第15話 ネズミとわたし
白いネズミは軽快に飛び跳ねながら駆けていく。
一方、後を追う私の息は荒い。
この新しい体はあまり運動機能に優れていないようだ。女であったイザベラの方が持久力、反射神経ともに高いと感じる。
まったく。損すぎる交換をしたもんだ。
やがて、ある扉の前でネズミは足を止めた。
あの先へ向かえということだろう。私は背後を振り返りながらも、扉の前へと急ぐ。
そうして辿り着いた扉は、これまでと同様、重厚な金属でできており、右隅に開閉ボタンがあった。
ただ違うのは二つ。上部に描かれた『研究所』の文字、そして扉の中央やや上にある黒いレンズのようなもの。
コイツは生体認証システムか? 位置から考えると、網膜もしくは顔認証。
ならば登録された者しか通過できない訳だが。
ちらりとネズミへと目を向ける。
すると彼は、「どうしたの? なぜ開けないの?」とばかりに首をかしげた。
チッ、ずいぶんとあざとい仕草をするもんだ。
「扉が
そう言うと、開閉ボタンに手をかけた。
――――――
扉の先は新たな区画へと繋がっていた。
心配であった生体認証システムも問題なく、小さな電子音と共に扉は横に大きく開いた。
これでひとまず安心か。追ってきたとしても、イザベラでは認証は通るまい。
薄暗い一本の通路を奥へと進む。
周囲を照らす明かりの数は徐々に増え、左右の壁についた扉を浮かび上がらせる。
扉にはどれも、キンバレリー・ケイツ、ジョアン・ホプキンスなど人名と思わしきタグが貼り付いており、中は個室になっているのだろうなとの想像を
そんな中、私を先導するネズミは迷うことなく進み、やがて、B.J・シュタイナーのタグがついた扉の前で立ち止まった。
ここか。
振り返り、こちらをじっと見つめるネズミに、こここそが、彼が連れてきたかった場所なのだと確信した。
今度は
『B.J・シュタイナー』それが恐らく、この体の持ち主の名なのだろう。
私にとって名前など単なる記号でしかないが、知っていて困るようなものでもない。頭の片隅にでも置いておくとしようか。
部屋の中はこれまでとは違い、比較的綺麗だった。
だが、それもあくまで外の荒廃した状態と比べてだ。
卓上を埋め尽くす書類の山と、それを割って生える付箋だらけのモニター。
床には棚に収納し切れなかったであろう書籍たちが、高く積み上げられ、雪崩を起こしている。
壁際の横長机には、何かを飼育していたのだろうか透明のアクリルケースが多数並び、唯一片付いた机にあるのは、顕微鏡や遠心分離機といった各種分析機器だ。
なるほど。B.J・シュタイナーは科学者か。ここが彼の研究室。
はてさて、その科学者と、この風変わりなネズミとはどういった関係があるのか。
改めてネズミを見る。
真っ白な体毛。体格はドブネズミと比べて、ふた周りは小さい。
ハツカネズミか?
私の視線を受けたネズミは、書類の山や引き出しの取っ手を巧みに使い、机の上へとよじ登る。それから足元を見て、一声鳴いた。
ハイハイ、わかりましたよ。引き出しの中を見ればいいのだろう?
妙に賢い奴だ。コイツが喋れればかなりの情報を得られるものを。
まあ、知能が高ければ高いほど、罠の存在を考慮しなければならないが。
警戒しつつ、引き出しをあける。
すると中には、一冊のノートがあった。
特に代わり映えのしない、普通のノート。
パラパラとめくり、内容へと目を落とす。
三月九日
投薬を始めて二日目。特に変わった様子はない。
体温39.1度。平熱である。
三月十日
体温39.9度。少し高いが体調による変化の範囲内といえる。
エサも通常どおり、
三月十一日
「おはよう、いい朝だね」と、今日も日課となった挨拶をかわす。
「キー」と返事が返ってきた。それから鼻をヒクヒクさせ、食べ物の匂いを捜し始める。
まさか返事をした? と一瞬驚いた。だが、鳴いたのは単なる偶然であったようだ。その後、話しかけても反応はなかった。
全く。彼にとって私は、体をいじくり回す嫌な奴なのだと同時に、エサが発生する合図だとも認識されているようだ。パブロフの犬だな。
ここでページをめくる手を、いったん止めた。
これは観察記録だ。たぶん……ネズミの。
何だ? これを見せたかったのか?
分からない。少しページを飛ばし、再び読み始める。
三月二十日
何ということだ。
知能が急速に発達している。信じられない。この速度はあまりに異常だ。
なんというのか、すでにこちらの言葉を理解しているフシがあるのだ。
むろん意味を理解している訳ではない。イントネーションにより判断しているのであろうが、こちらが発する言葉の種類によって違う行動を起こすのだ。
もしかしたら根気強く単語を教えていけば、言語そのものを理解できる日がくるのかもしれない。
三月二十一日
今日は更に驚くべきことがあった。
私が指差した方向へと目を向けたのだ。
指そのものではない。指し示したその先だ。
本当に驚くべきことだ。これは自己中心的視点からの
なぜなら、知能の低いものは他者の視点に立って考えることが出来ない。
あくまで己にとってどのように映っているかだけしかない。
すなわち、他者の行為の先を類推することができないのだ。
これらは人の乳児とて同様だ。一、二歳になって初めて有する概念と言えよう。
今後が楽しみだ。
それからはまるで親が子供に言葉を教えているかのような内容が続いた。
……言葉を覚えるネズミか。すごいことであるのだろうが、私にとって特段面白いものではない。
パラパラと読み流していく。
…………
……
五月三日
奴が来た。ベン・カフスマンだ。
彼は更なる新薬を試してみてはと、数本のアンプルを持参してきた。
少し性急すぎるのではなかろうか?
新薬は今ある薬でしっかりと記録をとった後、次の世代で試すべきだ。
同時進行はできない。これ以上は手が回らない。
ここで私は再び手を止めた。
――ベン・カフスマン!
なんと、初めて海底都市へ来たときに乗っ取った男の名ではないか!!
偶然か必然か。先を知ろうとページをめくる。
五月七日
再び奴が来た。
なんと彼は、今ある実験体に新薬を投与してはと提案してきた。
新たな個体ではない。旧薬を射ち、言語を習得しつつある被検体7723に対してだ。
そんな事はできない。
私はふざけるな! と怒鳴ってしまった。
早まったことをした。
私はこの男が好きではない。しかし、彼の持ってきた薬は驚くべき成果をあげているし、彼の所属するコミュニティーからの金銭的援助がなければ、研究を維持できない。
うまく折り合いをつけられるだろうか。
五月十日
あれからベンは何も言ってこない。強引な彼のこと、不気味ではあるが今は実験に集中することが先決だ。
だが、念のため武器を用意しておこうか。
携帯する以外にも、もう一丁、素早く取り出せる場所に貼り付けておくのだ。
五月十五日
被検体7723との意思の疎通に成功した。
粘り強く単語を教えた甲斐があった。
しかし、いくら知能が高くとも喋ることのできないネズミ。
こちらが一方的にする質問に対して、YesかNoで答えるのみだ。
残念だ。すでに自我というものが生まれているに違いないのに。
五月十七日
ちょっとした機械を作ってみた。
押している間だけ音が鳴り続けるという、ごく簡単なもの。
そうだ、モールス信号だ。これで彼自身がどのような発想をするのか知ることができる。
教えることがさらに増えた。だが、彼ならなんなく覚えてくれるだろう。
ああ、会話する日が待ち遠しい。
ノートはここで終わっていた。
だが、途中ではない。最後のページだ。
ならば二冊目があるはず。しかし、引き出しを探ってみてもノートはなく、奥に手押しのブザーがあるだけだった。
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