9.愛って今も何かはわからない

それから私は数日間、菜月の家にお世話になった。捨て猫みたいになった私も、捨て猫に飼われている私の猫も一緒に一時預かりをしてくれた菜月が本当に神様のように見えた。


私が恭祐さんに別れを告げたというと、みんなびっくりしていたけど、幸いだったのはまだ会社に報告していなかったことだった。家族や友達には迷惑をかけたし、心配もたくさんかけたけど、でも社会人として正式な報告をしていないだけまだましだと考える私は、しっかり社会の一員になっているなと思った。


「玉山さん、これって…。」


新たな道を進んだと大きく言っても、周りの人からしたら私は何も変わっていなかったかもしれない。その証拠として理不尽なことを言われても自分の言いたいことを主張することは相変わらずなかったし、後輩のしりぬぐいをしてあげていることも変わらなかった。


「すみません、いつも…。」


「大丈夫だから、そっちお願いね。」


「はい。」


むしろそうやって仕事に集中できるのは私にとって都合がよかった。何かに集中していないと私の中の糸がぷっつり切れてしまいそうで、そうなってしまったらもうここにはいられないと思った。


「玉山ちゃん、なんかまた最近遅いね。」


「ははは…。」


後輩のしりぬぐいや課長の面倒くさい仕事をしているうちに、どうしても自分の仕事が後回しになって残業をする日が増えていた。仕事を押し付けた当の本人にそう言われることも前だったら軽くかわせていたのに、今はずんと重くのしかかってくる。


同じようなことを言われてもその時の心情によってとらえ方って全然変わるんだ、と皮肉にも新しい発見をした。


「休憩、するか…。」


気が付けばあたりはすっかり暗くなっていたけど、あともう少しだけ仕事は残っていた。あまり遅くなって菜月に迷惑もかけたくなかったから効率よくすべてを終わらせるためにも、気分転換のために私はいつものあの場所に向かった。


「ふぅ…。」


いつもの屋上も時間が違うだけで全く違った雰囲気をしていた。


キラキラと輝く東京の夜の光はいつもと変わらず私に迫ってきて、「眠らない街」が今の私にはまぶしすぎた。


「もう少し。」


恭祐さんとの別れを選んでから、私はずっと自分が自分でないような不思議な感覚になっていた。なにか長い物語を見ているようで、歯切れの悪いバッドエンドがずっと心にモヤモヤとたまってしまっているようで、まるで夢の中にいるような気分だった。


でもきっともう少しで抜け出せる。もう少しで自分の人生に戻ってこれる。


そう思うしか自分を保つ方法がないんだということくらいわかってしまっていたけど、必死に見ないようにすることだけが私自信を保つ唯一の方法だった。

現実を見ようとしたことで現実を見ないようにするなんて、とても皮肉だなと思った。


「はぁ…。」


「相変わらずここでため息ついてんの?」


伸びをしてそろそろ仕事に戻ろうと思った時、聞こえるはずのない声が耳に届いた。そろそろ幻聴が聞こえるようになってしまったかと自分にあきれて振り返ると、すぐそこに立っているジョージの姿が目に入ってきた。


「嘘、でしょ?」


「なにが?」


確認のため嘘かどうか聞いてみたけど、しっかりと返事が返ってきたから頭がおかしくなったのではないらしい。ジョージは数か月前と変わらない様子で笑って、彼の定位置だったところに座った。


「まさかと思ってきたけどほんとにここにいるとは思わなかった。」


海外にいったら少しは変わってしまうのかなと思ったけど、でも元々海外にいたジョージが変わっていないのは当然だと思った。私は少しだけ本来の自分を取り戻してフッと笑った。


「どうしたの、幸せ絶頂のはずでしょ?」


「え…?」


「美衣、昔と同じ顔してる。」


数カ月ぶりに会ったのにこの人はズバズバと気持ちいいくらいに真実を言い当てる。


なんでもお見通しのジョージに全部打ち明けてしまおうかと思ったけど、それはさすがにずるい気がして、「別になにもないよ」と言って笑った。


「あーあ。」


「え?」


そう言った私に、本当に残念そうにジョージは言った。


何がそんなに残念なのか本当にわからなくて首をかしげると、ジョージはちょっと悲しそうな笑顔を私に向けた。


「美衣がなんでも隠さず相談してくれることだけが僕の自慢だったのにな。」


そういえば私はジョージに隠し事をしたことがない。


隠し事をしてもすぐばれてしまうし、する必要もなかったから。でもそれが私の最大の甘えで、自分で新しい道を行くと決めた今、ジョージやほかの人の支えなしでも歩いて行かないといけないとおもった。


それがいつか弱い自分を強くしてくれると信じて。


「美衣。」


心細くて悲しくて、いつか崩れてしまいそうで。

こらえるためにも必死にうつむく私をジョージは昔みたいに優しく呼んだ。それがとても懐かしくて、胸がホッと暖かくなった。


「ただいま。」


なんだよ、今更。と思った。

今更になって礼儀正しく挨拶するなんてやっぱり不思議な人だ。

でもその不思議さがとても懐かしくて、暖かくて、なぜかわからないけど涙があふれてきた。



―――そういえば恭祐さんとお別れしてから、一度も泣いてなかったっけ。



それはたぶん自分を守る防衛本能みたいなもので、一度泣いてしまったらすべて崩れてしまいそうだったから、必死に今まで自分で勝手に守ってきたもので。


でも久しぶりに会うこの人は、いとも簡単にその壁を越えてきた。越える気もないのにサラッと超えてきて、何事もなかったかのように私の目の前に立っている。


「おいで。」


何も聞いてないのに、全部受け止めるようにしてジョージは私を抱きしめた。

いつもなら「年上をからかうのはやめなさい」と怒っていたところだったと思うけど、でも一度あふれ出した涙がしばらく止められそうになくて、素直にジョージの胸を借りた。


ジョージの胸はなんだか外国のにおいがした。


「よかった。」


しばらくそのままジョージの胸を借りて私は泣き続けた。


でもそのうち涙は止まって、私はやっと現実世界に戻ってきた。そんな私をいつもの場所に座らせて、ジョージは暖かいココアを買ってきた。そしてそれを差し出しながら、得意げに笑って私にそう言った。


「なにがよかったのよ。」


「美衣が変わってなくて。」


意味わかんないと思ったけど、ジョージの言うことで意味の分かることってそんなになかった気がする。ジョージも変わってなくてよかったな、とそう思った。


「…あったかい。」


「ね。」


ジョージが買ってきてくれたココアはとても暖かくて、体の芯まで染みる感じがした。バラバラだった心と体をつなぎ合わせるように、それは心の芯まで染みわたった。


「別れ、たんだ。」


ジョージはあれからなにも聞かなかったけど、私が勝手に話し始めた。


思えばいつも私はジョージに話すことで、自分に起こっている出来事を「現実」として受け止めていた気がする。私は昔のように自分を納得させるためにも言葉をしぼりだした。


「あの影がね、やっぱりあったの。

見ないようにしてそのまま幸せになろうと思ったけど…。」


「けど?」


ジョージは相変わらず聞き上手だった。

別に話すつもりがなくてもするすると言葉を引き出されて、それが私の頭を整理してくれた。


「私が嫌になっちゃったの。疲れちゃったの。」


我慢することに疲れて、望んでいた“それなり”を手放してしまった私をジョージはどう思うだろうか。だから美衣はダメなんだよって笑うだろうか。


でもむしろ笑ってくれた方が楽だった。自分ってバカだな、と何とかして自分を納得させるためにも、誰かに怒ってほしいと思っていた。


「ほら、あったじゃん。」


そう思っている私に、ジョージは得意げな顔をしていた。ジョージは意味がわからなくて首をかしげる私の頭に大きな手を乗せて、いたずらそうに笑った。


「愛。あったでしょ?」


「愛なんて…。」


そう言われても私にはよくわからなかった。何が愛なのか、恭祐さんへの気持ちは愛だったのか。きっとジョージにだってわかってないはずなのに、ジョージは自信満々にそう言った。


「愛してたんだよ、美衣は。」


「愛…してた。」


「うん。」


そう言ってジョージは少し悲しそうな顔をした。

愛しいと悲しいは違うようですぐそばにあるのかもしれないと思った。


「感謝しなきゃね。」


「感謝?」


まだ少し肌寒い季節の屋上の風を少し冷たく感じ始めたのを感じてか、ジョージは自分のジャケットを私の足元にかけた。


そいうところも相変わらず”ジョージ”だった。


「彼は美衣に愛を教えてくれたからね。」


10歳近く年上の恭祐さんをまるで年下かのようにそう言ったジョージは、「僕が教えてあげられなかったのが悔しいけどね」と付け足した。


「愛、か。」


かみしめるようにそう言った。


ジョージに何と言われようが、それが愛だったのかなんて私にはわからない。でも、私は確かに恭祐さんのことが大好きで、”それなりの恋”を求めていたのに、全然それなりになっていなかったことくらいは私にもわかった。


何より今のこの胸の痛みが、私がどれだけ恭祐さんを好きだったのかを物語っていた。あれからずっと胸は痛くて苦しくて、でもその痛みに向き合わず勇気もないまま、しばらく立ち止まってしまっていた。


「頑張ったね。」


「うん。」


私は精一杯やった。精一杯恋をして、精一杯傷ついた。頑張った。


別れを認められなくてぐずぐずしていたけど、でも頑張った自分くらいは認めてあげよう。ジョージと話していると自然とそんな前向きな気持ちがどこからかわいてきた。


「ずるいよね、ほんとに。

病気なんて言われたら文句も言えないじゃん。」


それからしばらく、私は愚痴を言った。


今までため込んでいたものすべてをジョージに吐き出して、やっと目の前の景色が全部自分のものだって気づいた。


それを確かめるためにも愚痴を言い続けて、それをジョージは全部聞いてくれた。あの頃と同じように、全部引き出して、全部残さず消化してくれた。


「ありがとね、ジョージ。」


「美衣のためなら。」


久しぶりのやりとりに、心がホッとした。


その気持ちを汲み取ってか、ジョージもとても暖かく笑った。冷たくなっていた心がどんどん温かくなる感覚がした。


「さあ、行こうか。」


「どこに?」


まるで前から約束をしていたかのようにジョージは言った。


そんな私を見てジョージは楽しそうに笑って、「わかるでしょ?」と言って見せたけど、私には何のことかわからなかった。

私が戸惑っている間にジョージは私の手を取ってオフィスに行って、私のカバンを無理やり持った。


「ちょっと、まだ仕事が…。」


「そんなの明日でもいいんでしょ?」


ジョージの言うとおりだった。

別に今日やらなくていい仕事を毎日詰め込むことで自分を納得させようとしていたことを見透かしたようにジョージはそう言って、そのままエレベーターホールに向かった。


ジョージの足取りは軽やかだった。


私とは真逆で本当にジョージの足取りはいつも軽やかだった。落ち込んだりしても重さを隠しているのか、それともいつも軽いのかわからなかったけど、そんなジョージみたいに足取りを軽くしたくて、歩き方を真似てみたけどそんなことでジョージみたいになれるはずがなかった。


「お久しぶり。」


「Hey, George! What’s up!」


ジョージに連れてこられたのは、いつか一緒に来たバーだった。相変わらずカジュアルで外国みたいな雰囲気に一瞬はしり込みしたけど、でもそれがむしろ都合がいいと思った。


―――今の私にとって”日常”という言葉が一番残酷だった。


「Meチャン、オヒサシブリ!」


「美衣ね。」


相変わらず陽気なKevinさんが私の肩を抱きながらそう言った。

そんなKevinさんの手をはがしながら、ジョージはいつかとおなじように私の名前を訂正した。


「名前、覚えててくれたんですね。」


「うん、カワイイ子はオボエルよ!」


そう言ったKevinさんとジョージはしばらく何かを言い争っていた。


私には何を言っているかわからなかったけど、でもとにかく楽しそうな雰囲気につられて、私も英語を習おうかなと思った。


「んでは、美衣との久しぶりの夜に。」


「乾杯。」


やっぱりジョージは変わらず恥ずかしげもなくそう言った。


よく乾杯をしていたあの頃、乾杯は何かを始める合図だと思ったけど、同時に終わらせる合図でもあるんだなと思った。いつも乾いた気持ちのいい音に聞こえる聞きなれた乾杯音も今日はなぜか少し重たく感じられて、それはきっと自分の気持ちと同調しているせいだろうなと思う。


その証拠に重たい音とは反対にビールはどんどん進んでいった。


「相変わらず気持ちいいね。」


「ありがとう。」


いつかここでジョージとビールを飲んだ時の私と今の私では何か変わっただろうか。


前に進んだとか、強くなったとか、そういう実感があればよかったけど、確実にわかったのは自分の心に深い傷がついているということだけだった。


「少しいい顔になったね。」


「そう?」


よく飲んでよく食べる私を、ジョージは今日は止めなかった。


もっとも止められても止まる自信もなかった。恭祐さんとお別れしてからというものあまりご飯が食べられなくて少しやせた私を菜月がずっと心配していたけど、今日だけでその分すべて取り戻せるのではないかと思った。


「ジョージの生活はどう?」


そういえばここまでずっと話を聞いてもらったけど、ジョージの話は一切聞いていないことに気づいた。ジョージとはたくさん色々な話をして、たくさん相談に乗ってもらったけど、私はジョージのことをそこまでよく知らない。それはジョージが聞き上手なのか、それとも話すのを避けているのか、私にはわからなかった。


「うん、すごく楽しいよ。」


それは今回も例外ではなく、ジョージは簡単に一言で済ませた。


でも海外にろくに行ったこともない私は珍しく多くを語らないジョージに食いついて色々と話を聞いた。


「美衣、New Yorkには来たことあるの?」


「ないよ。」


学生の卒業旅行以来海外にも行っていない私が、ニューヨークになんていったことがあるわけなかった。旅行は好きだけど英語もろくに話せないし、国内で満足してしまうから、海外に旅行するなんてあまり頭に浮かんでこなかった。


「来たらいいじゃん、僕がいるうちに。」


「え?」


ジョージの突然の提案にすごく驚いた私を見て、ジョージはとても楽しそうに笑った。でも割とその提案は本気らしくて、ジョージはそれからニューヨークのいいところをこんこんと語った。


「でも私英語も話せないし…。」


「いいじゃん、僕がいるんだし。」


ジョージは隣の町まで遊びに行くみたいなテンションで私を誘った。私もそんな軽いノリで「んじゃいこっかな。」なんて言おうとしたけど、でもそこまで自分のノリは良くなかったらしい。その場は「ちょっと考えておく。」なんていう日本人らしい表現で濁らせておいた。


「行きなよ。」


ジョージとの久々の食事を終えて菜月の家に帰ると、菜月は一言目には「なんで帰ってきたの」と言った。もともとジョージ押しだった菜月はこのままわたしとジョージに何かあればいいと思っているみたいだったけど、でも私がそんな気になれなかった。


「行きなよって…。」


「今年の連休、まだ使えてないでしょ?」


毎年うちの会社では有給で連休を取らなければいけなくなっている。その連休はだいたい帰省に使われることが多かったけど、でも今年は一度婚約を破棄していることもあって、どうしても実家に帰る気になれなかった。


「ほら、よく映画でも失恋したら海外に自分探しにいくじゃん?」


「確かに。」


今までそういう映画とかドラマをみると、「自分探しって何?」と思っていた私だったけど、今なら少し気持ちがわかる気がした。すくなくとも私はジョージのおかげで少し現実を取り戻したけど、でもまだ直視はしたくなくてうじうじしている。


そういう現実を見ないためにも海外に行くのもありかな、と思った。


「おお、玉山ちゃん。やっと出してくれたね。」


「すみません、遅くなって。」


そして次の日、私はジョージや菜月の言う通り連休を取った。

そんな私の行動力にジョージは少し驚いていたけどすぐに日程を合わせてくれた。


「美衣からデートのお誘いなんて嬉しいな。」


「デートではないけどね。」


「まだそんなこと言うんだ。」


一時帰国だったジョージの帰国日はあっという間にやってきた。


私はその日お礼とお願いも込めて近くまで見送ったけど、ジョージはまたちょっと隣町に行くくらいのテンションで飛行機に乗って遠い海の向こうへ帰っていった。


私ももう少しで「自分探し」をしに行くその場所に、すこし思いをはせてみたけどまだあまりピンとはこなかった。


でもピンと来ていない人がするのこそが「自分探し」なのかもしれないと思うと、すこしだけ自分が前に進めたような気持にもなって、いつもよりちょっとだけ胸を張って帰り道を歩いた。


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