一章 ベン・カフスマン
第2話 アダムの新しい体
蓄音機から流れるのは、どこか懐かしい音楽。
タバコを咥えると、マッチを擦る。
ゆっくりと息を吸う。小さな炎が揺らめき、タバコの先端へと吸い込まれた。
やがて肺へと流れ込んでくる煙が、やけに心を落ち着かせてくれる。
――ゴホリと詰まった咳が出た。
どうもこの体の持ち主は胸を
原因はタバコだろう。それもかなりのヘビースモーカーだったらしい。上を見上げれば、天井に染み付いた黄色いヤニが目に入る。
……健康には留意してもらいたかったね――俺の為に。
持っていた身分証によると、名前はベン・カフスマン。
身長は180前後といったところか、筋肉はあまりついていない細身の男だ。少なくとも肉体労働者ではなかったことが伺える。
年齢は不明。肌の質感から考えるに、50~65だろう。
しばらくはこの体で過ごさなければならない。
ちと厳しいが仕方がない。まあ動けるだけマシとしておくか。
1885年生まれと記載された身分証を放り投げると、窓の外へと目を向ける。
分厚いガラスごしには、下から湧き上がるいくつもの泡、水草と苔のついた金属パイプの間を縫うように泳ぐ魚たちが見える。
なかなか
ここは海の底。言わば海底都市だ。
レトロなデザインにも関わらず、現代でも建築不可であろう高度なテクノロジーを内包する不思議な場所だ。
――そろそろ行かねばならない。
椅子から立ち上がると、机の上のレンチを手に取る。
はたしてこれで奴らに対抗できるか。
金属性とはいえ、単なるボルトを締める工具でしかない。
だが、動かなければ待っているのは飢え死にだけだ。
まったく、FBIのクソ野郎どもめ。いらぬ手間をかけさせやがる。
見ていろ。こんな牢獄なんぞすぐに抜け出して、元の場所へと帰ってみせる。
ふーと息をつくと、この部屋唯一の出入り口を開いた。
ピチョン、ピチョンと水滴が落下する音が響く。
音の発生源は分からない。
周囲は暗く、立ち並ぶ金属製の柱がさらに見通しを悪くしている。
床へと目を向ける。
ところどころ破損した石のタイルが隙間なく敷き詰められているが、ガラスの破片や瓦礫、紙くずなどが散乱しており、非常に汚い。
それに付着している黒い染みは血痕だろうか。
わずかな光をたよりに進んでいく。
光源は壁のポスターを照らすスポットライトと、傾いたネオン管だ。
やがてロウワーマーケットの文字と矢印が描かれた電飾案内板が目に入る。
マーケットか。食料を手に入れるにはうってつけだ。
しかし、危険だ。奴らも集まっている可能性が高いだろうから。
ガラガラガラ。
何かが聞こえた。
素早く柱の影へと身を潜める。
「浅瀬に~とめた~……」
しわがれた男の歌声。
チッ、早速おでましか。
声の
……あそこか。
柱の影からそっと覗き込むと、薄汚れた服を着た男の姿が見えた。
「
男は体を左右にゆすりながら、のたのたと歩く。
そして、ピタリと足を止めると
「――俺のウサギちゃんはドコだぁ!」
ドゴリと鈍い音がした。
男が引きずっていた鉄の棒で何かを叩いたのだ。
その後、何度も棒は振り下ろされる。
どうやら叩いているのは木製のキャビネットのようだ。
一心不乱に叩き続ける男。
チャンスか? 手にしたレンチの握りを確かめる。
その時!!
タタタン、と発砲音がした。
鉄の棒を振るっていた男が、ゆっくりと膝から崩れ落ちる。
クソッ、新手か! しかも自動小銃。
浮かせかけた腰を再び落とすと、息をとめた。
やがてパタパタと子供が走るような足音が近づいてくる。
……こちらへは来るなよと半ば祈る気持ちで見守っていると、倒れた男のもとへと駆け寄る人影が見えた。
パーカーを着た小柄な人物で、頭までスッポリとフードかぶっており顔は見えない。
枯れ木のような細い手足、明らかにサイズが合っていないであろう大きな靴が特徴的だ。
そしてなにより背中に吊るした自動小銃が目を引く。木でできた銃床に真鍮の銃身という、古めかしいデザインだ。
間違いない。コイツが男を撃ったのだろう。
危なかった。もう少しで俺まで死体になるところだった。
この奇妙な小人はキョロキョロと辺りを見回したかと思うと、おもむろに屈み込み、動かぬ男の体をまさぐり始める。
死体漁りか。
まあ当然だろうな。こんな閉鎖された空間だ。街の機能がマヒしてどのぐらい経つか分からないが、物資が不足せぬわけがない。
俺もそうだ。食料はもとより武器が欲しい。
なんとかしてあの銃を奪えないものだろうか……
じっと隙を窺う。だが、奇妙な小人は警戒を解く様子はなく、今も
駄目だな。今襲ったところで、あの死体の隣に寝転がるのが関の山だ。
「あはっ!」
探索し終えたのだろうか、奇妙な小人は短く声を発すると、何かを手にして去っていった。
ふう、と息をつく。
銃は手に入れられなかったが仕方がない。
銃は惜しいが命はもっと惜しい。
せめて何か役に立つものが残されてないかと、殺された男へと近づいていった。
ゴロリと転がる血まみれの男を見下ろす。
大きな体に短い手足。丈の短い服から覗く、でっぷりとした腹になんとも言えない嫌悪感を抱く。
そして顔だが……
ないな。顔どころか首から上がない。
そこにはただ、赤い血溜まりが広がるばかりであった。
なるほど、持っていったものとは頭部であったか。
しかし、何のタメに?
いや、そんな事はどうでもよいか。
分かっているのは、ここが危険だということだ。
考えを改めると、死体、キャビネットともに手を触れず、マーケットと書かれた方とは反対側へと進むことにした。
死体を背にして歩く。四歩、五歩、六歩。
その時、背後からチチチと小さな音がした。
まさか……
慌てて背後を振り向こうとした瞬間、ドンという大きな爆発音とともに衝撃波が体を襲った。
前方へと倒れこむ。
全身を襲う痛みに耐えながらも、四つんばいで数歩進むと後ろを確認した。
何もない。
木っ端微塵になったのであろう男の死体は跡形もなく消えていた。
「ハハッ。ここはクソッたれ共の楽園だ」
キンキンと鼓膜を叩く耳鳴りを手で押さえると、可能な限り早くこの場を去ることにした。
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