3.見なくてもいいならずっとこのままで
「なんだかいつもより何倍もツヤっぽいね、美衣。」
魔法のような週末もいつものようにすぐに終わってしまった。
まるで12時の魔法が切れたシンデレラのように浮かない顔で出社したつもりだったけど、やっぱりジョージには何か感づかれて、この人は透視能力でもあるのかと疑った。
「よく寝たからかな。」
「そんな理由だったらいいんだけど。」
すべて見透かしたような目で私を見たジョージは、月曜日に似合わないスーパースマイルを浮かべて颯爽と去っていった。私は盗聴器でもついていないかと一度自分の体を見てみたけど、そんなものはあるはずもなく、そんな馬鹿なことを考えるのをやめていつもどおり自分のデスクに向かった。
「映画デート、楽しかったんでしょ?」
「映画?」
お昼休みジョージにそういわれるまで、週末は映画デートに行っていたということをすっかり忘れてしまっていた。私が聞き返したことに一度怪しげな顔をしたジョージの疑いをどこかに飛ばしてしまうために、いつもより元気に「楽しかったよ。」と答えた。
「何をみたの?」
「あの、話題になってるミステリーの・・・。」
「え?あれ?!」
ジョージはおおげさに驚いて、大きく目を見開いて私を見た。
彼は私が怖い映画を見ないことをしっている。それは私もジョージも映画がすきで、怖いシーンやグロテスクなシーンが苦手という共通点から、たまに一緒に映画を見に行っているからだった。
「大丈夫だった?」
「う~ん・・・。」
大丈夫だった、といえば嘘になる。
何度も怖くて目をそらしたくなった。でもそんなことは言わなくてもジョージが全部見透かしてる気がして、返事もせずホットコーヒーを一口含んだ。
「無理なことは、無理って言わなきゃ。」
「無理ってほどじゃ・・・。」
事実、無理というほど怖くはなかった。
ミステリーの緊迫したお話も、たまに見るのはとても新鮮で楽しいと思ったのも事実だった。でも一緒に公開していた恋愛ものの映画のほうが見たかったというのも、まぎれもない事実だった。
「・・・あのね、あの人に会ったの。」
恭祐さんと甘い夜を過ごして、しばらく感じたことのない気持ちも味わえたけど、やっぱりあの夜会った、実在する”影”のことはずっと頭から消えなかった。
整理したくないけど勝手にジョージに事実を話してしまう口は、私が気がついたころにはすでにそのことを話していた。
「そう。それで?」
やっぱりジョージは聞き上手だった。
話すつもりもなかったこともジョージの前だとぺらぺらと話してしまっていた。
「すごく、嫌だった。」
話したいことはたくさんあった。でも、この一言に尽きた。
すごく嫌だったのだ。あの人の影がまだ恭祐さんの中にあることが、すごく嫌だったんだ。
――――――あぁ、やっぱり好きなんだ。
「美衣がすごく嫌な気持ちになるのが、僕にとってすごく嫌なことなんだけどね。」
いつも元気なはずのジョージの声がなんだか悲しそうに聞こえたのは、私の気持ちが落ち込んでいたからだろうか。いつも聞いてばかりいてくれるジョージに、「ごめんね。」とい気持ちをこめて小さく笑った。
「美衣がいいって言うから黙ってるけど、
少なくともそんなタイミングで手をつなぐ男に、美衣はふさわしくないよ。」
私はジョージがおもっているほどすばらしい人間なわけなくて、ふさわしくないといってくれる彼の言葉のほうが、もっと私にふさわしくないとひねくれたことを考えた。
「寝たの?」
その夜は久しぶりに藤堂さんとご飯に行く約束をしていた。
いつも2人でいく行きつけの居酒屋のおつまみと、黄金の飲み物をいつもどおり豪快にそして清楚に飲みながら、週末の話をしようとした私の言葉を聞く前に藤堂さんは言った。
「はい。」
ジョージにはさすがにこの話はできなかった。
私も女子としてのたしなみがあるし、そんなことを会社で昼間から話すほど私も豪快な人間にできていなかった。
そしてなによりやっぱり私もちょっとはジョージに後ろめたいと思う気持ちがあったからだと思う。
「やるじゃん。」
ニヤつきながら言った藤堂さんが女の人に見えなかった、なんて口にしたら一瞬で終わると思った。
「でもなんであんたそんな浮かない顔してんの。」
ジョージと藤堂さんの透視能力は少し似ていた。
藤堂さんも私がこうやって何かあるたび一言言葉を発するだけで、すべてお見通しみたいなことをいつも言う人だった。
「忘れ、たかったのかな。」
酔っていても、いくら記憶がなくても、私を抱く恭祐さんの気持ちは脳内にインプットするみたいに私の記憶にしっかり残っていた。余裕がない様子で私を抱く恭祐さんの気持ちは、きっと私になかった。
いや、きっとあるんだろうけど、それは”誰かを忘れるための私”にあった。
「ばかだね。」
そんな私の話を聞いて、一言目に藤堂さんは言った。
「ばかじゃないんだから、あんたが一番わかってるでしょ。」
その後一言目の言葉とは矛盾した言葉を発して、藤堂さんはまた黄金の飲み物をサラッと飲み干した。
分かっている、そんなことは私が一番わかってる。
でもそんな彼を好きになってしまった私は、”忘れるための私”でもいつか私だけを見てくれると信じたかった。恭祐さんの優しさも私に向けてくれている好意もきっと嘘ではなくて、本物だって分かるこそそう信じたい自分がいたんだと思う。
分かっていてもとめられなくなるのが恋なんだと、
久しぶりにらしくない熱いことを考えた。
その後も恭祐さんはしっかり私に連絡をくれた。
私も彼も仕事が忙しくなってしまってなかなか予定が合わなかったけど、それでもメッセージや電話は欠かさずしてくれて、”忘れるための私”も、彼にとっては大切な存在でいられていることをしっかり感じることができた。
大きな仕事が一段楽した週末、久しぶりに会社の飲み会が開かれることになった。
大きな取引を勝ち取って大きな仕事を成功させられたことに関わった全員が浮かれていた。私の課はもちろん、ジョージの課やそのほかの部署も一同に参加して、まさに”宴”が開かれるようになったその日、全員が浮かれた気持ちのまま乾杯をした。
幸せなはずだった恭介さんとの夜のことも、忙しくてなんとなく嫌なところだけ都合よくわすれた私の頭は、仕事の成功に浮かれる気持ちでいっぱいだった。
「玉ちゃん~、よく頑張ったねぇ、お疲れ様。」
会社の飲み会は一緒に仕事をしていく上で相手と打ち解けるためのとても大切な機会だと思う。飲み会が嫌いだといわれる私たちゆとり世代でもそのくらいは理解している。
でも特に働く女性にとって、会社の飲み会ということを忘れてスナック感覚で近づいてくるセクハラ社員を受け入れられないのは、共通のグチだと思う。それだから飲み会に行きたくない、という人もきっと多い。
私もそんな中の一人だけど、幸い私はお酒が得意だったし、学生時代ちょっとだけコンパニオンのバイトをしていたことで、こういう”オヤジ”への対応も慣れていた。
「ありがとうございます、課長のおかげですよ。」
当たり障りのない言葉をかけて、無難にこの場を去る自信はあった。
大体何度かこういうことをいえば、大抵の”オヤジ”は満足するものだ。でも課長に限っては本当にしつこい。私が出会ってきたオヤジの中でも群を抜いてしつこい。酔っ払っているから邪険に扱うこともできるけど、そうすると後輩に被害が及ぶから、いつも会社の飲み会の最後は課長の相手をして終わる、というのが私のお決まりのパターンだ。
「玉ちゃん~、可愛いねぇほんと。」
「ありがとう、ございます。」
自分で言うのもちょっと気が引けるけど私はおじさんウケがいい。
たぶん飛びぬけて美人でもなくて、スタイルがいいわけでもない。でもブスでもないし、デブでもない、という関わりやすさが受けているんだ、と私は分析している。
おじさんにもててもしょうがいないけど、仕事をする上ではとってもやりやすくて、私は自分のそういう特性を利用させてもらってるけど、そういう特性が友永さんに嫌われる原因だったりする。
―――――「若い女」っていうのはとても簡単なようでとても難しいものだ。
私は課長の話を聞いている振りをしながらも、そんなことを考えていた。
酔った勢いに任せて課長のボディタッチは増えていたけど、そんなことはどうでもよかった。慣れってのは本当に怖かった。
「美衣、2課の佐々木課長呼んでるよ。
翻訳のお礼がしたいんだってさ。」
今回の仕事は、韓国の企業に向けてのコンペだった。
学生時代韓ドラにはまってから、中途半端に韓国語能力をつけたわたしの語学力は、意外と仕事上でも役立った。何度か今回のコンペを中心的にすすめていた2課からは翻訳を頼まれたけど、お礼を言われるほどでもなかった。
でも私はやっとここから抜け出せると心からガッツポーズをして課長に軽く挨拶をすると、課長はすごく不服そうな顔をしていたけど、何歩か歩いた後振り返ってみると、違う女の子にセクハラをしていた。
「美衣。」
そんないつもの光景にやっぱりかとあきれながらも少し申し訳ない気持ちで足を前に進めていると、ジョージに腕をつかまれた。びっくりして振り返ると、ジョージは少年のようにいたずらな顔をして立っていた。
「佐々木課長、別に呼んでないから行かなくてもいいよ。」
「え?」
ジョージはそのままいたずらそうな顔で言った。私がそのままはてなを浮かべた顔で立っていると、ジョージはもっと得意げな顔をした。
「美衣が心の中で助けて~って何回も言うから、その声僕には聞こえちゃったんだよね。」
少し怖くなるくらいに人の気持ちを察することができる技術を誰に教えてもらったんだろう。
いつも楽しいはずの飲み会を台無しにする課長のセクハラから逃げられた私は心底ホッとして、すると自然に笑顔がこぼれた。自分の表情が見えていない自分でもわかってしまうほど、大げさに笑った。
「やった、美衣の笑顔だ。」
そんな私をみて、ジョージは彼らしい甘い言葉を吐いた。
私はそんないつものセリフを聞いてなんだかまたホッとして、せめてものお礼にと彼にビールをついだ。
「プロジェクトの成功と、美衣の笑顔に。」
人より少し大きめのジョッキがジョージにはよく似合った。いろいろな意味で彼は特別で、でもその特別が似合ってしまうような人だった。
いつも通り目をそらしたくなるほど熱い視線と甘いセリフも今日は素直に受け取ってあげようと、私はその大きなジョッキに自分のグラスをそっとぶつけた。
「乾杯。」
それから私はジョージと2人で飲みに行くときみたいに豪快にお酒をすすめた。
韓国のお客様に向けてのプロジェクトにはもちろん英語が必須だから、大きな仕事が成功したといってもその成功の80%くらいは、ジョージが貢献しているといっても過言ではないと思う。
その貢献度は誰が見ても明白だったけど、やっぱり手柄を持っていくのは上の方の人たちで、でもそんなことにも動じないほどジョージは嬉しそうだった。
「山崎くん、ほんとにお疲れ様!」
そんなジョージのところにはたくさんの人がお酒をつぎに来てお礼を言った。お礼を言いに来る人はみんなついでに私にも乾杯をしてくれて、ジョージのおかげでいつもより何倍も楽しい飲み会になった。
「ありがとう。」
「急にどうしたの?」
いつも私がジョージにしてもらっていることに対して、私のお礼は少し足りていない気がした。むしろ私のことを気にかけてくれている彼に対してとっても失礼なことをしてしまっているような気持ちになってお礼を言ったけど、ジョージは全く気にしていないようだった。
ジョージは本当にわからない人だ、と思った。
「玉ちゃん、カラオケ行くよね?!」
「もちろんです!」
カラオケは大好きだ。学生時代軽音楽部のボーカルをしていたこともあって、それなりに歌が歌える私は、カラオケにいくとプチ人気者になれる。もちろん、“おじさん”のための昭和の曲も用意して毎回披露するから、課長は私とカラオケに行くのが大好きだ。
カラオケは距離が近いからセクハラがしやすい、というもの理由の一つだと思うけど。
2次会のカラオケに参加するメンバーは1次会の半分くらいにはなったけど、いつもより参加率は高いと思う。これも全部大きな仕事が終わった達成感にみんなが満ちていたからで、お酒も手伝って明らかに雰囲気は浮かれていた。
それは私も例外ではなくて、もちろんもともと陽気なジョージも最高にテンションが高かった。いつもの行きつけのカラオケに予約の連絡をして、みんなでなんとなく固まって歩く足取りもいつもより軽かった。団体の一番後ろからそんな光景を見つめながら歩くだけでもとても楽しく思えた。
そんなお酒に酔って楽しい私の目に、バーから出てくる見覚えのある顔が入った。
―――恭祐さんだ。
しばらく会えていなかった恭祐さんをみて楽しい気持ちがもっと高まった。
自然と弾む気持ちが恋をしていることを痛感させているように思えた。普段ならそんなことしないけど、楽しい気持ちになっている私は小走りで恭介さんのもとに向かった。
「恭すっ…」
彼の名前を呼ぼうとしたそのとき、そのバーからは女の人が出てくるのが見えた。
その時私は自分の記憶力を呪った。私は一度顔をみたらなかなか人と名前を忘れないのが特技で、仕事上でその特技はとっても有効的に生かされていたけど、今回ばかりはそんな自分が嫌になった。
―――恭祐さんはあの人と一緒だった。
気が付かなかったふりをして、現実をみないふりをして、何事もなかったようにそれなりに過ごすのが特技のはずの私の足は完全にその場で硬直して、そのまま2人の姿から目が離せなくなった。
そして次の瞬間、あの人は恭祐さんの手をぐっと握った。
恭祐さんは嫌がるそぶりも見せず、握られた手をぐっと見つめていた。その時の恭祐さんの顔は見たこともないほど悲しくて、私がもらい泣きをしてしまいそうなほどだった。
「美衣!」
そんな時コンビニに寄ったせいで遅れていたジョージが大きな声で私を呼んだ。
いつもは驚くほど空気が読めて驚くほど紳士なジョージの間が悪い瞬間を、私は初めて見た気がした。案の定その声に反応してこちらを見た恭祐さんは、急いでその人の手を払った。
一連の状況をずっと見ていたから、その手が恭祐さんによって握られていないことを私は知っている。でもその恭祐さんの慌てた行動が私を動揺させた。
恭祐さんのその私を思ってした行動が、見なくてもいいなら見ない方がいい現実を私にはっきりと突き付けてきている気がした。
「美衣ちゃん。」
私は恭祐さんにそう呼ばれるのが好きだ。
優しくて思いやりがあって、そんな気持ちを込めて恭祐さんが私を呼んでくれる声が私は大好きだ。でも今回のその声は後ろめたさでいっぱいだった。なんだか全身がひんやりして感じられて、ほてっていたはずの顔もすっかり冷え切っていた。
「恭祐さん、こんにちは。」
私はそんな冷え切った頭で、冷え切ったままの挨拶をした。
こんな状況でも冷静に働く頭が嫌になったけど、逆に冷静でいられる自分をほめたくもなった。
「美衣ちゃん、ちょっと話せる?」
無理やり笑顔を作った私に恭祐さんは不安そうな顔をして言った。
話したいけど話したくない。わかっているけどわからない。見たいけど見たくない。
私の中の葛藤が今にもあふれ出しそうで、でもそんな気持ちも冷静に押し込めて私はまた笑顔を作った。
「今会社の打ち上げ中なので、また今度。」
そういうと恭祐さんはとっても不服そうな顔をして、「ちょっとでいいから」と言ったけど、私はそんな申し出もはねのけて恭祐さんとあの人にペコリと礼をして歩き始めた。
そんな私の背中をジョージが追いかけてくるのが何となく感じられた。
冷静に、どこまでも冷静に私は歩いていた。
その時の感情といえば「無」で、でもそれは本当に「無」だったわけじゃなくて、無理やりそうしないと崩れてしまいそうな自分をなんとか前に進めるための、人工的な無だった。
「美衣。」
そんな私の無を切り開くように、ジョージの声がまっすぐ耳に届いた。
ジョージはいっつもまっすぐで、言葉も行動も嘘がなくて、今の私にはそれがとっても痛かった。
「美衣。」
でもそんな私の痛みを知ってか知らずか、ジョージはついに前に進む私の腕をつかんだ。
「お願い。」
お願いだから、前に進ませて。
見なくてもいいならずっとこのままでいられた現実を、また自分のものにするために、私にはしばらく「無」でいる必要があった。それは前に進んでいるようできっと後ろに進んでいるのかもしれないけど、今の私にはそんなこと関係なくて、とにかく自分の気持ちを落ち着けるので精いっぱいだった。
「いやだ。」
でもジョージはそれを許してくれない。
それはとっても彼らしい行動だったけど、いつも優しく話を聞いて意見をくれる彼のまっすぐさが憎らしく感じられるほど、今の私は本当に「無」になりたかった。
「お願いだから…っ。」
2回目にそう言った私の目からはもう涙が止められなかった。
それは作っていた無が破られた証拠で、「ほらやっぱり。」と私の中の私が言っていた。
涙をいっぱいためて振り向く私に一瞬びっくりしたジョージは、次の瞬間には私を抱きしめていた。最初はじわじわと崩れ始めていたはずの私の無が、ジョージのその行動のせいでもう崩壊してしまっていた。
その崩壊をしっかり私に自覚させるように、涙がどんどんあふれてきた。
「美衣ちゃん!」
そんな私の崩れた無に、さらにそれを崩す声が溶け込んできた。
もう私には何が何だかわからなくなっていた。いつも冷静に自分や周りを分析できることに自信があったわたしも、完全に考えるのをやめた。考えてもいつもの冷静な自分にはなれないことだけは、考えられない頭でも理解できた。
「美衣ちゃん。」
恭祐さんは余裕のない声で私を呼んで、ジョージと私を引き離した。
ジョージはそんな恭介さんと私の間に入って恭介さんをじっと見つめた。
「美衣ちゃん、ごめん。やっぱり話しないと気が済まない。」
「今じゃないとダメなんですか?」
ジョージは珍しく、丁寧にそう言った。
いつもアメリカ式で目上の人に対してもラフな彼がしっかりとした敬語を使って冷静にそう言った。今のジョージは完全に譲二だった。
「美衣ちゃんと話がしたいんだ。」
そんな譲二を無視するように、恭介さんはそう言った。もうどうにでもなれ。と思った。
「美衣、行っといで。」
今まで私と恭祐さんの壁になってくれていたジョージは、あっさりわたしを突き放した。その言葉が意外でジョージの目を見ると、いつも通りしっかりと私を見つめていた。でもその目は少し泣いているようにも見えた。
「行かせたくないけど、でも行かなくちゃ。」
私のためにならない。逃げるな。
という言葉が、そのあと聞こえた気がした。
いろいろな現実から逃げてそれなりにやっていくことを選んで生きている私にとって、今の状況はとてもらしくなかった。このまま逃げてなかったことにして今まで通り生きていきたかった。でもそれはジョージが許してくれなくて、立ち尽くす私の背中をジョージは両手で優しく押した。
「ありがとう。」
恭祐さんはいつも通りスマートな声で言って、私の手を取った。
その手はとっても優しくて暖かくて、思いやりがあった。恭介さんのいつも通りの手だ、と思った。
「座って。」
どこかそのままお店に入って話そうと思ったけど、泣いたせいで人前に出られるような顔じゃなかったし、2人きりになりたかったのもあって、近くだった恭祐さんのうちに行くことにした。
前と変わらず無機質で冷たい印象の部屋の奥のベッドルームの布団は、恭介さんが朝起きたままの状態になっていて、恭祐さんでも生活感のあるとこあるんだ、とちょっとひどいことを考えた。
「ココア、好き?」
「はい。」
恭祐さんが入れてくれた甘い香りのココアは、私の心を一気にホッとさせた。
ちょっとの緊張がまだ抜けない私の心を溶かすように口から体の中に広がる甘みと暖かさは、人のぬくもりに似ていると思った。
ココアで一息ついたあと、恭祐さんはスッと息を吸って語り始めた。
「びっくりしたでしょ。」
びっくりは、もちろんした。
したけどでもなんていうか、たぶん恭祐さんが思っているほどはびっくりしていないと思う。藤堂さんが言うように私はそこまでばかじゃなくて、でもそれに目をつむっている私はとってもばかだ。
「こないだは知り合い、なんて言ったけど、本当は元カノなんだ。」
恭祐さんはどこかから絞り出すようにそう言った。
知り合いって嘘をついたって後ろめたい気持ちだったのかもしれないけど、でもそれは私に対する配慮もあってこそのことで、そこまで後ろめたく思ってもらう必要もないのに、と思った。
「結婚も考えてた。お互い真剣だったし、本当に好きだったし。」
恭祐さんの“好き”という言葉に思わずドキッとした。
わかっているけど実際に聞いてしまうとその言葉は心に突き刺さってきて、でもそうやって本当のことを隠さずに伝えてくれることが、今の恭祐さんの誠意なのだと思った。
「でも僕らの歯車はいつからかおかしくなって、
そうなっちゃったらいくら好きでも一緒にはいられない。」
好きというだけでずっと一緒にいられないのが“大人”というものらしい。
もちろんその“大人”の仲間入りをしている私はそんなことわかっているし、それなりの恋愛を求める私にとって「好きだからずっと一緒にいたい!」みたいな夢みたいな考えは、とうの昔に捨ててしまった。
「でもやっぱりどこかで忘れられなくて。」
そういった恭祐さんはさっき見たみたいなとっても悲しい顔をしていた。
恭祐さんをここまで追い詰める好きだけでずっと一緒にいられない大人の事情は、私が思っているより何倍も複雑なのかもしれない。
「でも忘れられないって、好きだからとかじゃなくて、なんていうか…。」
人って都合のいい生き物だから、忘れたい記憶からなくなっていく。
でも“想い”が“重い”ほど、想い出って記憶の深いところまで入り込んでいて、そう簡単には忘れられない。それがずっと恭祐さんを苦しめているんだなってことくらい、私にもわかる。
「想い出…。」
ぽつりと私がそうつぶやくと、恭祐さんは肯定する代わりに小さく自分にあきれるように笑った。それは私が全部お見通しだったってことを恭祐さんが気づいた証拠で、きっと隠し通せてない自分にあきれて笑ってしまったんだと思う。
忘れられない人がいることくらい、私にだってわかっていた。
だって私はそうそう子供じゃないし、いろんなことを悟ってしまう“さとり世代”とも呼ばれているし、色々なことを客観視できる自信もある。
でもそれでも私は恭祐さんが好きだと思った。それなりの恋を求めていた私は、いつしかしっかり恭祐さんに恋をしてしまっていて、おさえられなかった涙とか、今の苦しい気持ちが全部それを証明していた。
「だからこそ、会いに行ったんだ。」
悲しかった恭祐さんの目が、とっても真剣に変わった。
目の奥の奥にある彼の真剣さが悲しさの代わりに私にもひしひしと伝わってきて、それが今度はとっても心地よかった。
「実は美衣ちゃんに出会った時だって、
まだ俺は前を見れてなくて、見かねたあいつらに無理やり飲み会に連れだされたんだ。」
恭祐さんの一人称が「俺」に変わった。
なんとなくそれが私に心を許してくれた証拠みたいに感じられてちょっとうれしかった。
「でも無邪気な美衣ちゃんの笑顔とか、素直なところとか人懐っこいところとか…。
触れていくうちにすごくいとおしく思えて、本当に好きになったんだ。」
恭祐さんが言うことに嘘がないことは、私が一番よく分かった。
恭祐さんの口から「好き」を聞いたのは2回目だったけど、でも自分に言ってくれた「好き」は初めてで、とてもくすぐったくてとてもあたたかかった。
「けじめをつけにいってきた。」
男らしく、大人らしく、恭祐さんは言った。
私もそんな言葉に大人らしくうなずいてみせたけど、どんな気持ちか自分でもわからない感情がこみあげてきて、子供みたいに泣いてしまった。
「美衣ちゃん。」
そんな私をやっぱり大人らしく恭祐さんは抱きしめた。恭祐さんのあたたかさと匂いで心がいっぱいになって、私はまた泣いた。
「泣かせてごめんね。俺、ほんとに美衣ちゃんが好きです。」
泣き続ける私の肩を持って恭介さんはまっすぐ目を見てそう言ってくれた。そんなまっすぐさにちょっと恥ずかしくなった私はフッと笑ってしまった。
「今真剣なところだよ?」
「ご、ごめんなさい。」
「かわいい。」
恭祐さんはそう言って私の頭を子供みたいに撫でた。大人ぶってみたかった私だけど、今は素直にされるがままになろうと思った。
「美衣ちゃん、ちゃんと言えてなかったし、順番がおかしくなったけど…。」
しっかり座りなおして恭祐さんは鼻をかいた。
あ、きっと恭祐さんが照れてるときにやる仕草なんだろうなって発見できたことがうれしくなった。
「僕と付き合ってください。」
笑ってるのか泣いてるのか、自分のことなのにわからなかった。そんな感情のまま、私は精一杯うなずいてみせた。
私の中にあるありったけの感情があふれ出して、それは私らしくないとっても必死の感情だった。そもそも私らしいってなんだろうって思ったのと同時に、なぜかジョージのことを思い出した。
そんな私をしばらく慰めたり抱きしめたりしてくれた恭介さんは、ココアの代わりにワインを持ってきてくれた。
「俺らの記念日にってことで。開けちゃおう。」
お酒関係の仕事をしている恭祐さんは、お酒にとっても詳しかった。
私には価値があまりわからないそのワインは、普段はあまり飲めない代物らしくてちょっと興奮しながら開ける恭祐さんがとってもかわいく思えた。
「乾杯。」
「乾杯。」
しっとりと鳴ったグラスの音が、いつまでも耳に残って離れなかった。それは何かの始まりを告げる音のようでもあり、強がっていた自分を終わらせる音のようでもあった。
「それで、あの男ってだれ?」
しばらく楽しく話しながらワインを飲んでいると、恭祐さんがサラッと聞いた。
あの男?って一瞬考えたけど、そういえば恭祐さんが迎えに来てくれた時、私はジョージに抱きしめられていたことを思い出した。
「えっと、会社の同僚で…。」
「なのに抱きつかれるんだ。」
「そ、そういうことじゃなくて…っ。」
動揺すればするほど嘘っぽい気がした。
でも動揺する私にフッといつもの笑顔をくれた恭祐さんは、頭にポンと優しく手を置いてくれた。
「わかってる。大丈夫だよ。」
いつものペースを取り戻したように恭祐さんは言った。
それはとっても余裕の一言に聞こえて、さっき女の人に手をつかまれているだけでこれだけ動揺している自分が少し恥ずかしくなった。
「でも、もうさせちゃだめだよ。」
「え?」
とっても余裕そうにワイングラスを持って一口さらっと飲んだ恭祐さんが言った。その言葉はちょっと余裕がなさそうに聞こえて、私は思わず恭祐さんの顔を見た。
「見ないで、バレるから。」
「な、なにがですか?」
動揺する私を恭祐さんは抱きしめた。それは明らかにわかる照れ隠しだった。
「俺だって、余裕ないんだから。」
余裕、ないんだ。
こんなに大人で落ち着いてて、私より何倍も大人に見える恭祐さんなのに、余裕ないんだ。そう思うとなぜかとってもいとおしい気持ちになってきて、私は恭祐さんをぎゅっと抱きしめ返した。
「私だって、恭祐さんのこと好きになって余裕なくなっちゃいました。」
酔っぱらったせいだろうか。
私はめったに口にしない建前じゃないことをさらっと口にした。すごく恥ずかしい気がしたけどそれはお互い様だったのでもうあきらめることにした。
「ねぇ美衣ちゃん。それってわざと?」
「え…っ。」
「今日は誠実な気持ち伝えるためになんもしないでおこうと思ったのに…。」
それからはお酒に酔っていたせいかその雰囲気に酔っていたせいかわからないけど、あまり覚えていない。とにかく確かに言えることは、恭祐さんのぬくもりが前とは違う、私のものだったってことだった。
自分の見たくなかった現実を突きつけられてとってもつらかった今日は、いつしか本当の恭介さんを知れた大切な今日に変わった。
話してくれたからと言って、現実をしっかり私が確認したからと言って、“忘れられない人”がいなくなるわけではなかった。すぐに忘れられるわけでもなかった。でもそれでもよかった。
今回の「それでもいい」は前回の「それでもいい」とはちょっと違っていた。
今恭祐さんはしっかり私のことを好きでいてくれて、それだけで十分求めていた“それなりの恋”には見合っていたし、むしろそれなりを超えて本当に恋をしてしまっていた。
きっと忘れるためのわたしでも、いつか恭祐さんの想い出を記憶に変えることだってできる。本当に彼が私のことを好きでいてくれる限り、その希望はいつか確信に変わると思った。
ゆっくり私たちのペースでも、いつかくるその日を夢見た。
そうやって何かを願って夢見るのも、とっても久しぶりのことだな、と思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます