其の十五
「なあ、岬。お前、どこか行きたいところとかあるか?」
ある日の夜、いつもよりだいぶ早く帰ってきた犬神さんは僕が作ったカレーライスを食べながらそう話しかけてきた。
「いえ、特には……」
僕は素直にそう答えると、犬神さんは少し残念そうな顔をして「そうか……」と言った。正直に言えば、今度楓夏が博物館に連れて行ってくれるといっていたので、水族館に行ってみたいと思っていたけれど、さすがに居候の分際で遠くに連れて行ってもらうのは気が引ける。
「でも、いきなりどうしたんですか?」
「いや、な。今度の日曜日、久しぶりに休暇が取れそうだったから岬をどこかに連れて行こうかと思ってな」
「そうなんですか……」
ならばなおのこと、どこかに連れて行ってもらうのは心苦しい。最近犬神さんは仕事で大事なプロジェクトを任されたとかで、帰ってくるのが今までよりも遅くなったり、休日返上で働いていることがあった。そんな中で久しぶりに取れた休暇なら、僕のためではなく自分のために使ってほしい。
「まあ、無理に誘いたいわけじゃない。まだ時間もあるからゆっくり考えておいてくれ」
「わかりました。ありがとうございます」
犬神さんはそう言うと洗面所の方へ向かった。多分お風呂に入るんだろう。僕はその間に食器を洗っておこう。
犬神は風呂に入るために服を脱ぎつつ、先程の岬の様子を思い出していた。恐らく、彼は自分に遠慮しているのだろう。確かに、彼を引き取る前までは残業をしたりして遮二無二働いていたが、引き取った後は周りの勧めから定時退勤をするようにしていて、岬にはその方が普通だったのだろう。しかし今は鬼を追うため、以前のようにかなり遅い時間まで勤務していることが多い。その様子を見て、犬神には休暇を自分のために使ってほしいと思っているのだろう。
実際、犬神も以前までなら迷わずそうしていただろう。しかし、今では岬がいる。犬神は彼がもう一度本心から笑えるようにしたかったのだ。そのためなら自分のことが多少後回しになってしまっても構わない。
「ったく、まだお前は子供なんだから大人に甘えてていいんだよ」
犬神はおそらく向こうで犬神が食べた後の食器の片づけをしているであろう岬のことを思い、ため息を一つついて、シャワーを浴びるために風呂場のドアを開けた。
遠山岬にとって、自分で何もしないことは、すなわち捨てられることだった。父親が死んで、すぐに起こった謎の集団傷害殺人事件のために、彼は小学校に通っていた期間のほとんどを親戚の家を転々とし、そこでは自分のことをほとんど全て自分でやらされていた。中学生になったころに引き取られた叔父の家でも、自分で行動しなければ何もできないままであった。その性質は、自分にとって無関係である人物のもとに引き取られたことによってより強くなっていた。
遠山岬は人間の善性を見知ってはいても、それが自分に向けられるものだとは思わない。自分はどこまで行っても所詮は人殺しなのだ、とそう強く信じ込んでいる。まるで呪いのように。
しかし、霧崎楓夏は特別だった。彼女が彼に向けているのは同じ世界を見ることのできる対等な存在であり、そのことを彼は理解している。だからこそ岬は楓夏に依存のような態勢を見せている。手を離せば消えてしまうのではないかという無意識の恐れが彼にそうさせているのだ。
そしてそのことに、岬も楓夏も気づいてはいない。気づくことが、出来ない。
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