7.見なくてはいけないことと見なくてもいいこと

ジョージから移動のことを聞いてから、その日はあっという間にやってきた。人気者のジョージなだけあって、いろんな部署がジョージのために送別会を開いて、中には泣いている若い女性社員もいた。私はそんな中でも常に冷静をたもって、移動が決まる前と変わらずあの場所で昼ご飯を一緒に食べた。


“その日”がすぎてからも、私はひとりで同じ場所でご飯を食べた。


最初はもちろんなんだか心に穴が開いてしまったみたいな、そんな気持ちもしたけど、でも数日たつうちに、一人でご飯を食べるのにも少し慣れた。もともとここでは一人でご飯を食べていたということもあったけど、数年間はジョージと一緒なのにもう一人に慣れてしまった自分は、とても薄情な人間だと思った。


「お待たせ、ごめんね。」


そんな日々の中でも、私たちの結婚の準備は着々と進んでいた。


私の両親との予定もやっと調整がついて、来月には2人で地元に行くことになっているし、「その間にも準備しときなさい」という両親の言葉通り、私たちは式場の下見を始めていた。


恭祐さんに会ってもいないのにいいのかとお母さんに一度は聞いてみたけど、美衣が選んだ人なら、と軽々と言ってのけた。

そうやっていつも私が選んだ道を応援してくれる両親に、私は心から感謝している。


「さ、いこっか。」


私たちにとって2件目の見学となる今日の会場は、都会の中にあるのにとても厳かで、でもどこか華やかな場所だった。昔から思い描いていた妄想をそのまま形にしたような式場に、私は外観だけでときめいていた。


「美衣ちゃん、反応全然違うね。」


担当者の人に案内されている時、こそっと恭祐さんがそう言った。

内観も思い描いた通りの空間で、私は特に言葉に発してはいなかったけど、恭祐さんに私の興奮は簡単に伝わっていたらしい。


「とっても素敵。とっても。」


こんなところでキレイなドレスをきて恭祐さんと歩ける幸せを考えたら、もう一生不幸になってしまうほど貯金を使い切ってしまうのではないかと思った。


でもそれでもかまわない、と思えるくらい気に入ってしまった私は、見学している間ずっときょろきょろとして落ち着かなかったと思う。


「いかがでしたか。」


髪型もばっちり決めたプランナーのお姉さんが嬉しそうに聞いた。

私はたぶんもっと嬉しそうな顔をして、「とても素敵でした」と素直な感想を伝えた。


「来年の春なんですけど、開いている日程ありますか。」


すると恭祐さんはそんな私をみてまた暖かく笑って、プランナーさんとさっそく日程の確認をはじめてしまった。


「恭祐さん、いいの?」


見学ってもっとたくさんの場所を回って、2人で相談してから決めるものだと思っていた私は、不安になって聞いた。

すると恭祐さんは私が一番安心できる笑顔で、「もちろん。」と言った。


「美衣ちゃんがそんなに気にいるなら、この場所に決めよう。

まあ、日程のことはお互いの両親に相談してからだけど

一応おさえておいた方がいいと思って。」


幸せすぎてそのうちバチが当たりそうだ、と思った。もしくはこのままここで倒れてもおかしくないと思った。


今までこんな幸せを感じたことのない私は、素直にこの幸せを喜べなくて、いつまでも疑ってしまう。地に足をつけて生きてきたつもりの私は、なんだか浮いた話は怖く感じてしまう。


「恭祐さん、ありがとね。」


「ううん、美衣ちゃんが嬉しそうで俺もうれしい。」


でも今は、だまされていてもいいからこの幸せに浸っていたかった。信じられないほどの幸せに、一度くらいおぼれてみてもいいんじゃないかと思えた。


それからしばらくして、わたしは自分の家を出て本格的に恭祐さんと一緒に暮らし始めた。ほぼ一緒に住んでいるのに、いつまでも家賃を払い続けるのはもったいなかったし、結婚式にはとてもお金がかかるから、しばらくは2人でここに住むことにした。


「改めて、お願いします。」


同棲を始める日、私は改まって大げさに、正座して恭祐さんに礼をした。


そんな私を笑いながらも、恭祐さんも同じように正座をして、「こちらこそよろしくお願いします。」と言った。

その状態のまま顔を上げると、すぐ目の前に恭祐さんの顔があった。


今までも一緒に住んでいたようなものなのに、こんな昔みたいなスタイルでお互いにあいさつをしたのがおかしくて、私はおもわず笑ってしまった。そんな笑いが伝染して、恭祐さんもとても幸せそうに笑った。


―――ああ、幸せだ。


素直にそう思えたのは、もしかして初めてかもしれない。


これからここで私は人に自慢できるほどではないのかもしれないけど、でも着実で確かな幸せを感じていく。恭祐さんといると本当に心からそう思えた。


「ただいま~。」


まだわたしが猫と1人と1匹生活をしていた時も、私はきまって「ただいま」を言ってから家に入るようにしていた。それがなんとなくけじめになるような気もしていたし、でも今考えてみれば誰かからの返事が返ってくるのを待っていたのかもしれない。


でも恭祐さんと同棲を始めた今も、だいたい私の方が帰ってくるのが早いから、ただいまを言っても今も「ニャー」と言われるだけの状況は変わらなかった。


こんな私でも、一人暮らし経験が少し長い分、料理は少し作れる。

自然と朝ごはんは恭祐さん担当で、夜ご飯は私担当になって、私たちのペースができていく感じがとても心地よかった。


今日の恭祐さんの夕飯のリクエストは「中華」だ。


インターネットで調べた人気の酢豚のレシピを開いて、恭祐さんの帰りを待ちながら軽快にパプリカを切り始めた。

パプリカもピーマンもたまねぎも切り終わって、そろそろ合わせ調味料を作ろうかな、と思ってその時、インターフォンが鳴った。いつもより少し時間が早かったけど、でも大好きな中華だから早く帰ってきたのかな、と思って、私はドアフォンを見もせずに玄関の戸を勢いよく開けた。


「おかえ…。」


今日一番の笑顔で「おかえり」を言おうと嬉しい気持ちを抑えることなくドアを開けると、そこに立っていたのは恭祐さんではなく、見慣れない中年の女性だった。私も、きっとその女性も、想像していた人とは違う人と対面したことで、一瞬時が止まった。


でも最初に時の流れを取り戻した私は、冷静になって「あの…」とやっとの気持ちで声を絞り出した。


「あ、すみません。立石恭祐君のお宅じゃ…。」


「そう、ですけど…。」


女性はもう恭祐さんが引っ越したと思ったらしく、遠慮がちに言ったけど、私がそうだというのに少し驚いた顔をした。


「美衣、ちゃん?」


私たちの時がまた少し止まっている間に、後ろから恭祐さんがやってきた。恭祐さんが私を呼ぶ声に反応して、女性も振り返って恭祐さんの方を見た。


「恭祐君、お久しぶりです。」


「え…。」


その女性の顔をみて、恭祐さんは明らかに動きを止めた。私はそんな光景をみて、ただそこに立っていることしかできなかった。


「あのね、千佳が…。」


「すみません、帰っていただけますか。」


女性が何か話しかけた時、恭祐さんはその話を遮るようにゆった。

その声がとても怖くて、聞いたことのない恭祐さんの声に私は驚いて固まっているしかできなかった。


「そうよね…、ごめんなさいね。」


そう言って女性は私に小さく礼をして、そのままその場を去って行った。

状況を把握できない私は立ち尽くしたままうつむいて顔を上げない恭祐さんをずっと見ていることしかできなかった。


「美衣ちゃん、ただいま。」


しばらくその場に立ち尽くしていた恭祐さんは、スタートボタンを押したみたいにそういって、何もなかったかのように笑った。


私も戸惑いながらも「おかえり」といつも通りいってみたつもりだけど、きっといつも通りにはなっていなかったと思う。


その後、恭祐さんは本当にいつも通り今日の出来事を楽しそうに話して、その間に私は酢豚と中華風スープを仕上げた。そしていつも通り食卓に座って2人で「いただきます」をして、私も今日の出来事をペラペラと報告した。


私はいつも通り饒舌だったけど、動揺を隠すためにもっと饒舌になっていた自信がある。その証拠に一回話が途切れたら2人ともしばらく話をしなくなって、しばらくその状況のまま放置してみたけど、私はもう自分の気持ちに嘘がつけなくなってしまった。


「さっきの人、だれか聞いてもいい?」


結婚するからと言って、すべてを知る必要はないと思う。

知らなくていいことと、知らなくてはいけないことはもちろんあるけど、こうなってしまった以上、知らんぷりをしているのは私たちのこれからのためにもよくない気がした。


恐る恐るそう聞いたけど、恭祐さんは「そうだよね。」と一言言って、大きく息を吸った。


「元カノの、お義母さん。」


意外過ぎる答えに私の時はまた止まった。

久しぶりに私は”あの人”と対面して、その衝撃に自分では時間が動かせなさそうだった。


「ごめんね、動揺させて。」


お義母さんが恭祐さんの家を知っているほど、2人は親密な仲だったんだ。

私だって”あの人”の存在が小さくないことくらいわかっていたけど、再認識させられた事実は私の胸に刺さって取れなかった。


「よかった、の?」


お義母さんが家にまで訪ねてくる用事って、そうとう重いもののような気がした。大人としてそれは聞いておくべきなのではないか、という私の中のとっても真面目な声と、でも聴いてほしくないという私のわがままな気持ちが戦っていたけど、後ろめたい気持ちを抱えたまま、恭祐さんと結婚するのはイヤだという気持ちが勝って、絞り出すようにそう聞いた。


「美衣ちゃん…。」


それを聞いた恭祐さんは私の横の席に移動して、暖かい手をポンと頭の上に置いた。


「ごめんね、心配かけて。大丈夫だから。」


その言葉を聞いても、心の中のもやもやがなくなるわけではなかった。


でも今のわたしは、恭祐さんのその言葉を信じるしか方法がない。私はやっとの気持ちで顔を上げて恭祐さんを見上げて、今できる最高の笑顔を作ってうなずいた。そんな私の顔を見て、恭祐さんはとても複雑な顔をした。


「んで、何があったのよ。」


同棲を始めたというのにしばらく浮かない顔をしているわたしを見かねて、藤堂さんがご飯に誘ってくれた。恭祐さんと住み始めてから2か月以上たっていたけど、外でご飯を食べるのは初めてだった。


なんとなくそれに罪悪感があったけど、「それなら俺も久しぶりに飲んで帰るよ」と言ってくれたから、その罪悪感は少し軽くなった。


「実は…。」


相変わらず何もかも見抜いたみたいな藤堂さんに、私はこの間の出来事を素直に話した。藤堂さんはその間も、豪快に黄金の飲み物を飲み続けた。


「なるほどね。」


藤堂さんが思っているより、私の話はちょっと重かったらしい。藤堂さんは話を消化するかのように残っていた黄金の飲み物を一気に飲んで、次の一杯を頼んだ。


「まず、家まで来るかね。その親。」


「ですよね。」


私のその感覚は間違っていなかったらしい。

ずっと自分の中でも疑問に思っていたことを友永さんが口にしてくれただけでも、私の中のもやもやは少しマシになった。


「んで、気になるんでしょ?」


それは置いといて。というテンションで藤堂さんは言った。


元カノの親が訪ねてくる、というのはびっくりするけど、でも置き換えると、もしかして訪ねてくるくらい、何か重要なことが起こったのかもしれない、というのにも言い換えられた。いくら恭祐さんに「大丈夫」と言われても、そのもやもやはずっと消えなくて、ずっと私の心の中に残っていた。


「気にならないといえばうそになります。」


正直にまっすぐそう言って、私も藤堂さんみたいに豪快にビールを飲んだ。のどごしのいいビールでも、私のもやもやは取り除けなかった。


「追及してもいいんだと思うよ。」


いくらでも追及することなんて出来ると思う。

気になるならどこまでも突き詰めて、すっきりすることだってできると思う。


「でもそれがあんたたち2人にとっていいことなのかは

やってみないとわからんな。」


でもそれを追求することによって、もしかしたら私と恭祐さんの仲は今まで通りいかないかもしれない。


ずっと幸せに、なにもなかったように平凡に。なにもなかったように過ごしていくのは、得意中の得意だと思う。都合のいいことを見ないふりして、今手の中にある幸せを大事にするのだって、もちろん大切だ。


――――でも、それでいいの?


あの日以来、そうやって問いかけてくる自分はずっと心の奥のどこかにいて、気が付かないふりをしていたけど、藤堂さんの言葉でその存在はよりはっきりした。


「簡単にいかないもんだね、人生って。」


人生の先輩からのその一言は、私の心にずしっと響いた。こんなことまで見なければいけないのなら、大人になんてなりたくなかった、と思いながら、残りのビールを空にした。


行為が終わると、いつも恭祐さんはもっと優しくなる。


よくその行為の後、男性はすぐ寝てしまうっていうけど、恭祐さんはいつも私が寝るのを確認してから寝てくれる。寝たふりをして、うとうとしながらそれを感じるのが私はとても好きだった。


恭祐さんは今日もいつも通り私を寝かしつけてくれた。それを感じるために寝たふりをしていた私だけど、そのまますぐに眠くなって寝てしまった。


どのくらい時間がたったのだろう。


私はどこかから感じるかすかな光で目を覚ました。すると横には恭祐さんの姿はなくて、恭祐さんが電話で話しているのがどこかで聞こえてきた。


「俺にはもう関係ない。」


恭祐さんの少し怖い声が聞こえた。その声で完全に目を覚ました私は、電話の声に耳を傾けた。


「もう千佳のことで連絡してくるのもやめてほしい。」


それは完全に“あの人”の話だった。その内容は聞いてはいけないことだってわかっていながらも、私は聞き耳を立てるのを止められなかった。


「病気であろうがなんであろうが、関係ないってゆってんだろ。」


とても冷静なトーンだったけど、でもとても気持ちがこもっていた。

もうすぐ1年一緒にいるけど、こんな声は一度も聞いたことがない。私の知らない恭祐さんを探すのは好きだけど、こんな怖い恭祐さんはできれば知りたくなかったと思った。


「んじゃ、そういうことで。」


電話を切った恭祐さんが大きなため息をつく声が聞こえた。


どんな顔をしているのかとっても気になったけど、でも絶対に知りたくない気もした。そのまま恭祐さんはそっと部屋に入ってきて、私をぎゅっと抱きしめった。


その手が何だかすごく怖がっているような感じがして、わたしもぴったり恭祐さんにくっついた。


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