手汗物語

大海 樹鈴

第1話

 目の前に、バラの花を全身に纏ったドレスを着た先輩がいて。

 ”先輩、それは学祭で着る為のドレスだって言ってたじゃないですか”

 ”どうして今着ちゃうんですか。真夏に長袖は暑いですよ”

 僕は、口にはしなかったが、心の中でそう発する。

「手、離して」

「でも、そしたら先輩が……」

 ”落ちてしまいますよ”その言葉は、続けなかった。

「大丈夫」

「離しません」

 目の前の彼女は、学校の3階にあるベランダから今にも落ちそうになっている。

たった僕の腕一本で地と繋がっている状態である。離していい。なんてそんなのただの強がりだ。

「すごい汗」

 僕の悩みの種はこんなときでさえ、困難を増させる。僕が非力なせいで。たった一人の大切な人でさえ引き上げてあげることが出来ない。

「すみません…」

 8月の日差しは、とても強い。例え手汗かきでなくとも、すぐに全身から汗を噴き出し、いてもたってもいられなくなるほどだ。僕の手はもう大洪水で、先輩の腕を伝って先輩の顔にまでぽたぽたと垂れているのが見て取れる。

 気持ち悪くないかな。それは、僕の手汗ではあるが。何故か先輩の涙のように思えた。

 先輩の体重すべてが、腕一本により支えられている。ものすごい負荷が肩にかかっているのだろう。すぐにでも脱臼してしまいそうなほど、先輩も額に脂汗をかいている。僕の手汗と、先輩の脂汗が混じり、先輩の頬を伝っていく。

「いいの」

 先輩は、苦しいのをこらえて精いっぱいはにかんでみせた。よくもまぁそんな余裕があったものだ。先輩もまた火事場のバカ力だったのかもしれない。

 目の前で失って、二度と会えなくなってしまうかもしれないというのにその儚い笑顔に。僕はこの人をなんとしても守らなければ。強い決意を胸にしたのである。


 こんなやりとりを僕らは、どの位の時間行っていたかはわからない。一瞬だったかもしれないし、1時間だったかもしれない。ただ、先輩にとって悠久に限りなく近い時間だったことには違いないだろうと思う。そこまで、苦しめてしまった事を僕は後悔している。


 その悠久を引き裂くことになったのは皮肉にも僕たちと関わりのないはずの野次馬達だった。

 世界は、どうやら僕たち二人だけでは回ってはいないらしい。

 真下のグラウンドには人だかりが出来ている。僕たちの騒ぎを聞きつけて、部活動中であった生徒たちが集まってきたのである。

「マットもってこい!」

上級生の怒声と共に、陸上部が高跳びに使う分厚いマットが。体育館で練習していたバレー部やバスケ部も体育館の備品のマットを用意してくれたようだ。

「おーい。ここに飛び込めー」

「ほら、もうダイジョブだから」

 マットの存在に少し気が抜けたのか、先輩の手の震えはやわらぐ。とはいえ、3階から落ちたらマットがあるからと言って無事では済まないだろう。そして何より……一人で落ちるのは怖いに違いない。


 だから僕は……。


「嫌です。どうせ死ぬなら先輩と一緒がいいです!」

「なんて迷惑な!」

 先輩は、苦しそうな声を振り絞って怒った。

「僕も一緒に落ちます」

「……君って本当にバカ」

 それでも先輩は、ちょっと嬉しそうだった。涙ぐんでいたからだ。

「本望です。それに、何も聞かない先輩の方がバカです」

「なにそれ」

 ああ、先輩の顔は本当にぐるぐる変わるなぁ。

「僕は見つけてきたんですよ」

「何を……?」

「もし生きてたら全部話しますよ。先輩」

 僕は、先輩の手を渾身の力で握り、胸の高さまである柵をひょいと乗り越える。火事場の馬鹿力とはまさにこのことか。 

「………っ」

 彼女の、恐怖に歪んで泣きそうな顔を見るのは初めてだ。

 ”やっぱり怖かったんじゃないか”

 僕はなぜかとても愉快な気持ちになる。

 飛び出した先は空中で。足は空をかきながら下へと落ちていく。自由落下とはまさにこういう事かと実感する。実際落ちている時間はとても短いのだろうけども。まるでスローモーションのように感じて。もちろん自分の動きもスローモーションなのだが、どうにか先に落ちた先輩を抱き寄せた。

 ”これ下のやつらにはパンツ見えてるんじゃないのかな”

そんな下世話な想像をして。

僕が背中から落ちて先輩のクッションになることぐらいはできる。思った通り上手くいって僕は背中から陸上部の用意した厚いマットに落ちることに成功したのだが。あまりの衝撃に、着地するとともに意識を失うのであった。


”あーあ。これで先輩に後で怒られるに違いないな”


 今、真っ暗な何もない世界に僕はいる。

 どうしてこんなことになったのか。事の初めである先輩との出会い。そこから語る必要があるだろう。

 まるでビデオの再生ボタンを押すかのように記憶のスイッチを入れる。


 先輩と初めて会った日、それは今から3か月半前の4月の終わりだった。


                ※※※



 僕は手汗かきだ。そのせいで放課後はいつもハンカチを洗いにいかなければいけなくなる。


「っあーっ。水きもちぃいいいっ。」

 水道で、水を頭からかぶる運動着の男性生徒。

「おい、みっともないから水被んなよー。隣の二年生ひいてるぞ…。」

 頭を振って水を飛ばす男子生徒をたしなめるように、同じユニフォームの相方がタオルを差し出した。そして水をかぶった男はこちらを振り向き、謝罪した。

「おっすまんすまん。かかったか?。」

「…いえ。大丈夫です。」

 僕は、上級生と目を合わせることなく静かにそれを受け入れる。幸いにも水しぶきはかかっていない。むしろ話のダシとして使われてしまったことの方が不幸だ。

「うい。休憩終わりだってよ。次の練習メニュー何かなぁー」

 ばたばたと足音を立てて、ユニフォーム姿の上級生は練習場へと戻っていった。その姿を僕は目で追う。高校最後の青春ってやつか。彼らはどうにも僕には眩しくって。

 同時に自分のやっていることの虚しさを実感させられるようで、体育会系の部活というのはどうも苦手だ。

 それでも僕はいつも、この場所に来る。

 学校のグランドに面している校舎内の水飲み場は、放課後の時間帯になると部活動を外でしている生徒達にとても人気がある。本来は部活もやっていない制服姿に上履きという明らかに運動しない格好をしている僕のほうがいるべきではないところなのだ。

 生徒の目を避けて濡れたハンカチを洗いに来るにはとても都合の良い場所だ。人が流動的に動いているから立ち止まらないのだ。誰も僕がハンカチを洗っていることに手を止めたりしない。哀れんだり、しないのである。

 僕の体液でびしょびしょになったハンカチを、手と共に綺麗にする。匂いがしみ込んでしまわないように、時間をかけて丁寧に。手の中でくしゅくしゅと揉む。手が痛くなるほどに固く絞ったハンカチで手を拭く。そして、気持ちだけでもハンカチが早く乾くように両端を持ってばさばさと広げる。そんなことをしてもすでに僕の尻ズボンは、一日かけてハンカチが吸い取った自分の手汗で、まるで漏らしたみたいになっているけども。


 そう、僕は手汗がひどい。緊張すると特に酷くて、ノートの上に水たまりを作ってしまったことすらある。

 特に2年生に上がってからは悪化する一方だ。高校とは思えないような、いや教師とは思えないような酷く性格のゆがんだ担任に出会ってから。

彼の名は、矢沢。理科教師をやっている。東京の有名私立大学を出ていることを鼻にかけ、とにかく横暴で、面白くもない揶揄を繰り返す。同級生も皆矢沢にはうんざりしている。そのおかげで、矢沢による僕の手汗のからかいが、幸いにもいじめに発展することはないのだが。

 むしろ同情の視線をくれることが手汗を一層ひどくしてるとは思いもしないだろうな。おかげでクラスでは浮き気味で、馴染めずにいる。

 今日は放課後に担任の所に行かなければならない用事があったんだった。

 担任の揶揄する時の表情と、声を思い出しただけだというのに。洗ったばかりの手はじっとりと濡れる。嫌なことを思い出してしまった。

 僕は念入りに石鹸で手を洗うとわざとハンカチで拭かずに空中で手を振り自然乾燥させる。手を乾かしながら、靴箱の前、音がする床を音を立てて通る。

 すぐに帰宅する生徒はもう帰っていて、部活している生徒はまだ帰らないこの微妙な放課後の時間に下駄箱にいる生徒は僕だけだ。しーんという効果音がしそうなほど静かで。

この世界には僕以外もう誰もいないんだと言われても少し信じてしまうかもしれない。……まぁそんなことは決してないのだが。

 そんな僕のバカげた妄想を砕いてくれたのは、この世で一番憎い声を持つ人だった。

「そりゃいいなー」

 下駄箱からそんなに遠くない位置にある、理科室から。よく聞いているのとは少し違う女子に対して色目を使っている時の、気持ち悪いネコ撫で声。担任の出す周波数が耳の鼓膜を揺らす不快感。

 それとは別の、凛とした声も聞こえる。こっちは悪くない声だ。彼女は担任の、お気に入り女子なのだろう。容姿までは見える位置にいないが、美人を連想させる、いい声だ。

「宮澤ぁー。重くないかぁー」

「いいえ、先生。大したことないので」

「先生が、持ってやるぞー」

「大丈夫です」

 先生の靴が、きゅきゅっと床と擦れて音を立てる。

「そうかー。宮澤は本当にすごいよなぁー。」

「そんな、すごいだなんて」

「謙遜なんかしなくていいんだぞぉ。これが初めてってわけじゃないんだからさぁ」

 なんのことを言っているのか僕には全く分からない。がしかし、なんとなく担任の言葉がいやらしい気がする。足を速めて姿が確認できるところまで近づく。

 どうやら姿が見えなかったのは理科室の中で会話をしているからだったようだ。ドアを開けっぱなしにしていることから長く居座る気はないようだ。思わず理科室のドアからは死角になる廊下の柱に身を隠し、会話に耳を傾ける。

「宮澤、これも持っていくんじゃないのか」

「ああ、そうでした。先生ありがとうございます」

「でも、手が塞がって持てそうにないよなぁ」

相手の弱みに付け込もうとするなんてまるで、やり手のナンパ師だ。

「そうですね…申し訳ありませんがこっち持ってもらえますか?」

「あぁ、もちろんだよー。女の子が重いものなんて持つもんじゃないからなぁ」

 少しして段ボールを抱えている女生徒と、像のようなものを抱えている担任が理科室から出てくる。デレデレした表情がとても気にくわない。

”……生徒に対してなんて顔してんだよエロ教師”

 心の中ではそんなことも考えられるけども、実際に言ったりはできない。担任のうれしそうな顔に汗腺は開き、じわりと握りしめたこぶしの中に水分を閉じ込めた。この汗はきっと僕の心の涙だ。2人は僕には気づかない様子で廊下を歩いていく。僕の向かいたい職員室と同じ方向に。これは都合がいい。

 ”うん…そうだ。ただ、職員室に向かっているだけなんだ”

 自分を言い聞かせるようにして。息をひそめて、足音を消して。まるで忍者になったつもりで二人の後を追いかける。別にこそこそとか、する必要はないんだけれど…。それでもなんとなく、のぞき見をしているような、そんな感覚があって。

2人はたわいもない会話を続けなが廊下を歩く。

「宮澤、そういえばこないだの全国模試かなり良かったんだって。○○大も行けるなー」

○○大学とは、担任の出身校だ。こんなところで母校自慢を始めるなんてなんて野郎だ。

「私としては少し不本意なんですけどね。」

「不本意?そうかもっと上を狙えると……」

「いえ、何でもありません。それより先生、こないだの化学の授業で有機化合物の復習をやりましたけども……」

「ああ、それは云々かんぬんでなぁぺらぺら……ぺらぺら……」

 話題は女生徒のクラスの理科の授業へと移ってしまい、途端についていけないような高度な会話が廊下を飛び交う。やっていない範囲の話をしているのかも分からない。僕は理系科目が得意ではないのだ。

 放課後の廊下もとても生徒に人気がなく。僕と、担任と、女生徒しかいない。二人の会話が鉄筋コンクリート製の建物で反響するのが耳障りだ。どうぞ早く用事を終わらせてくれ。

 会話は職員室の前に入ると一旦途切れる。結局目的地は職員室だったようだ。

 担任が職員室のドアを開けることを苦戦してそれどころではなくなったからだ。そういえば理科室のドアは足で閉めてたのか。さすがに、職員室のドアは足で開けるわけにはいかないらしい。

 仕方なしに、僕はすっと前に出て職員室のドアを開ける。汗で滑りそうになる。心臓が大胆に主張し、格段に血の巡りがよくなった気がする。無言の手助けを二人は特に疑問には思わなかったようだ。

「おお、ありがとな」

「ありがとう」

 担任と女生徒は軽く挨拶をすると、職員室の中へと消えていった。そこからの会話は、職員室内の多くの先生たちや質問に来ている生徒の声でかき消され、捉えることができなかった。しかし、女生徒の感謝の言葉はやけに心地よく耳にまとわりついた。

「はぁ」

 職員室の入り口の横の壁に背中をつけ、息を吐く。…緊張した。こぶしを作らなくとも汗が床へと流れ落ちていく。

 いけない…ハンカチで拭わないと。尻ポケットが水分を吸収して少し乾いている生乾きのハンカチで。呼吸が再び整う程時間が経ったころ、音を立てて職員室のドアが開く。

「先生、では失礼します」

先ほどの女生徒だ。こちらに気づいた様子だったので、うなずくように首から頭を下げる。目を合わすことはできない。

 女生徒も、同じように会釈を返し。そしてすっと、ぷるっとした唇が、すっと離れた。 

「ずっと後をつけていたみたいだけど。君、私のストーカー?」

「ははは、ストーカか。ついてきてたのか?」

 担任は職員室のドアのレール上に立ち、女生徒の後ろから声を投げかけるようにして言った。その言葉の矢は冷たく僕の心に突き刺さり、連動するように手から汗が滝の様に流れ出る。さっき拭いたばかりなのに。

 いけない、垂れてしまう。とっさにワイシャツの袖口を握りしめ水分を吸収させる。手首まで濡れてしまい気分が悪くなるが、床に汗を垂らしてしまう事よりかは遥かにましだ。それで担任に存分にからかわれるよりかは。

「ちっ違いますっ。せっ、先生に用事があったんです」

「そっか、ずっとあとついてきてたから」

「宮澤ぁあ知ってるか? こいつ俺のクラスの生徒なんだが、手汗がひどくてさ、プリントなんて字が滲んで読めなくなるほどなんだぞ?」

「へぇ、面白いですね」

 女子の苗字は宮澤というらしかった。こちらを振り返った彼女に目をやると、とても綺麗な顔をしていて驚いた。雪のように白い肌。鼻筋が通っていて、健康的な唇、目は少し目尻が吊り上がっていて、誰もがうらやむような睫毛を持ってる。

 一瞬見ただけでわかるほど嫌味なくらい彼女は美人だった。彼女を視界に入れてしまったが最後、決して他の物を見ることができないほど。彼女ほど完成された美が他にあるのかと思える。

 学校の均質的に作られた制服の布地でさえ、彼女の美を最大限引き出すための道具としてその命を受けてしまうのだ。そして、制服は美、だけではなく学年も示してくれていた。学年カラーによって決まっている指定のゴム紐リボンは、最高学年に与えられた色である赤だ。白の天使の首元を彩る赤。

「宮澤。靴下落ちてきてるぞ」

担任の言葉に先輩は体を傾げる。そして、足元へと視線をずらす。

「あ、本当だ。先生ありがとうございます」

 靴下を引き上げようと手を伸ばして。更に体を傾ける。先輩のブレザーの左ポケットから、からからと音を立てて。つるつるとした廊下の床の上を何かが滑る。偶然それは僕の手の届くところで止まった。

 先輩も、先生も、落とし物をしたということには気づいていなかった。

 ただ一見してそれが学校に持ってきて良いものなのか分からない白い装飾品のようだったのですぐに拾い上げて返すのにはためらった。

 先生に見咎められては、僕も先輩も都合が悪い。と思ったからだ。

 先輩はそのまま気づく様子もなく立ち去り、先生も一言二言僕に用事の内容を告げると面倒くさそうに職員室の中へと引き返していった。

 廊下には僕一人が取り残されることとなる。

 この落とし物…どうすればいいのだろうか。

 僕は、物が濡れて壊れてしまうようなものではないことを目で確認してから拾い上げる。掌にすっぽりと収まったそれは、やはり装飾品とかおしゃれに使うもののようだった。

 アーチ状の白い板に同じく真っ白なバラの花が散りばめられている。そういえば母さんがこんな感じの髪留めを持っていたかもしれない。夏祭りとかそういう時に使うような物の一種かも知れない。

 僕は、落とし物を先輩がそうしていたように制服の上着の胸ポケットへとしまう。

 やけにしっくりと馴染んで、そこが定位置であるかのように膨らみを見せた。

 明日、そう、明日返しに行こう。

 家に帰る間にも落とし物の存在が気になってなんどか存在を確認するように僕の湿った手を上着の胸ポケットに当ててみた。

 ごつごつとした突起が手に感覚として伝わってくる。

家に帰ってからも、なんとなく自分の部屋のベットに横たわりながら胸ポケットから出して眺めてみる。

 悪いことをしたわけではないが、何とも言えない罪悪感が僕を襲う。

 もし、僕が拾ったことを知ったらあの先輩はこの装飾具がもう使いたくないと思うかもしれない。気持ち悪いと思うかもしれない。でも、明日返しに行かなければならない。緊張でまた手が湿り、装飾具を伝って顔へとぽたぽたと汗が垂れた。

 ……気持ち悪い。うん、やっぱり今日も僕の汗は心地よいものではない。


 翌日用を済ませるために早い時間に学校へ向かうと、先輩が職員室の前の廊下をうろうろしていた。とても不安そうな様子で。

「おはようございます」

 僕は声をかける。

「あっ昨日の君……」

先輩の目は少し赤かった。

「どっ、どうしたんですか」

「昨日なくしものしちゃって。ここに落ちてるかと思ったけどなかったんだ」

無理に笑顔を作っているかのような不自然な表情に心が痛む。

「もしかして……これですか」

 先輩の表情は驚きに変わった。目をまん丸にして。見開いたことにより、いかに目が充血していたかが明らかになる。

「そう、これ。どうして君が持ってるの?」

「昨日拾ったんです。先輩が行っちゃった後に。髪飾り……ですか?」

「ありがとう。うん、そう。これ、バレッタっていうの。」

 いつの間にか先輩は、僕の目の前に来ていた。指でバレッタをつまみ上げると、すっと元あった位置にしまった。一瞬の出来事で僕の手は空に浮いたままだ。

「バレッタ……」

「髪留めなんだ」

 先輩は手で髪をかき上げた後、軽く目を閉じてそっと僕の左手をすくい上げるように触れる。手汗でふにゃふにゃになった指に、細くて白い指を滑らせ呟くように言った。驚くほどにやさしい声で。

「君の手。しっとりしてる」

 恥ずかしさに耐え切れなくなる。指を空中に逃がそうとするが、手の全体を使って僕の手のひらを抑え込む。そして細い指を複雑に絡め逃亡を阻止する。緊張がひどい。境界が分からなくなるほど僕の手は汗で濡れていて、美術品のような先輩の指も塩水の中に浸かっている。ガラス玉のような透き通る先輩の目は僕の目の中心を捉え、視線を逸らすことを許さない。周りの音がまるでノイズキャンセラーイヤホンをつけている時のように聞こえなくなった。先輩と僕しかいない世界にいるのではないかという錯覚さえ感じる。

「放課後お礼がしたいんだけど」

 先輩の言葉で現実に引き戻された。ああ、そうだ。ここは職員室前の廊下で、皆が登校するには少し早い時間だ。

「えっあの……」

「忙しい?」

 一点の曇りもなかったガラス玉に影が差し込む。眉がきゅっとより、唇はへの文字を作っていた。不安と相手に伝えるための表情だ。彼女にそんな顔をさせて断ることの出来る男なんて存在するんだろうか。彼女の困惑の表情は、楽しそうな時のそれと変わらないくらい美しくてまた僕の意識なぞと関係ないところで体は動き、首をゆっくりと左右に傾ける動作を行っていた。

「よかった」

 ころころと表情を変える豊かな人なんだな。さっきの悲しそうな顔は作っていたのかもしれない。これだけ美人なら女優志望なんていうこともないわけではないだ。

「じゃあ、放課後3年A組に来て」

「それは……」

 先輩の教室に来いということだろうか。

「わ、分かりました」

「そういえば君、名前は?私は宮澤ぽぽろ」

「えっと、市ヶ谷いちがや優人ゆうとです」

「よろしくね。いちが“ゆ”君」

「えっと……その、いちがやです」

「噛んだの。じゃあガユ。ガユくんねっ」

「い、市ヶ谷ですってば」

「それじゃあ。また放課後」

 まるで僕の話を聞いていない様子の先輩は急に話を切り上げる。

 先輩はひらひらと手を振りながら教室へと向かっていった。さてと。取り残された僕もいつまでも職員室の前に佇んでいても仕方がないので教室に向かった。

 まだ、早い時間で誰も教室に来ていなかった。朝早く起きたので眠気が襲ってくる。HRが始まるまでの間、僕は少しばかり仮眠を取ることにした。


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手汗物語 大海 樹鈴 @haretoyuki

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