6.戦友、去る。
「ついに、か…。」
軽井沢での夢のような出来事から日常に帰っても、その夢のような出来事は私の中でまだ夢のように輝いていた。それを実感するために、菜月と梨絵に報告してみたけど、でもまだそれはふわふわと宙を舞って、つかみどころのないおとぎ話を話しているようにも思えた。
「いつか抜け駆けされるとは思ってたけど、思ったよりはやっ!」
いつものお店でいつもより早いペースでビールを飲みながら、菜月と梨絵は口々に恨み節を言った。
「1年前までみんな一緒だったのに。」
「やっぱり美衣が一番に裏切ったね。」
口ではそう言いながら2人はとてもうれしそうにしてくれていた。そんな2人の様子をみて、私は少しだけ実感がわいた気がしてきた。
「これから色々忙しくなるね。」
「う~ん、そうだね。仕事も忙しいから大変かも。」
「ま、でも幸せじゃん?」
わかりやすいニヤニヤ顔で、菜月が言った。
それにつられて私もわかりやすいニヤニヤ顔になった。
「うん、幸せ。」
「くっそーーーーー!」
梨絵もなんだか幸せそうな顔をしてそう言った。
なんだかとってもほっこりする空気に、私は文字通りほっこりした。
「美衣、おめでと。」
「おめでと。」
結局少し照れながらそう言った2人は、もうほぼなくなりかけた黄金のグラスを差し出してそういった。恨み節を言いながらも、心からそう言ってくれる2人が本当に大好きだ。今までも大好きだったけど、今日もっともっと大好きになった。
「ありがとう。」
グラスの音はそんなにいい音ではなかったのに、私を祝福してくれている音のように感じた。私はそんな音にも助けられて、残っている大人の飲み物を全部ながしこんだ。いつもより何倍もおいしく感じられた。
「美衣ちゃん、起きて。」
プロポーズされてからも、しばらく私たちの日常は変わらなかった。
相変わらず私は朝が弱かったし、相変わらず恭祐さんは朝が強かった。すっかり定着した恭祐さんの家での生活は、私の朝をさらに遅くした。
でも遅くなった分、私は幸せを感じていた。
「いってきます。」
「いってらっしゃい。」
いつも恭祐さんが私より先に家をでる。
最初はなんだかくすぐったくて、とっても幸せな感じのしたこの毎朝のあいさつも、いつしか「日常」に変わった。
日常ができるというのはとても幸せな感じもしたし、同時にさみしい感じもした。
「今日、7時だからね。」
「はい。」
ふんわり憧れていた「結婚」という人生の中でとっても大きな出来事には、華やかな結婚式や同棲生活だけでなく、色々としなくてはならないことがあることを実感したのは、本当に最近のことだ。
その第一歩として今日は、恭祐さんのご両親とご飯に行くことになっている。
恭祐さんに念押しされてから私はいつもよりちょっとだけキレイな服を着て、いつもよりおとなしめのリップを塗って、今朝から気合を入れた。
「いよいよだね。」
プロポーズされた後、なんとなくジョージに報告しにくいなと思っていた私だけど、意を決して報告をしたら「そうなんだ、よかったね。」とあっさり言われた。
それからもジョージの私に対する態度は相変わらずで、それがなんとなくさみしい感じがするわたしはとってもずるい人間だと思う。
「変じゃないかな。」
「うん、すごいかわいいよ。」
彼の両親に会う、というのがもちろん初めてな私は、数日前からずっと不安でジョージに何度も相談したけど、その度ジョージは肯定してくれた。
――――もっとも肯定してくれる、とわかっていたから話していたのだけど。
「大丈夫だよ、どんな格好をしても美衣は絶対に好かれる。」
「なんの自信よ、それ。」
本当になんの自信かはわからなかったけど、時に根拠のない自信は人を励ましてくれる。ジョージの言うことを鼻で笑いながらも、心のどこかではしっかり感謝をしながらいつものバケットを一口かじった。
いつも通りの場所でいつも通りのお昼ご飯を食べているはずだったけど、バケットの味はいつもより薄い気がした。それが本当に薄かったのか、緊張で薄く感じられたのかはわからないけど、朝からそわそわしていたのは自分でも感じられるほどだった。
「お先失礼します!」
「お~玉ちゃん、今日は早いね~!」
いつもは少し残務を処理してから帰る私が早く帰るとき、課長は決まってそういう。
いつもならうんざりしてしまう彼の冗談も、今日は緊張を和ませてくれる魔法のように感じられた。私は感謝の気持ちもこめて、スペシャルなスマイルで課長に礼をして足早にエレベーターに向かった。
「自信もって行っといでよ。」
そんな私をみて、藤堂さんがエレベーターホールまで来てくれた。かっこよくコーヒーを片手にそう言う彼女が、アメリカドラマのヒーローみたいに見えた。よっぽど不安そうな顔をしていたのか、めったにはっきりとは励ましてくれない友永さんがそういうもんだから、少し泣きそうになった。
「はい、頑張ります!」
妻になるということは、夫を支えるということだ。
こんなことでへこたれていてはいけない、とこぶしをぐっと握って友永さんに高らかに宣言した。そんな私をみて満足そうに笑って、手をひらひらと去っていく友永さんの背中は、本当にたくましくて、どこまでもついていきたくなった。
「美衣ちゃん、こっち。」
恭祐さんが選んだお店は、私たちが最初にデートをしたフレンチのお店だった。
なんでもあのお店は恭祐さんが小さいころから行っていたお店らしくて、田舎の少し汚いお店で中華をよく食べている自分の家族のことがとても心配になった。
「ほんとにいいのかな、うちの両親が先で。」
結婚の挨拶は一般的には女性の両親にするのが先らしく、恭祐さんはずっとそのことを気にしていた。でも共働きな上に遠くに住んでいるうちの両親とはなかなか予定が合わず、「先にあちらの両親にあいさつしてきなさい」とお父さんが言ってくれた。
でもずっと恭祐さんもご両親もそのことを気にしていてくれて、電話で直接話もしてくれた。
恭祐さんのそういう義理堅いところがとっても好きだ。
「本当に大丈夫。また仕事が落ち着いたらいこう?」
本当に大丈夫という気持ちをこめてそういうと、恭祐さんは申し訳なさそうな、でも納得をしたような顔をしてうなずいた。
「先に入ってようか。」
「うん。」
思いのほか早くついてしまったせいもあって、恭祐さんの両親はまだレストランについていなかった。外で待っているのも微妙だからと先にお店に入ると、ウエイターが案内したのは最初のデートで私たちが座った席だった。
「なんか、この席には縁があるね。」
「そうだね。」
恭祐さんもそのことを覚えてくれていたことがとっても嬉しくて、私は大げさに喜んだ。そんな私を見て恭祐さんはとっても嬉しそうな顔をした。
そんなほっこりするやりとりの間にも私の緊張は全然よくならなくて、むしろ静かで厳かな店の雰囲気が、もっと緊張を加速させていた。
「ふぅ。」
大きく深呼吸をした私をみて、恭祐さんはくすくすと笑った。
「ねぇ、笑い事じゃないよ。」
いつか私が恭祐さんに言ったセリフをそのまま返した。それに気づいたのかはわからないけど、そのセリフで恭祐さんはもっと楽しそうに笑った。
「ごめん、でも美衣ちゃんずっと緊張してるから。」
「そりゃそうでしょ!」
レストランの雰囲気に似合わないスピードのツッコミを恭祐さんに入れた。すると彼はもっと楽しそうに笑って、全然謝る気のない「ごめん」を言った。
「でも、本当に大丈夫だから。安心して。」
そう言われても安心できるはずはなかったけど、私は自分を納得させるために深くうなずいた。でも心のどこかで、自分の両親に恭祐さんが会うとき、絶対仕返ししてやろう、と誓った。
「こちらです。」
そんなやり取りをしているときに、斜め後ろでウエイターの声が聞こえた。その声に反応して振り返ると、恭祐さんによく似た女の人と、とっても優しそうな男の人がそこにはいた。
「久しぶり。」
恭祐さんがそういうもんだから、馬鹿な私にもすぐに2人が恭祐さんのご両親だということはわかった。私はすぐに立ち上がって、いつもより深く礼をした。
「はじめまして。」
おしとやかに声を出したつもりだったけど、緊張していつもより大きな声がでた。そんな私をちょっとほほえましく笑ったご両親は、とてもおだやかに「はじめまして。」と返してくれた。
「遅くなってごめんなさいね。恭祐の母です。」
席について、とても上品にお義母さんは言った。私も負けじと上品に礼をしたつもりだったけど、たぶん普段からそんな振る舞いをしていない私に、今更上品な礼ができているとは思えなかった。
「こちら電話でも紹介したけど、玉山美衣さん。」
恭祐さんはあたりまえだけどいつもと同じ様子でそういった。私といえば恭祐さんの紹介に合わせてもう一度必死に礼をするしかできなかった。
「玉山美衣と申します。本日はお時間いただきましてありがとうございます。」
なんだかちょっと仕事モードのまま、私は言った。
「こちらこそありがとうね」というご両親の笑い方は、恭祐さんに似てとても暖かかった。
「さ、なにか頼みましょうか。」
「そうだね。」
あたりまえだけど東京に住むご両親は標準語で話をする。
なんだかそれが私にはとっても不思議におもえた。そうやって私が不思議がっている間に、慣れた様子で3人は料理とお酒を頼んだ。なにもできなくてあたふたしている私だけがお店の中で浮いていた。でもそれを感じているのもきっと私だけだと思った。
「美衣さん、田舎はどちらなの?」
「岐阜県です。街灯もろくにないところで育ったので、
東京に出てきたときは本当に驚くことばかりでした。」
生まれも育ちも東京だというお義母さんは、それからしばらく私の田舎のことを聞いた。私たちにとっては普通のことがとても珍しいらしく、目をキラキラさせて聞いてくれるところが、恭祐さんにとっても似ていると思った。
「この人もね、田舎が山口にあるの。最初に行ったときはびっくりしたわ。」
「文句言ったけど、結局魚が美味しいって喜んで帰ってきただろ、お前。」
「そうだったかしら。もう30年も前のことだから忘れちゃった。」
お義父さんとお義母さんはとても懐かしそうに昔の話をしてくれた。
基本的にお義母さんが話をして、お義父さんと恭祐さんが訂正したりツッコミを入れたりしていて、この家族のペースはお義母さん中心で回っているのだな、と思った。
でもそれは悪い意味ではなくて、ちょっと抜けててかわいいお義母さんを2人がサポートしている感じがして、とても微笑ましかった。
恭祐さんがとてもやさしいのは、こういう穏やかな家庭で育ったからだな、と本当に実感した。
「とうさん、かあさん。」
楽しく食事が終わって、私がようやくこの状況に慣れてきたころ、恭祐さんが改まって言った。その改まった声につられて私も姿勢を正してご両親の方に体を向けた。
「まだ美衣ちゃんのご両親にあいさつに行けてないからわからないけど、
美衣ちゃんと結婚したいと思ってます。」
恭祐さんが話す間、ご両親はしっかり「うんうん。」と話を聞いてくれていて、恭祐さんはこんなところもご両親に似たのだな、と思った。
「相談してからだけど、式は来年の春あたりにしようと思ってる。」
「いいわね、春。私たちもそうだったのよ。」
ね。というお義母さんに、お義父さんは飽きたようにうなずいた。
そんなやりとりに笑ってしまいそうだったけど、こらえてしゃんとして座った。
「日程とかは後日相談させてもらうのでお願いします。」
恭祐さんのお願いに合わせて小さく礼をすると、ご両親は今日で一番穏やかな顔をした。本当に恭祐さんって愛されて育ったんだな、なんだか私がとっても嬉しくなった。
お会計はすべてご両親が済ませてくれた。恭祐さんと私で払うといったけど、そこはお義父さんがスマートに対応してくれた。そのスマートを恭祐さんはきっと受け継いだのだな、と思った。
「美衣さん。」
その後お店を後にしようとすると、お義母さんがふいに私を呼んだ。反射的に振り返ると、お義母さんは勢いよく振り返ったわたしをクスリとわらった。
「恭祐を、お願いしますね。」
そう言ったお義母さんはどこか少し悲しそうで、でもうれしそうでもあった。
息子が結婚するという親の心情はきっととても複雑に違いない。娘が結婚して遠く離れた東京に住むうちの両親はもっとさみしいかもしれない、とふと考えた。
「はい。」
お義母さんを安心させられるほど、私は”いい妻”になれるのだろうか。
家事もうまくできない私にとってそれはとっても難題な気がしたけど、せめて頑張るという意思くらいは伝えておきたくて、力強くうなずきながらそう言った。
今まで生きてきた中でたくさんの「はい」を言ってきたけど、今日の「はい」はいつもと全然違ったと思う。私の言葉を聞いたお義母さんが優しく微笑んでくれたのが何よりの証拠だった。
プロポーズされてから、"妻になる"という時間もあまりないまま過ごしてきた私だったけど、お義母さんの一言で身がぐっと引き締まる想いがした。
私には素敵すぎる恭祐さんを幸せに力はそんなにないかもしれないけど、今は幸せにしたい、という意思と頑張る気持ちだけで十分な気がした。
「だから言ったでしょ。」
恭祐さんの両親とのご飯のことをジョージに話すと、ジョージはそう言ってなぜか得意げな顔をした。
「美衣が嫌われるわけないじゃん。」
この人の根拠のない自信は、本当にどこからくるんだろう。私はあきれ半分、でも褒められてうれしい半分で笑った。
「美衣、幸せそう。」
恭祐さんと出会う前、ここでジョージと愛だの恋だの言って議論していた頃よりは、確実に幸せだと思う。自分が好きになった人に、一生一緒にいてほしいといわれたことは本当に奇跡で、思い描いていた“普通の幸せ”がもうすぐそばにあることを、私はやっと実感し始めていた。
「よかった。」
ジョージの言葉を黙って聞きながらバケットをかじる私に、本当に気持ちのこもった「よかった。」をジョージは言った。その表情はどこか儚げに見えた。
「ありがとね。」
いつも話を聞いてくれて、時に叱ってくれる友達がいるということも、とても幸せなことだと思う。一番近くにいるはずなのに、自分は自分のことがよく見えなくて、でもジョージは私のことがとてもよく見えていた。
「もう、僕がいなくても大丈夫だね。」
「え?」
いつもくだらない会話をするみたいにサラッとジョージがおかしなことを言うもんだから、本気で驚いてジョージをみた。
そんな私をいつもみたいに笑って、ジョージは空を見上げた。
「ずっと言われてたけど、本格的にNY支店に移動しようと思って。」
空に向かって大きく息を吐いたあと、視線を戻したジョージは少し複雑そうな顔をして言った。
考えてみれば英語もスペイン語も、もちろん日本語も使いこなす彼に、移動の話が来ていないはずがなかった。でも驚きすぎた私は、何も言えないままジョージをただ見つめていた。
「今までは断ってたけど、美衣に失恋もしたし、
今がタイミングかな、と思って。」
こんな時でも冗談を言うのか、と思いながらも、私はまだ言葉が出なかった。ただただ驚いて声を失うしかできなかった。
「そんな顔しないで、期待しちゃうじゃん。」
何を期待するんだと思ったけど、私はようやく自分を取り戻して小さく息を吐いた。
「いつ、行くの?」
「来月には。」
それはあまりにも突然で、また私は言葉を失いそうだった。
でも、海外への移動はうちの会社では出世コースだ。人当たりがよくて頭もよくて、こうやってお昼ご飯を食べている私とは別世界に生きている彼にとって、出世は確約されたものだったのかもしれないけど、友達としてこれは喜んであげるべきことだった。
「よかったね、おめでとう。」
ありきたりな言葉だけど、心を込めてそう言った。
するとジョージはもっと複雑そうな顔をして、「ありがとう。」と言った。
「毎日美衣とご飯食べられなくなるの、さみしいな。」
「うん、私もさみしい。」
私が素直にそういうもんだから、ジョージはすごく驚いた。そしてまた悲しいのかうれしいのかわからない顔で笑った。
「頑張るんだよ。」
「美衣もね。」
私にとってジョージは、友達というより一緒に戦っている仲間みたいに感じられた。仕事で失敗したときも、なにか落ち込んでいるときも、気が付けばいつもジョージに励まされていた。それは仕事の時だけでなく、恋愛のことに関しても。
これからは離れるけど、でもともに戦う仲間には変わりない。そう思ってジョージに心からの激励を送った。
―――最後まで複雑そうな顔をしていたジョージに、
気が付かないほど私は子供ではなかったけど。それから私たちは、なぜか黙ってバケットを食べ続けた。
私は自分の感情も、ジョージの感情も、どういうものかよくわからないままだった。
ただいつも通りの青い空だけが、これからの私たちを静かに見守っていた。
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