えぐかった。

 たとえるならば、星々の輝きにぶちまけられた汚泥であり、灼熱のマグマで煮込まれた千切れ雲の残りかすであり、宇宙を冒涜する七色の光だった。

 

「こ、こいつは、本当に食べ物なのかい?」

「間違いありません。食材の不味さを極限まで引き出せば、このような芸術品にまで至る。人間の可能性に限界はないのだと、今日改めて学びました」

「そんな方向で、人間の可能性を発揮されても困るんだけどっ」


 エレンとハサネが騒いでいる内に、クロードがうめき声をあげて目を覚ました。


「エレンさん、ありがとう。助かったよ。……貴方は、医者なのか?」

「辺境伯様、お初にお目にかかります。領都で刑務所長を務めるハサネ・イスマイールと申します」


 ハサネが一礼すると、クロードは思い返すように頷いた。


「ハサネさん。貴方の名前は仲間達から聞いたことがある。囚人を改心させて社会復帰させる、卓越した手腕の持ち主だって。それに、刑務所で振るわれる貴方の料理は絶品だとか」

「ほう。辺境伯様に我が名を覚えていただけるとは、光栄ですね」

「その、さ。ハサネさん、領役所で働いてみる気はないかな? 貴方のような頼れる大人がいると、心強いんだ」


 クロードはハサネを役所に勧誘しようと試みたが、浅黒い肌の男は灰色の中折れ帽を脱いで、ゆっくりと首を横に振った。


「勿体ないお言葉ですが、今は刑務所長に専念させていただきたい。辺境伯様は、絶望的な窮地にあった領を見事立て直された。けれど、未だ改革は途上にあり、私の職務もまだまだ必要だと考えています」

「……うん。無理を言ってごめん。これからもよろしくお願いします」


 二人の話が一区切りついたので、エレンは彼に外向きの態度で呼びかけようしたが、クロードに機先を制された。


「エレンさん、いつものようにクロードでいいよ」

「わかった。クロード、いったいこの惨事は何なんだい?」


 目つきの悪い少年は所在なさそうに視線を泳がせて、同じように意識を取り戻した三角巾を被った少女と、タヌキに似た金色の獣を振り返った。

 二人と一匹は何やら目配せを繰り返した後、両手をついて平伏し、額を土間にこすりつけて平伏した。

 それはもう、……見事な土下座だった。


「エレンさん、そしてハサネさん。実はお願いがあるんだ。この娘達に料理を教えてくれ」

「えええっ!?」

「……ふむ」


 エレンは、想像もしなかった行為に度肝を抜かれて土間に尻餅をついた。

 その一方、ハサネは穏やかな笑みを浮かべると、フッとまるで溶けるようにその場から消えた。


「上だね。鋳造――鎖っ」


 しかし、クロードは彼の姿を捉えていたようだ。

 すかさず魔法で鎖を生み出して、天井へ向かって投げつけた。

 ハサネは、帽子の内側から掴みだしたナイフで鎖を切り崩し、足音も立てずに着地する。

 しかし自称紳士が次の行動に移る前に、三角巾を被った少女が右手首を掴んでナイフを取り上げ、小さな金色の猫は巨大な黒い虎に変わって出入り口を塞いでいた。


「辺境伯様。秘密を知った以上、協力しなければ帰さないと言うことですか……」


 ハサネは、空中から舞い落ちてきた中折れ帽を左手で取って目深に被り、目線を隠して呟いた。


「いいや。そういうわけじゃないんだけど、他に頼れる人がいないんだ。お給金も払うし、お返しに僕ができることなら何だって協力する」

「ふむ。事情を聞かせて貰っても?」


 ハサネの問いに、クロードはとつとつと語り始めた。

 今季の辺境伯領は様々なトラブルに見舞われたものの、多くの実りに恵まれた。

 その収穫を祝って、近いうちに領都中央広場で祭りをとり行うのだという。

 エレンも、同僚達が盛り上がっていたから、収穫祭のことは耳にしていた。


「その話なら、農園にも届いていたよ。有志が集まって、屋台形式の料理大会をやるんだろう? ルールはひとつ、領で取れた野菜や果物、穀物を使うこと。販売数の多かった屋台は表彰されて、副賞も贈られるって話だ」

「ほほう、それは面白い。刑務所からも人員を募って参加しましょうか」


 帽子で隠れたハサネの目は見えなかったが、彼の唇は微笑を浮かべていた。

 エレンは殺伐とした空気を良くしようと意気込んで、収穫祭についての情報を更に披露した。


「エントリー期限はまだ先だから大丈夫さ。きっと領史に残る大会になると思うよ。優勝候補には、領主付きの万能メイドことレア様や、我らがグリタヘイズ村が誇る巫女ソフィ様、弁当には一家言有ると噂の出納長アンセル様などが名を連ねられているよ。そして一番人気が、新生領軍を束ねる姫将軍セイ様と、片腕の守護虎アリス様さ。私も祭りで御二方にお目にかかる日が楽しみなんだ」


 エレンは目をキラキラと輝かせて言い切ったが、小屋に集まった人員の反応は予想したものと異なった。

 クロードは、彼女が初めて出会った頃に似た精気の欠けた瞳で天井を仰いだ。

 三角巾を被った少女は、顔色を真っ赤に染めて羞恥のあまり身体を震わせている。

 扉の前に陣取った黒虎も、大きな身体を縮こまらせて部屋の隅に隠れてしまった。


「クロード。ひょっとして、まさか――?」


 領の頂点に立つ少年は、無言のまま悲痛な表情で頷いた。

 白髪の紳士もようやく事態を理解したらしい。彼の手から中折れ帽が落ちた。


「辺境伯様。万が一にもこの芸術品を屋台に出品した場合、大惨事になります」

「そうなんだよ。だから、エレンさん、ハサネさん。どうか手伝ってくれ!」


 クロードの魂消るような頼みを断る術は、エレンにも、そしてハサネにもなかった。

 そして、血の滲むような猛特訓が始まった。


――

――――


 時は流れて、収穫祭の前夜。

 太陽が西の稜線りょうせんに沈む頃、領都中央広場には巨大な天幕が張られて、魔法で灯された光が明々と会場を照らしていた。

 本番は明日だというのに、祭りの会場は我も我もと馳せ参じた見物客でごったがえしていた。民衆の熱気に溢れる笑顔こそ、領主となったクロードが為し得た成果だろう。

 出店者もまた、すし詰めに並んだ屋台に入って料理の準備に励んでいた。彼らは互いに試食し合ったり、意見を交換したりしながら、下準備を進めていく。

 領の内外から集まった人々は、参加者の手際を見ながら、誰が入賞するのかを噂していた。

 特に話題を集めているのは、三人の美しい少女と、一匹の獣が参加した四つの屋台だろう。

 すなわち、領主付きの侍女であるレアと、〝湖と龍神を祭る〟宗教の巫女ソフィ、領軍を束ねる姫将軍セイと、守護虎アリスである。

 エレンが会場を訪ねた時間は、ちょうど作業が盛り上がり始めた頃だった。

 彼女が目的の屋台を探して右往左往していると、長く青い髪を白いヘッドドレスでまとめ、桜色の貝飾りをつけた侍女が、役所職員と皿を出しているところに出くわした。


「あれが、レア様。噂以上に綺麗な子だね」


 エレンは、彼女がクロードと一緒にいる所を遠目で眺めたことはあったが、こんなにも近くで見るのは初めてだった。

 赤く澄んだ瞳に、柔らかそうな頬筋、艶めく小さな唇が愛らしい、夜空に浮かぶ月のように麗しい娘だ。

 混沌とした賑わいの中で、レアの所作は際立って美しく、エレンが思わず見惚れるほどだった。まじまじと見つめた故か、不意に視線があった。


「貴女は、エレン様ですね。領主様がいつもお世話になっています」

「れ、レア様。私をご存知なのかい?」

「はい。領主さまが頼りにしていると仰っていました。よろしければ、おひとつ如何ですか?」


 会場に用意された使い捨ての薄焼き小皿に料理を盛られて、エレンはどぎまぎしながら受け取った。


「これは、野菜のおひたしだね」


 近年は、茹でた野菜に調味料をかけた料理もおひたしと呼ばれるが、レアが差し出したものは古典的な手法で、下ごしらえした野菜を出汁に浸したものだった。

 口に運ぶと、まず爽やかな酸味と独特の塩味が広がって、次に野菜の甘みがじんわりと広がった。


「美味しい。初めて食べたよ。こ、これって高級なものなのかい?」

「いいえ。領で採れた野菜を使ったおひたしです。ただ出汁に、あんずを干して塩に漬けたものを加えているのです」


 あんずは隣国の商人達が好んだこともあって、領では昔からよく栽培されていた。

 

「領主さまは、あんず干しの塩漬けが大好きなんです。熱中症対策にもなることから、今後は生産を進めたいと仰っていました」

「へえ、クロードが好きな料理か。うん、美味しかったよ。ありがとうね!」


 エレンは、別れ際に気がついた。

 きっとレアはクロードに惹かれているのだろう。

 ひょっとしたら、『愛する男性が好む料理を広めたい』という意図から、祭りに出店したのではないだろうか?


「クロードには、ああいうしっかりとした伴侶が必要かもね」


 エレンがそんな風に頷きながら歩いていると、不意に近くの屋台から声をかけられた。


「ああっ、エレンさんじゃない。お久しぶり、元気だった?」


 赤いおかっぱ髪の少女が、橙色のジュストコールと若草色のベストを着た上半身を屋台から乗り出して手を振っていた。


「み、巫女様!?」


 まるで太陽のように朗らかな笑みを浮かべた少女こそ、エレンの故郷であるグリタヘイズ村の巫女であり、今はクロードの執事を務めているソフィという少女だった。


「ソフィでいいよ。エレンさんには、わたしもクロードくんもお世話になっているんだから。そうだ、一杯食べていってよ」


 そう言ってソフィが差し出したのは、領民達が昔から食べていたソウルフードとも言える野菜スープだ。葉物に根菜、キノコもたっぷり入って具沢山だ。


「クロードくんがね、収穫祭で食文化を伝えたいって言ってたんだ。だから、わたしが作ったのはこのスープ。皆、これが大好きだったからね」

「はい、ソフィ様。いただきます」


 エレンは、茶碗状の薄焼きをうやうやしく受け取ってスープを口にした。

 亡くなった母親の料理を思い出す、懐かしい味がした。

 心がじんわりと温まって、農作業で疲れていたはずの身体に力が戻ってくる。


「これは素晴らしいです。毎日食べても食べたくなる、そんな懐かしい味がしました」

「あはは、褒めすぎだよ。明日も是非来てね!」


 エレンは、クロードが領主となる前に多くの人々が亡くなったことを思い出した。犠牲者には働き盛りの世代も多く、家庭の味を失った子供達も多いだろう。

 ソフィが作りあげた、当たり前をつきつめた野菜スープは、だからこそ心に迫るものだった。


「……巫女様のスープからは、いつもいつまでもわたしの料理を食べて欲しい。そんな強い想いを感じたよ。良い物をいただいた」


 あるいは、とエレンは思う。


「クロードも、巫女様のように包容力のある方と結ばれるといいんだけどね」


 エレンは、簡素ながらも極上の二皿を得て元気づけられたことから、弾むような足取りで目的の屋台へと向かった。

 最初の目的地は、アリスとハサネ、そして改心した元テロリストの囚人達が出店した屋台だ。

 エレンは今日までの特訓の日々を思い返した。

 丸太小屋で会った日、ハサネは人語を話すモフモフした金色の猫から鍋の事情を聞き出して、はっきりと言い放った。


『アリスさん、貴女は邪悪アレンジャーです』

『ま、まうう……。美味しいものをいっぱい入れたら、もっともぉっと美味しいものができるはずまう。食べられるもので、食べられないものができちゃうなんておかしいまう』

『哲学的な疑問ですが、料理はそう単純なものではありません。足せば良くなるという前提は捨てましょう。素材の味を活かすのです』

『まう! がんばるまうっ』


 アリスは任せておけとばかり、器用に胸を叩いた。

 モサモサした金色の体毛の中で、唯一黒い胸部にあるハート型の模様が揺れた。

 彼女は思いこみのせいか最初こそ手こずったものの、生来物覚えが良いのだろう。

 エレンとハサネの指導を受ける内に、見事料理が出来るようになった。


「エレンさん、こっちまう。まう達のイモ餅は絶品まう!」

「アリスちゃん、いただくね」


 アリスが愛らしい肉球のついた手でエレンを招く。

 彼女が屋台で出した料理は、イモと米を一緒にキネでついて丸めた餅だった。

 アリスは小さなタヌキに似た猫の体と、大きな黒虎の体を使い分けて大量のイモ餅をこしらえたのだ。

 焚き火であぶって薄焼きの皿に載せられたイモ餅は、香ばしく甘かった。


「素朴で甘くて美味しい。頑張ったね」

「まう!」


 エレンの率直な感想に、アリスは飛び上がって喜んだ。


「これだけのものが出来るとは嬉しい誤算でした。入賞は我々のものですね」

「……俺たち、入賞したら、ここの人たちに認めてもらえるでしょうか」

「もちろんまうっ」


 ハサネは満足そうな笑みを浮かべ、不安そうな囚人達もアリスに元気づけられていた。


(本当にいい子だ。まるで大地と風のよう……)


 エレンは、屋台の中でとび跳ねる狸猫娘を眩しそうに見つめた。

 料理を手ほどきする内に理解できた。

 アリスには無邪気さと同時に、ある種の畏敬を感じさせる玄妙さがあった。

 心荒んでいたはずの囚人さえ、彼女を手伝う内に穏やかな表情に変わっていった。

 少しだけ気にかかるのは、アリスがクロードを見る視線が、レアやソフィ、セイが彼に向けるものと同じだということだろうかーー。


「ひょっとしたら」


 エレンは、アリスが猫と虎の姿に何度も変身を繰り返すのを目撃していた。

 もしかすると彼女はいずれ人間の女の子にも、変身できるようになるのではないだろうか?


「クロードも罪な子だね。刃傷沙汰にはなるんじゃないよ……」


 そうしてエレンは目的地に辿り着いた。

 喉に古傷を負った娘や、肩が少し歪んだ青年が、屋台の中から手を振っている。

 かつては酷い怪我だった農園の仲間も、ずいぶんと症状が良くなっていた。

 そして、彼らの中心でてきぱきと作業を進める少女こそ、領軍を預かる総指揮官であるセイだった。

 美しい薄墨色の髪と黒葡萄色の瞳。雪のように白い肌と凜然とした佇まいは、余人の注目を集めずにはいられない。

 レアが夜を照らす月、ソフィが光射す太陽、アリスが大地や風とするならば、セイこそは人が憧れてやまない星空に他ならなかった。

 しかし、そんな彼女は料理について、天才的に不器用だった。包丁捌きこそ卓越していたものの、他はさっぱりだったのだ。

 エレンもまた万事に長じた傑物と聞いていたことから、出会いの日には吃驚きっきょうした。

 セイは恥ずかしそうに頬を染めた。


『面目ない。こんな容姿だからかな。なんでもできると誤解されるんだ』

『で、でも。グリタヘイズ村にいる友人達から手紙が届いたんだ。テロリストの軍勢からセイ様が守ってくださったって、まるで女神のようだったって』

『褒めすぎだ。私が得意なのは戦働きだけだよ。そしてあの時は、棟梁殿が一緒に戦ってくれた。でも、皆の期待には応えたいんだ。だからエレン殿、どうか私に料理を教えて欲しい』


 セイという少女は、人々が抱く幻想を壊さぬよう見えないところで必死の努力を重ねていた。

 クロードが悪徳貴族という幻影に苦しみながらも抗い続けた事と好対照であり、彼と彼女は同志でもあったのだろう。


『棟梁殿は、私と一緒に歩いてくれるんだ』


 セイが頬を染めてはにかむ隣では、彼女の作ったサンドイッチを味見したクロードがひっくり返っていた。


『だ、大丈夫だ。どんとこい。もう一皿……』

『うん。次は自信作だぞ。野菜の酢漬けに海老の塩辛とあんこを混ぜて――』

『ちょっと待った。闇雲に作ればいいってものじゃないの!』


 鍋がああなるのも道理であろう。食材が盛大に喧嘩してしっちゃかめっちゃかだ。

 そのように散々なスタートだったが、セイの熱意と向上心は申し分なく、料理もめきめきと上達した。

 やがて彼女が一角の料理を作れるようになった頃、エレンは収穫祭で、むかごこんにゃく芋とキャッサバを使った一口サイズのヌードルを出品するよう薦めた。


「ほう、わんこそばのようなものか。キャッサバは確か、タピオカの原料になる芋だったか」

「そうそう、大陸の方じゃ飲料や菓子に使われているんだ。クロードが開いてくれた農園でも栽培しているから、使っちゃくれないかい?」

「是非使わせて欲しい」


 エレンの提案を、セイは積極的に受け入れてくれた。


「しかし、こんにゃく芋はどこから調達すれば良いのだろう。領都ではあまり見かけないようだが……」

「こんにゃく芋は、グリタヘイズ村の特産物だから、私が頼めば送ってもらえるよ。今は湖で眠る龍神様が、薬としてもたらしてくれたのさ」

「……そうか」


 エレンにはひとつの夢があった。


「クロードも龍神様も、私にとっては恩人なんだ。だから、この料理は恩返しみたいなものさね。いつか龍神様が目覚めたら、きっとクロードと仲良くなれるから」


 エレンの言葉に、セイは頷いてくれた。

 魚醤ぎょしょうと酒でめんつゆを作り、様々な野菜やキノコ類を薬味として用意する。

 明日の準備が一通り終わった頃、祭りの裏方の準備が終わったのか、クロードが顔を出した。


「セイ、進捗はどうかな?」

「棟梁殿。順調だとも。エレンさんとこの子達のお陰だ。ひとつ食べていくか?」

「そいつは、楽しみだ」


 クロードは、セイが差し出した素焼きのお椀に口をつけて、満面の笑みを浮かべた。


「美味しいよ!」

「うんっ」


 エレンにはわかった。その時、セイが浮かべた上気した顔は恋する乙女のものだった。


(まあ、この子達が幸せならいいのかねえ)


 エレンは想った。

 クロードと彼女たちがいる限り、きっとより良い未来が待っているに違いないと。

 夜が深まっても、会場の熱気はいや増すばかりだ。

 中央広場の近辺には遠方から駆けつけて、泊まりがけで野宿する客もいるらしい。

 収穫祭は、そして新しい領の未来は、いままさに開かれようとしていた。

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