8."上手"に生きてきたはずの私
それからも私は、ずっと何も知らなかったふりをして過ごした。
自分がやっと手にした、普通で、でも確かな幸せをそんな簡単に手放そうとするようなことできなかったし、なにより私は恭祐さんが大好きだ。少しの我慢でまた恭祐さんからもらえる幸せへの貯金ができるなら、それでいいとすら思った。
こんなことを思っている私を、ジョージはどういうだろうか。
きっと「そんなの間違ってる」って言われることくらいわかっていたけど、でもそう言ってくれるジョージはもうそばにいない。ジョージが去ってからというもの、なんとなく私からは連絡し辛くて、私の中でジョージはとても遠い存在のように思えた。
それが少しさみしくて、私は本当にずるい人間だな、と思った。
「んじゃ、夜よろしくね。」
「うん、わかった。」
今日は、恭祐さんの友達たちから結婚をお祝いしてもらえることになっている。久々にあのにぎやかな人たちに会えると思ったら、考えるだけで気分がわくわくしてきて、嫌なことなんて忘れてしまった。
その日一日は久しぶりに気持ちが躍ったまま過ごして、めんどくさい仕事も、後輩のミスのカバーも、全部快く引き受けた。
「お先失礼します!」
「玉ちゃん、元気だね。」
早く帰る私にまた課長がちょっかいを出してきたけど、それも笑ってかわしてきた。思えば恭祐さんと出会ってから、課長のジョークも軽々と交わせるようになった気がする。私が恭祐さんのおかげで得していることを数え始めたらなんだかぞっとしそうだったので、深く考えるのをやめた。
「恭祐、さん?」
自分の馬鹿な考えもはねのけて元気に会社を出ると、会社の前にはフェンスにもたれながらスマホをいじっている恭祐さんがいた。そんな私の声に気づいて右手を軽く上げた姿がかっこよすぎて、一緒に暮らしているというのにいちいちキュンとしてしまう気持ちが止められなかった。
「直帰だったから迎えに来たんだ。」
こうやって迎えに来てくれるのは、はじめてデートをした日以来だなと思った。それから私はたくさんたくさん幸せをもらって、ずっと恭祐さんの隣にいられている。そんな小さな奇跡の積み重ねが本当に尊く感じられて、恭祐さんの腕にギュッと抱き着いた。
「美衣ちゃん、そんな可愛いことしないで。」
「ん?」
うれしい気持ちのまま恭祐さんを見上げると、なんだか少し照れた顔をしていた。そんな恭祐さんがかわいくて、私はくっつくのをやめなかった。
もうすぐ恭祐さんと付き合って一年が経つ。
でも私たちは出会った時からずっと変わらずこうやって笑っていて、これからもずっと隣で歩いて行けるんだと、私の心はもっと弾んだ。
「恭祐さん、こっちこっち!」
とってもおしゃれなお店の中に入ると、そのお店に似つかない大きな声で落合さんが恭祐さんを呼んだ。椎菜さんはちょっと恥ずかしそうな顔をしていたけど、わたしは相変わらずのその空気に少し安心した。
「美衣ちゃん、お久しぶり。」
「お久しぶりです。」
何度も会ったことがあるわけではないのに、まるで本当の妹みたいに接してくれる麗香さんの空気が私はとっても好きだった。姉が2人いる私は、そんな麗香さんに甘えるのも得意みたいで、恭祐さんに言わせてみると私たちは本当の姉妹みたいに見えるらしい。
久しぶりに会った麗香さんを見て、最近会っていない本当の姉たちは元気なのかな、と少し気になった。
久しぶりに会ったから全員がしばらく近況を報告している間に、頼んでいた飲み物がやってきた。すると合図もしていないのにみんなグラスを持ち上げて落合さんの方を見た。落合さんもそんな空気を察して手をぐっと前に伸ばし、私たちを見て優しい笑顔になった。
「では、恭祐と美衣ちゃんの結婚を祝して!」
「「乾杯。」」
私たちは集合すると乾杯ばかりしている気がする。
いつも乾杯係は落合さんで、何も言わずともその空気が出来上がるナチュラルな雰囲気があった。わたしはこの輪にずっと後になってから入ったのに、幼馴染みたいになじませてもらっていることがとてもうれしかった。恭祐さんと同じようにとても大切におもえた。
乾杯をする音は、何かが始めるときのサインだ。
乾いた気持ちいい音は、どんな言葉よりも私たちを祝福してくれているような気がして、その音を聞くだけでなんだか気持ちが浮いてしまうようだった。
「ほんとよかったよな~成功して。」
「ほんとっすよ。相談乗ってた俺たちもドキドキしましたからね。」
少しお酒が進んできてにぎやかな雰囲気がさらににぎやかになってきたころ、木田さんと落合さんが懐かしい話のようにそう言った。
「おい、お前らやめろって。」
恭祐さんは恥ずかしそうにそういったけど、2人がもっといたずらそうに笑ったから逆効果だったと思う。
「こいつ、ずっとそわそわしてて見てるこっちが緊張した。」
サプライズが終わった後に、その裏話を聞くのもサプライズの一環だと思う。
現に恭祐さんが本当はずっと落ち着きがなくて、でも私にはそれを必死で隠していたという話は、私にとってすごくうれしくて、すごくかわいい話だった。
「公私混同もいいところっすよね、ほんと。」
「調子乗んなよ、お前。」
恭祐さんは終始赤い顔をしていて、それがお酒のせいでないことを私は知っていた。もちろんここに集まっている全員がそのことを知っていて、恭祐さん以外のみんなはニヤニヤしながらその光景を見守っていた。
「よかったね、美衣ちゃん。」
男性陣がまだ恭祐さんをからかって楽しく話をしている間に、麗香さんは白ワインのグラスを軽く回しながらそう言った。その動作がとてもかっこよくて真似したくなったけど、でも私がしたところでかっこよくなるわけはなかった。
「色々とありがとうございました。」
「ううん、私なにもしてないから。」
そう言いながらきっと麗香さんはたくさんのフォローをしてくれたんだろうな、と思った。心の中でもう一回ありがとうを言いながら、私も麗香さんみたいにサラリと白ワインを口に含んだ。
「美衣ちゃん、一段とかわいくなったね。」
椎菜さんがとても冷静なトーンで言うもんだから、お世辞とわかっていても思わず本気に思想になって、自分の顔が熱くなることを感じた。そんな私の心をすべて読んだかのように、2人は目を見合わせて笑った。
「幸せがあふれちゃってるよ。」
「ほんとに。うらやましくなっちゃった。」
私は恭祐さんだけでなく、周りの人にも本当に恵まれすぎていると思った。お世辞や建前でなく本気で私たちを応援してくれる人たちがたくさんいることがとても心強くて、恭祐さんの隣にいる自信がないとどこかで思っている自分に喝を入れた。
しばらく女子3人で話をしていたけど、相変わらず私はからかわれ続けて、顔の火照りは冷めなかった。恭祐さんをみてかわいいな、と思っていたけど、自分も同じような状況に立たされていることに気づいた私はもっと恥ずかしくなって、ますます火照りは冷めそうになかった。
「トイレ、行ってきます。」
「あ、美衣ちゃん逃げたな~!」
いい具合に酔いが回ってきた麗香さんは、相変わらず私をからかってそういった。麗香さんの言う通り、私は顔の火照りを冷ますためにもその場からそそくさと去ってトイレに向かった。
トイレの鏡で見た自分は、予想通りちょっとだけ赤い顔をしていた。お酒を飲んでもほとんど赤くならないのに、よっぽど恥ずかしかったんだなと改めて認識させられて、ファンデーションを少し厚めに塗った。
―――あぁ、わたしとっても幸せだ。
自分にこんな幸せが来るわけないと、いつも明るい出来事が起こっても素直に喜べない私だけど、本当に心からそう思った。
わたし、今、幸せなんだ、と。
そう思ったらなんだかもっと幸せな気がしてきて、それがお酒のせいなのかそうやって自分で思ったからなのかわからなかったけど、でもすごく幸せな気持ちが自分の中からこみあげてきているのだけはわかった。
このままじゃ一生顔の火照りが取れなさそうだなと思った私は、火照った顔のまま席に戻ることにした。
「恭祐、千佳ちゃんに会いに行かなくていいのか?」
ほてりを何とか収めようとしながら席に向かおうとすると、テーブルの方から木田さんがそういう声が聞こえた。
その声で私は思わず物陰にスッと身を隠した。
「やめなって。」
そういう麗香さんの声は聞いたこともないほど冷静で、とても悲しそうに聞こえた。
「もう恭祐には新しい生活があるんだから。」
「でも一回くらい…。」
いつも明るい木田さんも、なんだかとても悲しそうに見えた。私は見なかったふりをした現実を目の前に突き付けられて、とにかく胸が苦しくなった。
「木田、ありがとな。」
そんな中でも私を一番苦しめたのは恭祐さんの表情だった。
悲しそうで苦しそうで、でもどうしようもなくて…。そういう顔をして恭祐さんはうつむいた。きっと自分でもどうしていいのかわからなくて、ずっともがき続けているんだろうなと、知りたくもないことをその表情すべてが物語っていた。
「いいんだ、本当に。
今ある俺の生活が一番大切だし。」
自分に言い聞かせるように恭祐さんは言った。
恭祐さんがそうするなら、私も自分に言い聞かせるしかない、と思った。
―――見て見ぬふりをするのはとても得意だから、そんなこと簡単だ、と思った。
「あ、幸せガールが帰ってきた!」
話がひと段落するのを見計らって、私は何事もなかったかのように席に戻った。もう戻らないと思っていた火照りはすっかり冷めてしまっていたけど、でも冷めてないふりをするのもとても得意だった。
「もういじめないでくださいね。」
「それはどうかな~。」
わたしよりもっと、麗香さんは見て見ぬふりをするのが得意みたいだった。
お互いわかっているようにも思えたけど、わかっていないふりをしていればこのまま幸せでいられる。それもわかっていた大人な私たちは、そのまま食事やお酒を楽しんだ。
「美衣ちゃん、たくさん飲まされたでしょ。」
何も知らないふりをしたまま、恭祐さんは言った。わたしもそのまま知らないふりをして笑って、「そんなことないよ」と言った。
「楽しかった~。」
その言葉は自分に言い聞かせるために言った。
自分に言い聞かせていれば本当にそう思えることもある。納得はいつまでたっても出来なさそうだから、気持ちを落ち着けるためにも私は何度も心の中でそう言った。
自分に何度も言い聞かせたはずなのに、もやもやは私の心のどこかに張り付いてずっと離れなかった。いつものように定番の屋上で心地のいい風に当たっていても、そのもやもやは晴れなかった。
―――こんなとき、ジョージがいたらなんていうだろうか。
いつかここで同じことを考えたな、とふと思った。その時と同じようにその答えはわかり切っていたけど、でもそれもわからないふりをした。わからないふりをしてもジョージはいなかったから、だれにでも答えはわからない。
これが私の、「ちょうどいい」幸せだ。
そう思って飲んだブラックコーヒーはとても苦くて、ジョージがたまに入れてくれた甘いカフェオレが恋しくなった。
ジョージは元気にしているだろうか。
今更だけど、遠くで頑張っている戦友に向けて、心の中でエールを送ってみた。でもそのエールは送りたかったわけではなくて、送ってほしかったのかもしれない。
それからも私はそのままの生活をつづけた。胸の中のモヤモヤも、日に日に小さくなっていって、気にならないほどになった。
―――と、いっても、すべてなくなったわけではないけれど。
そうやって”普通”の生活を続けていくのは得意中の得意で、社会人になってからはそれがもっと得意になったと思う。得意になったのがいいことだったのか悪いことだったのか、今までは考えたことがなかったけど、でも少なくとも今は自分のこの特技に感謝すらできた。仕事を終えて買い物をして、料理を作って恭祐さんを待つこの結婚前の2人の時間が愛おしく思えているのは、そんな特技のおかげだった。
「お先に失礼します。」
いつも通りその一言でスイッチを切ったわたしは、最寄りのスーパーで今日の夕飯の買い物をして家に向かった。
2人の家に着く一歩手前。向こうから女性が一人歩いてきた。その姿に見覚えがあったわたしは思わず足をとめて、女性をじっと見てしまった。
「あ…。」
その人は、恭祐さんの元カノのお母さんだった。
一度うちに訪ねてきただけだったけど、でもその顔を私が忘れられるわけがなかった。その人は私を覚えているかわからなかったけど、でも私が足を止めたことでこちらを見て一礼したから、たぶん覚えていたんだと思う。
「すみません、また訪ねてきてしまって。」
そう思うなら来るなよ。と思ってしまったけど、私はその言葉に「いえ。」と社会人らしい一言を言った。
「思わず来てしまったんだけど、もう来るのをやめようと思ってたところなの。
本当にごめんなさいね。」
その人はたぶん心からそう思っている様子で、私にそう言って深く頭を下げた。
正直、元カレの家にお母さんが訪ねてくるなんて、しかも同棲している彼女がいるとわかってながら来るなんて常識がなさすぎる、と思ったけど、深く頭を下げる様子を見て、「常識がない」のではなく、「余裕がない」のだろうなと、冷静に分析してしまう自分がいた。
私が何も言えない間にもう一度だけ頭を下げて去っていくその人を、私は見送ろうとした。
このまま見送って、恭祐さんにも何も言わないで、時がたって、あの憧れの会場で式を挙げて、かわいい子供ができて…。
頭の中で描く未来は、他人の目線から見たらとても幸せに見えたけど、でも自分自身はどうなんだろう、と思った。
その幸せって、ちょうどいいのだろうか。
ちょうどいいってなんなのだろうか。
「すみません。」
そう思った次の瞬間、やめとけばいいのに私の口は勝手にその人を呼び止めていた。
どっちが頭でどっちが心かわからなかったけど、聞かなきゃいいことを聞かないままにしたい自分と、このままじゃいけないとどこかわかっている自分が、自分の中でぐちゃぐちゃになっていた。
「お時間、いいですか。」
頭と心が完全に離れてしまったような、そんな気持ちになった。やめておけ、と心は叫んでいるのに、頭はどんどん先に行ってしまって、もう引き返せなかった。
そんなぐちゃぐちゃの状態のまま、私たちは近くの喫茶店に入った。せめて少しでも気を落ち着けようと、私はミルク多めのカフェオレを頼んだ。
「すみません、呼び止めてしまって。」
驚くほど冷静に、まるで自分ではないみたいに、私の体はそう言った。心は相変わらず騒がしかったけど、もう後に引き返せないことをどこかで理解していた。
「千佳さんに、何があったか話してもらえませんか。」
私の言葉に、その人はとても驚いた。
驚くのも当然だろうと思ったけど、私の真剣な顔を見てすぐに冷静に戻って文字通り本当に重たそうに口を開いた。
「千佳が恭祐君と別れたのも病気のせいだったの。」
その人の言葉は耳を通して脳に直撃するように、私に刺さった。どんどん深く刺さって抜けないから、なんだか頭が痛い気がした。
「当時は恭祐君が別れないってゆってくれたみたいだけど、千佳がかたくなに別れるってゆってね。」
恭祐さんは優しいから、病気の彼女に別れようというなんて絶対に無理だと思う。だからよっぽどの理由があったのだろう、と思ったけど、そういうことなのか、と納得しているような、していないような自分がいた。
「一度はよくなったんだけどね。でも最近また悪化しちゃって…。」
それからは聞かなくてもわかるような気がした。でもその人の口を止める気にもなれなくて、私はただ無気力に話を聞くしかできなかった。
「恭祐君のところに行くなんて非常識だってわかってるの。
ましてや、恭祐君には新しい生活もあるみたいだし…。
でも弱っているあの子を見て、母親として何かしてあげたくてねぇ。」
もう一度その人は深く頭を下げた。
私はそれでも無気力でいるしかできなくて、小さくその言葉にうなずいた。
「本当にごめんなさいね。それじゃあ。」
無気力な私を置いて、その人は出て行った。
気持ちを落ち着けるために頼んだカフェオレはすっかり冷たくなってしまって、余計に甘く感じる気がした。それでもその甘い飲み物を私は体の中に入れ込んで、スッと息を吐きだした。
私が同情をする必要なんて何もなかった。
私はその人には何も関係ないし、悪いこともしていない。それは恭祐さんも例外ではなくて、「今更」の訪問は本当に自分勝手でしかない。そんなことはわかっている。わかりきっている。
でも、私は呼び止めてしまった。
その人を呼び止めて、聞かなかったらよかったことを聞いてしまった。現実を見てしまった。
見てしまった現実を、私はこれまで見たいにうまく処理できるのだろうか。
「…できないよ。」
私はそこまで器用ではなかった。そして私はそこまで鈍感ではないみたいだった。
恭祐さんが今本当に何がしたいのか、どういう気持ちなのかなんて、本人より明確にわかってしまった。
「なんでだろうなぁ。」
今までそれなりに、なんとなく、とっても上手に生きてきた。
辛いことは見ないふりをして、言わなくていいことは言わず、波風を立てず、それでも少しでもある幸せを見つけて、ためて、そうやって”上手に”生きていくことは得意だった。
なのにどうしてだろう。
私は今、なんとなくやっていく道と明らかに逆方向に向かっている。向かっていることをわかっていながらも、足を止められない。
―――私って実はとっても頑固なのかもしれない。
その人から現実を聞き出したまるで現実でないような喫茶店をでて、私は日常に戻った。いつものように夕飯を作って恭祐さんを待った。今日は恭祐さんの好きなチーズインハンバーグにした。恭祐さんの帰りが遅いことが分かっていたから、いつもより時間をかけて少し煮込んでみた。
美味しそうな香りが部屋いっぱいに広がって、とっても幸せで、
とっても辛かった。
ちょうどハンバーグを煮込み終わったくらいのタイミングで、玄関のチャイムが鳴った。ナイスタイミングで帰ってきた恭祐さんを迎えるために私は玄関に向かって、チェーンを外して鍵をあけた。
「ただいま。」
「おかえり。」
少し遅かったけど、いつもと変わらない様子で恭祐さんが帰ってきた。
ドアを開けた瞬間、恭祐さんの香りがした。この香りだけで私はいつもどんなときでも安心してしまう。
「いいにおい、ハンバーグ?」
「よくわかったね。」
そんな恭祐さんはにおいだけで今日の夕飯をかぎ当てた。恭祐さんは子供みたいな食べ物が好きだ。それがなんだかちょっとかわいくて少し笑ったら、恭祐さんはちょっとすねた顔をした。
―――その顔を見て私は泣きそうになった。
「うん、おいしい。」
恭祐さんはいつも私のご飯を「おいしい」と食べてくれる。そんなにおいしくなかったとしても、おいしいと言ってくれるから、毎日作る気がわいた。毎日「夕飯なににしようかな」と考えるストレスも、その一言があるだけで軽減される気がした。
「美衣ちゃん、料理すっごい上手になったね。」
「そう?うれしい。」
もともとできないわけではなかったけど、この家に来てから私は本を買って本格的に勉強を始めた。昔からどちらかというと教科書があったほうがその通り実行できる私の料理の腕は、自分でも確認できるくらいには上がったと思う。
これもすべて、「誰かのために作る」という気持ちがそうさせてくれたのだな、と思う。
「ごちそうさまでした。」
いつものように大げさなくらい礼儀正しく手を合わせて、恭祐さんは笑った。私もそんな顔をみて笑って、恭祐さんと一緒に吸う空気を体に入れたくて、深く息を吸った。
「美衣ちゃん?」
「恭祐さん。」
ほぼ同時に、私たちはお互いの名前を呼んだ。
いつもなら「どうしたの?」と聞き返すと思うけど、ここで止まってしまうともう進めなくなる気がして、私は勝手に歩き出した自分の足を止めなかった。
「わたしたち、別れよっか。」
吸い込んだ空気を優しく吐き出しながら、私は足を止めないためにも、精一杯の笑顔と一緒にその言葉を放った。
でも空気を止めた言葉は、私の意志とは無関係に反響したまま部屋に漂っていた。
思っていたよりあっさりと、でもしっかりと、私はその言葉を口にできたと思う。今までうまく生きてきたはずの私の道を大きくそれるその言葉は、あまり現実味がなくてでもおもく私の身にのしかかっていたから、なんだかそう言えてすっきりとさえしていた。
その言葉を聞いて、恭祐さんの目からは涙があふれていた。自分がこの言葉を言うのを想像した時は、何度も涙が出そうになったけど、不思議と私は泣かなかった。新しい道を行く自分が新鮮で、まだ自分のことじゃないような気がしていたからかもしれない。
「でも…。」
「私が辛いの。
恭祐さんといると、千佳さんの影がいつまでも見える気がして、辛いの。」
思えば出会った頃から、千佳さんの影は私に付きまとってきていた。それなりの幸せを手にするためにも、ずっと"見ないふり"をしていて、それはたぶん一度は消えたんだと思う。
でも消すのは難しくても、戻ってくるのはいとも簡単だった。そんな現実をもう一度見ないふりができなかったのは、私の弱さだった。
「ごめんね、恭祐さん。」
耐えられなくて、知らないふりをしてあげられなくて、ごめんなさい。
心からそう思った。
私は愛しい人のために、大人になれなかった。それがだけがすべてだった。
「美衣ちゃん…っ。」
恭祐さんは泣きながら私に抱きついた。
こんな時でも恭祐さんの体温はとっても暖かくて、それがリアルだった。これは現実だよ、と嫌なほど私に語り掛けてきた。
でも私はそんな辛さもぐっとこみあげて笑った。いつも通りに笑った。それは最後に少しでも、自分のことを忘れないでほしいという私の最後のわがままだった。そしてそのまま、恭祐さんにキスをした。そこからどちらからでもない、私たちはお互いを求めあった。
―――忘れられなくなっているのは、自分だとそこでやっと気づいた。
どんなことが起きたって、人には平等に朝がやってくる。私たちも例外ではなく、いつもと同じ朝を迎えた。
でも違うのは私が先に起きたことだった。
昨日はどうなって、どう寝たのかあまり覚えてなかったし、思い出したくなかった。怒られた後泣いてしまった子供のように赤い目をした恭祐さんは、すやすやと眠っていて、私はその長いまつげを触ってみた。
柔らかくてふわふわで、手放したくないな、と思った。
「ばいばい。」
その後軽く準備をして、私は猫を連れてあっさり恭祐さんの家を出た。まだまだ荷物はあったけど、とりあえず猫さえいれば今は十分だった。そのまま別れを惜しんでいたら、心地のいい空間から一生出られなくなりそうで、いつも会社に行くときみたいに”家”を出た。
「ごめんね、また二人になっちゃった。」
「ニャー。」
そうして私は今までとは全然違う気持ちで、”いつもの道”を歩いた。
何気なく通っていた道だけど、おいしいパン屋さんとか、おしゃれな花屋さんとか、昔ながらのお惣菜屋さんとか、そこには好きなものがたくさんあった。
それはすべて私が恭祐さんを「好き」っていうことに全部つながる気がして、そう思ったら恭祐さんの好きなところがたくさん浮かんできた。
先に起きて焼いてくれるトーストがすごく好きだった。
柔軟剤のにおいがすごく好きだった。
クイズ番組で競争するのがすごく好きだった。
あったかい笑顔がすごく好きだった。
大きく包み込んでくれる手がすごく好きだった。
本当に、本当に、
全部すごくすごく大好きだった。
いっぱいいっぱい恋をした。一生忘れられないほど、恋をした。
そのせいでたくさん傷ついた。立ち直れるかもわからない。これからどうすればいいのかも、よくわからない。
でも、それでも、
―――私は今までと同じだけど違う道を、シャンと胸を張って歩いていた。
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