2.忘れられない人の影

「美衣ちゃん。」


私服の恭祐さんはとても新鮮だった。


特別おしゃれなわけではないけど、すらっとした背丈には何を着せても似合う気がした。平凡な背丈の私は、今日もちょっと背伸びしておしゃれをして車に乗せてもらった。


今日は少しだけ遠出して、近場の海に行くことになっている。


どこか行きたいところはあるかと聞かれてその近くにあるおしゃれなカフェを指定したのは私だけど、その他のプランについては何も考えていない。


大人って余裕があるんだな。と感心した。


車の中での雰囲気も文句はなかった。適度な音量でかかっている洋楽も車内の雰囲気を少し彩ってくれて、とてもリラックスして車に乗っていられた。


いつも通り私たちはお互いの仕事の話や好きなことの話をして盛り上がった。車に乗る前はどんな話をしよう、なんて考えを巡らせていた私の時間は、どうやら無駄だったらしい。


「うわぁ~。キレイ。」


行きたかったカフェは、海辺に建っていてランチを食べながら海が見渡せてしまうようなカフェで、店内に入ったとたん広がる景色に思わず声がでてしまった。


「キレイだね、びっくり。」


休日ということもあって少し早めにランチをしにきたけど、それでもやっと席が確保できたくらい店内は込み合っていた。それでも運よく海辺の席を確保して心が躍ったまま席に着いた。


「美衣ちゃん、海が好きなんだね。」


海が近くにない町で育ち遊び場がいつも山だった私にとって、海は憧れの場所だった。きれいな海を近くで見ているだけで特別な気分になれた。


「ランチ、なに食べる?食べたかったら二つ食べてもいいんだよ。」


恭祐さんは冗談みたいに言ったけど、本当はローストビーフ丼とエビとアボガドのバケットメインのランチをどちらとも食べたかった。


いいよ、といわれるのであればきっと食べられた。でもさすがにはじめての遠出デートでそんなことできるはずもなく、迷った挙句片方を頼むと後悔してしまいそうだったから、「今日の日替わりランチ」を注文した。


日替わりランチはとても美味しかった。


海を見ながら食べていることも手伝って、本当に美味しいランチだった。でも心のどこかにローストビーフとエビとアボガドがひっかかっていて、なんだか私の人生みたいなランチだな、と深そうで浅いことを考えた。


「きれいに食べるね、美衣ちゃんは。」


「そう、ですか?」


恭祐さんはとても少食だった。私がランチをしっかり食べきったから恭祐さんも食べたけど、きっと私が残していたら恭祐さんも残していたと思う。悪いことしたなと思いつつも、まだデザートが食べたいな、なんて考える欲張りな自分がいた。


「よし、いこっか。」


「はい。」


私はおごられるのがあまり得意でない。


女性にとって男性におごってもらえるということはとても光栄なことなんだとおもう。いつか藤堂さんがそんなことを言っていた気がする。でも男と女が割り勘をするのが当たり前の平成に生まれ育った私にとっては、なんだか申し訳ない気持ちが残るから、正直私にも少し出させてもらった方が気が楽だった。


でも今日もしっかり恭祐さんにお勘定をしてもらってお礼を言うと、「美味しかったね。」と笑ってくれたから、ちょっと気持ちが軽くなった気がした。


「どっか行きたいところある?」


私のレパートリーはこれまでだった。


特に行きたい場所もなく、でも「ないです。」と答えてしまうのも申し訳ない気がして考え込んでいると、恭祐さんはそんな私の気持ちを察してか小さく笑った。


「んじゃ、僕の行きたいところに付き合ってくれる?」


私より少し長く生きている恭祐さんは、当然私より色々なことを知っていた。特に行きたいところもないけど、どこかに連れて行ってもらえるならそれなりに楽しく過ごせる私にとって、何も考えないでもすむということほど嬉しいことはなかった。


今までこんなに何も考えずにデートをしたことのなかった私は、ただボーっと車の外を流れる景色を見ているだけの時間がとても幸せに思えた。


しばらく和やかな雰囲気のドライブを楽しんでいると、中心街から少し離れたところで恭祐さんは車を停めた。休日でどこも混んでいたはずなのになぜか人気の少ないその場所は、いつか探していた秘密基地みたいに思えた。


「降りよっか。」


優しく流れていた洋楽のようにメロディのように恭祐さんは言った。私はそのメロディを口ずさむようにうなずいて、そっと車を降りた。


少し高台にあるその場所からは、海が見えた。さっきまですごく近くに見えていた海がなんだかすごく遠く見えて、すこし不思議な気持ちになった。


「ここ、いいでしょ。」


風の通り道になっているようなその場所には、心地いい風が吹いていて、そっと目を閉じてみると自分まで風になったような気持ちになれた。


「とってもいいです。」


風になった私には、普段いえないようなこともなんでも言えてしまいそうだった。未だにメロディのように聞こえる恭祐さんの声も、車の中にいた時よりずっとキレイに心まで響いていた。


「変わらないな。」


恭祐さんがふと言ったその言葉は、今までのメロディではなかった。驚いてチラッと顔を見てみるとどこか遠く、海に広がる丸い地平線より遠くを見ていた。


―――――きっと、女の人と来たんだな。


こんなときに勘が働いてしまうことにほんとに嫌気がさす。


当然、私が恭祐さんにとって初めての人なワケがない。私だってこの”恋”が、初めての恋ではないから、そんなの当然だ。でもなんとなくとても大切な人がいたんだな、と悟ってしまった私は、もう恭祐さんの顔を見るのをやめた。


しばらくその景色と雰囲気に浸っていた。


私はずっとそこにはいるはずのない女の人の影を見ないようにしていたけど、恭祐さんはその影を探していたのかもしれない。私の心情が変わっても景色は本当にキレイで、見ているうちにどんどん太陽が沈んできた。


「きれい・・・。」


思わず漏れた言葉は当てもなく流れていった。それは今の私の気持ちのようで、その行き先を考えるのが少し怖くなった。


「美衣ちゃん。」


恭祐さんの発音はとてもきれいだった。


「みーちゃん」ではなく、しっかり「美衣ちゃん」だった。名前を大切にしてくれているということは、「私」という存在がしっかりここにいるという証明のような気がした。


見たこともないほどオレンジに輝く景色の中で凛としている恭祐さんはもっと輝いて見えた。


「まだ2人で会うのは2回目だけど、僕は美衣ちゃんともっと遊びたいなって思ってる。」


恭祐さんはとてもまっすぐ言った。それは本当にまっすぐで、いるはずのなかった女の人の影が本当にいなくなったように感じた。


「軽い男と思われたくないからまだ言わないけど、


これからも僕とデートしてくれたら嬉しいな。」


それはもう言ってしまっているようなものだよ、と心の中でつぶやいた。そして明らかに心の中がポッと暖かくなるのを感じた。


「あんまり見られたら、もう言いたくなっちゃうからやめて。」


なんだか少し照れた顔で言った恭祐さんがとても可愛く見えた。


私は一人で恭祐さん萌えという言葉を作った。”草食系男子”の中で育った私にとって、恭祐さんの言葉はストレートすぎて返す言葉が見つけられなかった。


「何も言わなくていいよ。これからもこうやってデートしてくれたら、それでいい。」


もしかして、持ちが口に出てしまっていたのだろうか。私はもっと言葉が出なくなって、ただうつむいた。


「じゃ、帰ろうか。帰したくなくなるから。」


「・・・はい。」


よく消えるような声、という表現があるけど、私の声はたぶん消えていた。恥ずかしくて嬉しくて、なんだか消えてしまいたいような気持ちにもなっていた。


帰りの車の中はなんだか体が浮いているような、そんなふわふわした気持ちのままだった。


そんなふわふわしている気持ちにしばらく浸っていたけど、家に近づくにつれて「家に上がってもらうか問題」に悩み始めた私だったけど、結局答えが出る前に車は家についてしまった。


「今何考えてるか当ててあげようか。」


車を停めてすぐ恭祐さんはいたずらをする前の子どもみたいに笑った。私は言葉が声にならず、ただただ精一杯うなずいてみせた。


「お家に上げたほうがいいか迷ってるでしょ。」


いたずらそうに言った恭祐さんの予想がばっちり当たりすぎて、私は自分でも顔が赤くなっていることが分かった。どうすればいいのか分からない私の頭に恭祐さんはそっと手を置いた。


「美衣ちゃんホントわかりやすいね。」


くすくす笑いながら頭をなでる恭祐さんの顔がもう見られなかった。


でもなんとなくどんな顔をしているのか予想できて、それ以上に自分が真っ赤な顔をしていることも簡単に予想できて、ますます顔があげられなくなった。


「まぁ、僕からしたらそういうところが可愛いんだけど、他の男には同じことしないでね。」


急に真剣になった恭祐さんの声に思わず顔をあげると、いつも通りの優しい顔をしていてちょっとホッとした。そんな私をみて恭祐さんはまたいたずらそうな顔に戻った。


「あがっていい?って言いたいところだけど、


今日はもう遅いし帰りたくなくなりそうだから、また今度正式に招待してほしいな。」


「はい、もちろんです。」


スマートすぎた。


家を出てから、そして家に着くまで。何一つ不満がなかった。むしろ本当にスマートすぎた。


今日一日のことを思い返すだけで気持ちが踊ってベッドの中で何度も暴れてしまうほど、私の気持ちは浮いていた。


私の浮いた気持ちは月曜日の朝になっても着地しなかった。いつもは息を止めて出来るだけ下を向いて乗る満員電車も、憂鬱な気持ちであるく会社までの遊歩道も全部がきらきらして見えたから相当重症だったと思う。


「何これ。」


そんな浮いた気持ちのままデスクに向かうと、机の上にカスミソウ入った小さな花瓶が置いてあった。思わず小声でつぶやいてしまったものの、犯人が誰かは明らかだった。


「ほんと玉山さん愛されてますね。」


後輩はキラキラした目で私をみた。


「そうなんだよね。たくさん伝えてるつもりが、あんまり伝わってないのが残念だけど。」


その時、犯人が後ろからやってきた。相変わらず朝に似つかない明るい声だった。


「ねぇ、ジョージ。会社でこういうこと…。」


「なんで?いいじゃん。僕が伝えたかったんだから。」


彼のまっすぐさにうんざりしてしまったこともあったけど、今はもうすがすがしく感じる。したいことをすぐに実行しようとできる彼の潔さは、あきれるのをはるかに通り越して尊敬に値した。そしてそんな素直なジョージに好かれていることに対して、喜んでしまっているずるい私がいるのも確かだった。


「ねぇ、美衣。Baby’s breathの花言葉って知ってる?」


それがカスミソウだということを認識するのに少し時間がかかった。


ジョージは頭にたくさんはてなを浮かべる私を見てクスッと笑って、私の目線に合わせるように腰をかがめた。


「everlasting love.」


“永遠に続く、愛”


訳して思わず身震いしそうになった。


どうして「everlasting love」はかっこいいのに「永遠の愛」はちょっと寒く感じるのだろうか。意味を自動的にしっくり理解してしまうことは、時にこんな障害を産んでしまうんだ、と勉強した。


「んじゃ、またランチに会おうね。」


ジョージの場合しっくり来ているのは日本語なのだろうか、英語なのだろうか。気になって聞いてみようと思ったけど、きっと聞くことを忘れてしまうだろうなと思った。


「へぇ。楽しかったんだ。」


NY仕立てのバケットをかじりながら、ジョージは言った。


わたしもジョージが買って来てくれたNY仕立てのホットコーヒートールサイズを流し込んで得意げにうなずいた。


「でもね。」


「うん、でも?」


ジョージは本当に聞き上手だった。


話があまり上手くない起承転結のない私の話を最後まで聞いて、その話に起承転結をつけて聞き返してくれるから、本当にちゃんと聞いてくれたんだな、と毎回感じることができた。そのおかげで私はお母さんにも話せないようなことも話すことができた。


「たぶん、忘れられない人がいるんだと思う。」


思っていても言葉にするまでは理解していないことが人にはあると思う。


ずっとなんとなく感じてはいながらも認めずにいたことが、ジョージに話した瞬間なんとなく現実味を得てしまった。話さなければよかったのかもしれないけど、ジョージのかもし出す空気が、私からこの言葉を引き出してしまった。


「きっと私とデートしてまた思い出したんだと思う。」


女の勘というものに電源はないのだろうか。なんとなく感じてしまう女の人の影を感じないように、恭祐さんと会っている間だけでもそのスイッチを切りたくて探してみたけど、それは一向に見つからなかった。


「でも私に好意を持ってくれてるのも確かなんだよ。」


私を通して、その人を忘れてくれるならそれでいいと思った。


私のことを「好き」だと思ってくれれば、それでよかった。


―――――あぁ、私。結構好きなんだな。


ジョージに話して頭を整理して私の気持ちはまたはっきりしてしまった。


「美衣がいいっていうならいいけど、僕はそんなの嫌だな。」


ジョージはいつも通りまっすぐぶれずに言った。


ぶれ続けている私の心にはその姿が痛いほど刺さった。


「美衣はその人の代わりじゃない。美衣は美衣だ。」


「なんだそれ。」


なんだそれ。


一番自分が分かっていることから目をそらすのも、いつしか得意技になってしまった。得意技は増えれば増えるほどいいわけじゃないな、とぼんやり考えた。


ジョージに話してしまって以来、自分が結構恭祐さんのことを好きになってしまっていることを自覚せざるを得なくなった私の生活には少しだけ変化したように思えた。でも自分の中で日常にちょっとしたスパイスがあったとしても周りの状況は大して変わらない。


後輩の察しは相変わらずよくなかったし、友永さんの声が甲高いのもそうそう簡単には変わらなかった。でも少しずつたまるストレスを貯金して発散するとしたら毎晩のビールくらいだった私の日常にも、わたしなりの“恋愛”で少し色がついたような気がした。


今日も仕事終わりに一緒に映画を見に行くことになっていて、それだけを糧に日常の小さなうっぷんも飲み込んで仕事に打ち込んだ。


「今日はデートなのかな?」


「相変わらずよくお分かりで。」


恭祐さんとのデートを重ねるたび、最初よりも服装に気合が入ることはなくなったのに、それでもやっぱりデートの日はジョージにすぐばれた。


別にばれてもなんともないけど、なんとなくくすぐったいような、恥ずかしいような気もした。


「僕の気もしらないで、よくそんな堂々と返事ができるね。」


ジョージはあきれたように、でも分かりきったようにそういった。


でもこれだけ長くいてもジョージの本当の気持ちは私には読めなかった。


特別美人でもなくて、特別スタイルがいいわけでもなかったけど、それなりに恋愛経験をつんできた私は男性の気持ちを少しは読めると思っていたけど、その方程式にこの人は全く当てはまらなかった。


豪快にバケットをかじる横顔をもう一度見てみたけど、やっぱり何も読めなかった。


すべてはアメリカ生まれアメリカ育ちのせいだとおもったけど、それすらもよくわからなかった。でもそんな考えを深く掘り下げる余裕もなく、今日のデートで頭がいっぱいだった。


ジョージとのいつものお昼の時間も、私の小さいストレスがいっぱいの午後も、恭祐さんとの映画のことを考えればすぐに過ぎてしまった。今日に限っては絶対に残業をしないと胸にちかって、就業時間が近づくとじわじわと片づけをして、すぐに帰れる準備まで完璧にした。


「玉ちゃん、今日ははやいねぇ。」


就業時間がきていそいそと準備をしていると、いつも私より先に帰る課長がニヤニヤとしながら言った。いつもセクハラ発言ばかりしてくるから、その顔だけで「セクハラ」をされたような気分になったが、今日の私はいつもより少しばかり寛容なのだ。


「お先に失礼します!」


そんな課長の言葉も無視してさわやかな笑顔で挨拶をして、ほぼスキップしてしまいそうな足取りで会社をでた。今日は恭介さんの会社と私の会社の間くらいの位置にある映画館に直接待ち合わせをしている。


先に来ているのか、私が先につくのか。想像するだけでもウキウキする待ち合わせってとってもすばらしい、と思った。


「美衣ちゃん。」


私が映画館に入ろうとすると、先についていた恭祐さんに呼び止められた。スーツのジャケットを手にかけて片手を挙げて私を呼ぶ姿がスマートすぎて、私の気持ちはさらに高まった。


「すみません、待たせちゃいました?」


仕事をすぐに終わらせてきたけど、映画開始まで意外と時間がなかった。そこし息を上げながらいう私に、いつもの余裕の笑顔のまま「そんなことないよ」といった恭介さんは、自然と私をエスコートするように映画館の中に入れた。


「この映画でよかったよね。」


私が見たいといったのは、なんだかちょっと難しそうなミステリーの洋画。いつもは見ないジャンルの映画だけど、恭祐さんにはじめて会った時ミステリーが好きだといっていたのを思い出したから言ってみたら、案の定テンションがあがっていた。


仕事を早く終わらせてきたという恭介さんは、相変わらず完璧な段取りでチケットをすでに用意してくれていた。


「大丈夫です、すみません。」


「美衣ちゃん。」


いつも楽しい思いをさせてもらった上に何もかもすべてお金まで出してもらって、なんだか申し訳なくなって思わず謝ったわたしを、恭祐さんはやさしく呼んだ。その声はあまりにも優しくて、思わずびっくりしてしまうほどだった。


「別に悪いことしてないのに謝らなくていいんだよ。」


私はここ数日間でどれだけけの幸福貯金を使い切ったのだろう。


やさしい声をかけてもらうことすら、今の私にはとっても幸せなことだった。そんな言葉にうっとりしたまま恭祐さんを見つめていると、いつもみたいにやさしく「ふっ」と笑って、シアターの方へ進み始めた。


ミステリーはなんだか思ったよりも何倍も緊迫した内容だった。


途中にはグロテスクな描写もあったりして、そんなのが苦手なわたしにとってちょっとトラウマになって夢にでてきそうな、そんな感じもした。それでもちらっと恭祐さんのほうを見てみると、食い入るように真剣に映画を見ているから、内容をしっかり頭に叩き込もうと私も内容にしっかり踏み込んだ。


「ハラハラしたね。」


私にとっては「ハラハラ」というより、「恐怖」という感じだったけど、一人映画を見に行くことに慣れている私にとって、終わった後に感想を言える人いることはなんだかいつもと違って新鮮なことに思えた。


「でもおもしろかった。」


「はい、すごかったですね。」


嬉しそうに話す恭祐さんがなんだか可愛くて、私は思ってもいない感想も簡単に口にできた。


いや、「すごかった」というのは本心からでた感想かもしれない。


それからも私たちは無難な感想を言い続けた。


恭祐さんの視点は私のとは全然ちがって、同じ映画を見たのになんだか違う映画をみたように思えた。難しくて私にはよく理解できなかったことも、恭祐さんの説明でなんだかしっくりくるようになって、私は「恐怖」と感じたあの映画をもう一度みたいとも感じていた。


恭祐さんのスマートな考え方は全く私には存在しないもので、考えの違う人の話を聞くことはとても新鮮でとても楽しかった。


「今日はスペイン料理でいいかな。」


楽しく会話を続けているうちに、恭祐さんの足は小さなスペインバルに止まった。


暗い路地の中でポツリと光る明かりが、まるで私たちを呼んでいるように思えた。


「スペイン料理、大好きです。」


ワインもパエリアもアヒージョも本当に大好きな私は、久々に食べられるスペイン料理に心が躍った。急にテンションがあがった私をみて、子供を見るような目で私を見た恭祐さんは、また慣れた手つきでそのかわいらしいドアを開けた。


店内はなんだか洞窟みたいだった。


天井が何となく低くて明かりも薄暗くて、自分たちではなかなか選べないような大人な空間に、ちょっと私は怖くなって、店員さんにすんなり案内される恭祐さんにできる限り近づいてやっと足を前に進めた。


「・・・恭祐?」


ろくに前もみられないまま、転ぶことがないように足元をみて歩く私の横から、恭祐さんを呼ぶ声がした。反射的にパッと顔を上げると、そこには私なんかよりずっと大人でずっとキレイで、背の高い女の人がいた。


「久しぶりだね。」


そういった恭祐さんの声がなんとなく震えている気がした。


そんなことを感じた次の瞬間、私の手は恭祐さんの手で包まれた。


――――――あの人だ。


私の女の勘はこんなときも正常に働いた。


ろくに恭祐さんの顔は見られなかったけど、急につながれた手としっかり握られているはずなのになんとなく冷たい手の感覚が、あの時感じた”影”がこの人だと痛いほど私に語ってきた。


「元気そうでよかった。」


全然よくなさそうな声で、恭祐さんは言った。


私はそんな雰囲気にもう女の人の顔も見られないまま、ただじっと立っていることしかできなかった。


「じゃ。」


恭祐さんは”影”の人に有無も言わせないまま、しっかり私の手を握ってその場を立ち去った。とっても堂々と歩いていたけど、なんとなく背中は寂しい感じがした。勇気を出して振り返ってみると、女の人は同じ場所にうつむいて立っていた。


「ごめんね、昔の知り合いなんだ。」


「全然大丈夫です。」


“知り合い”という説明は、本当のようでうそだと思った。


そんな言葉で片付けられるほど彼の中の彼女は小さい存在ではないことくらい、私でも分かってしまっていた。でもそれでも恭介さんと今一緒にいるのは私だ。そんな根拠のない自信だけが、私をここに座らせていた。


その日のパエリアは、なんだか味がなかった。


とってもおいしかったんだけど、味がないように感じられた。さっきまで途切れることなく映画の感想を言っていたはずの恭祐さんの心はずっと私のところにはなくて、何度も一緒に座っている自信をなくしそうだった。


でもずっと笑っていられたのは、今まで恭祐さんがしてくれた幸福の貯金のおかげだと思う。


「今日もありがとね。」


味のないパエリアと酔わないワインをすべて空っぽにして、何事もなかったように店をでた恭祐さんは私をタクシーにのせて運転手さんにお金を渡そうとした。


いつもどおりの出来事だったけど、一人になった可愛そうな恭祐さんの右手を私はほおっておけなかった。


「一緒に、いきませんか?」


自分の意志とは全く関係なく、私の左手はその恭祐さんの右手を握っていた。そして勝手にとんでもない積極的な言葉を発している自分に、今日は少し酔いすぎたかなと反省するしっかりした自分がやっと顔をだした。


「美衣ちゃん。」


私が恥ずかしいと感じられるほど回復した頃に、びっくりした様子だった恭祐さんはいつもの優しい笑顔で私をみた。


でも私はもう恭祐さんと目が合わせられないほど、羞恥心でいっぱいだった。


「そういうのは、僕に言わせてほしいな。」


やっといつもどおりスマートにいった恭祐さんは、スマートにタクシーに乗って自分の家らしき場所をおじさんに伝えた。そのころにはしっかり、化粧品や着替えないけど大丈夫かな、と考えている自分がいた。


都心の誰もがあこがれるような場所にある恭祐さんの家は、恭祐さんらしいすっきりとした家だった。部屋の中は私が想像した通りシックにまとめられていて、急に来たというのにとってもキレイだった。


「テキトーに座ってて。何もないから飲み物買って来る。」


「そんな、別に何も・・・。」


「俺が飲みたいの。ほら、テレビ見てて。」


相変わらずスマートに私を誘導して、見るからに高そうなソファに座らせてくれた恭祐さんは、風のように部屋からいなくなった。


家主のいない家はなんとなく私を見定めるようなまなざしを送っているように感じられた。さっきはスマートだとおもった色味のない家具が、突き刺さるように私を見ていた。


―――なんであんなこと言っちゃったんだろう。


酔いのさめた頭は、冷静すぎるほど冷静にさっきの自分を後悔していた。きっとなんとなく寂しそうにしていた恭祐さんの右手に寄り添いたかったという建前の前に、本当に存在してしまった女の人の影をまだ受け入れられなくて、うじうじとしていた自分の気持ちを落ち着けたかったという気持ちの方が大きかったと思う。


なんとなく後ろめたい私の気持ちとは反対に、ソファから伸びている自分の足だけがしゃんとしていた。


「もう、ジョージに怒られる…。」


楽しく進行する番組とは打って変わって、私は会社でジョージにこの話をしたらどんな顔をされるだろうと想像して暗い気持ちになった。


別にジョージに怒られたところでなんともないんだけど、純粋な彼に今日の話はなんとなくしづらい気がして、そんな考えが私の後ろめたさをもっと加速させた。


「ただいま。」


“ただいま”という言葉を、何年ぶりに聞いたのだろう。


当たり前だけど一人暮らしをしていると全く聞けないその言葉は、私を攻め立てていた部屋をブロックしてくれるように私の心の奥までスッと届いてきた。


その暖かさはそれまで感じていた後ろめたい気持ちまで全部どこかに行ってしまうほどだった。


「おかえりなさい。」


私がこの言葉を発したときの恭祐さんの気持ちは、きっと”ただいま”を聞いた私の気持ちに似ていたとおもう。


その証拠に頬をフッと緩ませたまま近づいてきた恭祐さんの顔は、吸い込まれるように私の唇に重なっていた。


「美衣ちゃん。」


今まで何度も聞いたその言葉が今日はとても色っぽく聞こえた。


いつも余裕を感じた恭祐さんの手からは珍しく余裕を感じられなかった。足元に無防備に落ちたコンビニの袋がそれを物語っていた。


「緊張してる?」


余裕がない中でも恭祐さんは相変わらず優しかった。


乱暴のように感じられる手つきにもどこかやさしさを感じて、私はとってもリラックスしていたはずだったのに、久しぶりすぎるその状況に力が入ってしまっていたらしい。


でもその緊張はなんとなく心地いい気がして、自分の緊張を振り払うように大きく首を横に振ってみせた。


「大丈夫。」


心から安心できるような本当の大丈夫は、心の奥にまですぐに届いてきた。


でも私がホッとする間もなく、いつもより少し余裕がない恭祐さんはもう”大人モード”にしっかりチェンジしていた。


気がつくとベッドの上で寝ていた。


さっきまではソファにいたはずなのに、どうやって移動してきたんだろう。酔いがさめたとはいえ結構お酒が入っていた私の意識は朦朧としていて、その間の記憶はあまりはっきりと思い出せなかった。でも体に久しぶりに感じるこの”後”の感覚が、さっきまで自分が置かれていた状況を一番物語っていて、思い出すだけでも顔から火がでそうだった。


ふと横を見てみると恭祐さんもぐっすり眠っていた。


私の枕の下にはしっかり彼の右腕が敷かれていて、その体温がとっても心地よくて私はもうちょっと恭祐さんに近づいて、もう一度目を閉じた。


「大丈夫?」


寝返りを打った私に、半分意識のない恭祐さんが聞いた。


寝返りを打っただけなのにどこまでやさしいんだろう、と思って、私は返事の変わりに彼の胸にぴったり顔をつけた。そんな私の返事も汲み取って、恭祐さんは私をぎゅっと抱きしめたまま眠りについた。私の意識もそんな彼の体温を感じているうちに、そっと遠のいていった。


朝、食器の音で目を覚ました私の横にすでに恭祐さんの姿はなかった。


お酒が完全に抜けて確かに意識を取り戻してしまった私は、自分が裸のままで寝てしまっていたことに気がついて、急いで体をシーツでくるんだ。


「おはよう。」


恭祐さんはジーンズに白のTシャツとさわやかな格好をして寝室をのぞいた。しっかりと準備ができている彼に対して、お風呂も入らずに寝てしまった自分の寝起きの顔を想像するのも怖くなった。


「お風呂はいる?シャワーにする?」


なんだか新婚の奥さんの言いそうなセリフを、恭祐さんはサラッと言った。


普通逆でしょ、と反省しながらも、本当に小さい声で「シャワーでいいです。」と何とか答えた。


「わかった。」


恭祐さんはそんな私にいつものように微笑みながら返事をして、持っていたタオルを渡そうとしてくれた。でも裸のままシーツに包まっている私は、タオルを受け取ったらどうなるか想像ができてしまって、そのまま固まって動けなかった。


「恥ずかしがらなくてもいいのに、昨日もっと恥ずかしいことしたんだし。」


いつものさわやかな笑顔で、でもとっても意地悪なことをいう恭祐さんは、いたずらをした後の少年のような顔をしていた。でも恭祐さんのそんな言葉に昨日の夜のことを思い出しそうになってしまった私は、すぐにシーツに顔を隠した。


「美衣ちゃん、夜はすごく積極的なのにな・・・。」


「やめてくださいっ。」


私がなんとか恭祐さんを止めた声も、本当に消えそうな声だった。


そんな私にまたいたずらそうにくすくす笑った恭祐さんは、「ごめん、いじめすぎたね。」といつもの調子でいって、タオルをベッドの上に乗せて部屋の外に行ってしまった。


ベッドルームから直接つながっていたお風呂に行くと、洗面台にはコンビニで買ってきたであろう化粧落としと、スキンケアセットが置いてあった。昨日コンビニに行ってくれたのはそのためだったのかと思い返して、何も考えずにここまで来た自分の馬鹿さに嫌気がさした。


部屋と同じく本当にキレイに掃除されたお風呂場は、私の部屋のお風呂なんかと違ってとっても広かった。久々に広々とシャワーが浴びられることを嬉しく思いながら、いつもよりゆっくりと体を洗った。


一通り体を洗って脱衣所に出ると、かごの中に私は恭祐さんのものと思われるTシャツがはいっていた。着替えのことを何も考えずお風呂に入った考えなしの自分が、またいやになった。


その服を着ていいものなのか少し悩んだけど、裸で出て行くわけにも行かず、泣く泣く袖を通してみた。ぶかぶかでしっかりおしりの下まで隠れていたけど、なんだか絵にかいたような”大人の朝”だと思って、また恥ずかしくなった。


Tシャツからは恭祐さんの香りがして、昨日のことを思い出しそうになって私は思考回路をシャットダウンした。


「洗顔とか分かったかな。テキトーに買ってきたけど大丈夫だった?」


お風呂から出て行くと、キッチンから焼きたてのパンをもった恭祐さんが出てきた。朝にふさわしい香りを感じるのとほぼ同時に、私はこのさわやかな朝に全然ふさわしくない、と思った。


「うわっ・・・。」


キッチンから出てきた恭介さんは、私の姿を一目見て動きを止めた。


やっぱり着ていいTシャツじゃなかったのかな、と思って、また顔から火がでそうになった。


「ごめんなさい、これもしかして・・・。」


「いや、きてもらうために置いたんだよ。」


だったらなんでその反応なんだろう、と首をかしげると、恭祐さんが私から目をそらした。まずいこと言ったかな、と不安になっていると、恭祐さんがフッと笑う声が聞こえた。


「いや、自分のTシャツ着せるのって結構男のロマンだからやってみたけど、思ったより可愛すぎてびっくりしただけ。」


いつもみたいな余裕な様子に、ちょっと余裕のなさそうな声で恭祐さんは言った。


その言葉にまた恥ずかしくなった私は、どこかに隠れてしまいたいような気持ちになった。


「服、洗濯する?昨日の着るのいやでしょ。」


自分の服と一緒でいいなら洗うという恭祐さんをなんとか説得して、洗濯だけは私にやらせてもらうことにした。洗濯機をまわしている間に食べたパンはとっても香ばしくて、体に染み渡るようなホットコーヒーもなんだかとってもおいしくて、また朝に似合わない自分が恥ずかしくなった。


洗濯物を干すのまではやらせてもらえたけど、そんな格好でベランダに出てはいけないとそれを外に出すのは恭祐さんの仕事になった。恭祐さんが開けた窓から差し込んだ光がとってもここちよくて、日向ぼっこがしたくなるネコの気持ちをひしひしと感じたと一緒に、部屋に残してきたネコが心配になった。


水もえさも多めに置いてきたから大丈夫だとは分かっていても、早く帰らなきゃなと思っていると、不意に恭祐さんが近づいてきた。


「美衣ちゃん。」


その声はなんだか昨日の夜の声に似ているな、と思った。


そんなことを思っているうちに恭介さんの唇が私の唇に、そして首に肩に降りてきて、彼の手はすでに私の体の上にあった。


「ごめん、我慢できなくて。」


そういいながら相変わらずやさしく触れてくれる手に本当に余裕がないのを感じて、恭祐さんも私と同じなんだ、とホッとした。


思いがけない私の外泊も、夕方には終わりを遂げた。


私はネコのために帰らなければいけなかったし、恭祐さんも残してきた仕事をしなければならかったので、洗濯物が乾いたら家まで送ってくれた。


「楽しかった、ありがとね。」


何もかもしてくれたのは恭祐さんのほうだったのに、さわやかにお礼を言った彼は、さわやかに去っていった。部屋に入ると、「遅かったね」というように一度鳴いたネコが足に擦り寄ってきて、一度チラッと私の顔をみた。


まるで”やりましたね、姉さん!”とでも言っているように感じた。


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