火曜日②

 あすなは数十分前、いや数時間前の光景を再上映するかのように、頭に思い描いていた。というのも、目を開けたら総勢三十名いるクラスの生徒全員が両腕を縛られ、口にはガムテープが貼られ、体育座りをさせられていたからだ。もちろん、あすなも。机はいつのまにか乱雑に後方に押しのけられ、教壇があった場所には鳩が仁王立ちをして、微笑んでいた。この場の光景に似つかわしくない窓から射し込む陽光がある意味新世界を彷彿とさせていた。


「諸君、お目覚めですか」


 鳩が今までにないぐらい快活な声を教室に響かせる。一部の生徒がモゴモゴと声を発しようとするがガムテープの力が勝る。


「威勢がいいですね。とても威勢がいいです。さて、私は生きるのに疲れたのです。お分かりですか?あなた達が私を鳩と呼んでいるのはわかります。実を言いますと、別にいわなくてもいいんですけど、あえていわせてもらいます。教壇に立って三十年超、生徒から『鳩』と呼ばれてきました。分かりますか?私には名前があります。頭頂部が後退しようと、名前があるのです」


 生徒からの反応はない。鳩がハトのような小さい目で生徒一人ひとりを地面に放たれた餌を確認するように見た。


「なので、私は悪魔と契約しました」と鳩は制汗スプレーのようなものを二本、スラックスのポケットから二本取り出し、「一本が催涙スプレー、これでみなさんを眠らせました。もう一本がバイオウィルスです。これを噴射すると、みなさんは死にます。怖くないですか?怖いですよね。だからといって、私の頭がおかしいというわけではありません」


 鳩は二本のスプレーを眺め、しばし沈黙をした。どう抗っても、頭おかしいだろ、とあすなは思う。隣にいた愛美が肩で、「や・ば・い」と三度合図めいたものを送ってくる。今更、や・ば・い、と指摘されても、現実を受け入れるしかないのかもしれにあ。


 諦め。


 最初の諦めは、あすなが六歳のときに両親が死んだときだ。「交通事故に遭ってね、お前のお父さん、お母さんはね。空と友達になったんだよ」と祖母は言っていた。空という単語で思い出されるのは、シャボン玉を家族揃って空に飛ばした事だ。その日も、今日と同じように雲一つない群青色の空だった。家族三人で空に向かい、三つのシャボン玉を飛ばした。笑い、柔らかい声を放ち、両親に抱きしめられ、あすなは空を指差した記憶がある。だが、その記憶を最後に、両親の記憶はない。不思議な事に、お父さんがどんな仕事をしていて、お母さんの得意料理はなんだったのか、という、その他大勢にとって当たり前の事実を、あすなは知らない。授業参観、運動会、誕生日、家族で楽しみ、語り合う行事も、彼女にとっては苦痛の種でしかなかった。寂しく、孤独を味わい、なんで私だけ、と悲観的になった事は数知れず。


 些細な記憶で思い出されるのは、一度、「お父さん、抱っこ、抱っこ」とあすながせがんだ時に、お父さんの機嫌が悪く抱っこをしてくれなかった時、思わず舌打ちが炸裂したときだ。

「女の子が舌打ちなんかしてはいけませんよ」

 と、お母さんがあすなの頭をポンと叩き、天使の微笑を放った。その微笑に子供ながら目を輝かせ、お母さんみたいな笑顔が似合う女性になろうと決めたことがある。それでも、両親は気づけばいない。葬式を行った記憶もない。家には仏壇やら遺骨があるが、現実味がない。両親が亡くなり、金銭的に困窮すると思われたが、祖母の年金と両親が死んだことよる多額の生命保険金のおかげで、あすなは生活には困らない。お金で満たされるものはたかが知れている。人はひとりでは生きられない、みんながしてきた思い出、共有する思い出が少ない。それがなによりも悲しい。であれば、ここでバイオウィルスだがなんだかで生をなかったことにするのもいいのではないか、あすなは鳩を見つめた。鳩と目が合った。ああ、この人も孤独なんだ、寂しさを讃えた目をしていることに気づいた。人は思いを語るより、誰かに気づいて欲しいのだ。鳩は誰も気づいてもらえない、鬱屈した思いが爆発して、今に至ったのだろう。定年間近の鳩は生にしがみついていない、しがみつくことを忘れた人間は何をしでかすかわからない典型例。突然の爆発、噴火、その後、どうなるかは火を見るより明らかだ。様々な感情と思いと考えが、あすなの頭を席巻する中、すっかり忘れていた一人の男がすっと立ち上がった。


 なにか、だ。


 あすなの左隅にいたことすら気づかない、空気感。なにより彼の口元にはガムテープが貼られていない。むしろ、最初から貼られていた形跡すらない。

「少し伺いたいことがあるのですが」

 なにかが鳩に向かい落ち着いた声で言った。周囲の視線がなにかの注がれる。

「いいでしょう」

 いいのかよ、とあすなは思った。

「バイオウィルスはどこで手に入れたのですか?」

「どこで?」

「ええ、どこで手にいれたかです。というのも、申し訳ないがあなたがウィルスを培養できる程、知的でもなければ狡猾でもない。少し感情的ではありますが」

「お前みたいな青二才に何がわかる、クソガキが」

「うーん。困ったな」となにかが、右頬をかりかりと爪で掻き、「一週間程前に、手にいれたものなんじゃないかな、と思いまして」

 鳩は目をパチクリさせ、「いわれてみれば」と納得した。

「でしょうね」

「なんでお前が知っている」

「探してたんですよ。あなたがバイオウィルスを、今、ここで撒気散らすことで、世界はとんでもないことになってしまう」

「世界がどうなろうと知ったことではない」

「歪むんですよ。人も動物も地球全体が、あなた一人の影響で」

「お前が、何の話をしているか理解できないな」

「憧れは理解からは遠いですからね」

「別にお前に憧れてはないない」

 鳩が苦笑混じりに言った。

「恐らく二人組に手渡された筈です」


 なにかの指摘に鳩はわかりやすいぐらいの動揺を示す。動揺が合図になったのか、校庭の方からサイレンが鳴り響いた。警察かもしれなない。そういえば他の生徒や先生達はどうしているのだろう。あすなの疑問を鳩が解決してくれた。


「チッ、チッ、チッ、誰かが通報したのか。全校生徒ならびに教師含め、眠らせておいたのだがな」


 鳩がなにかを警戒しながら窓の方に歩み寄り、窓の外をチラッと確認し、ニヤリと笑った。それは不快な笑みだった。何年も磨いてないであろう、黄ばみ。歯のクリーニングをしても到底追いつかないであろう。


「これは規約に反するんだけど、別にいいのかな。でも、当初の目的と違うんだけど」


 なにかが独り言をつぶやいた。つぶやくと同時に、校庭の方から、『犯人に告ぐ!学校を完全に包囲した。要求はなんだ。人質の生徒を解放して欲しい。さあ、要求を述べよ』


 刺激しすぎなのではないか、とあすなが思った直後、鳩が翼をバタバタするかの如く両手を振り乱しバイオウィルスのスプレーに手を掛けた。「やってられない。もう終わりだ」


 その瞬間、誰もが目を疑った。両腕を縛られていたであろう、なにかの手にロープはなく、床に無造作に置かれている。なにかが猛スピードで鳩の元に向かう。鳩の目が意識のケーブルを引き抜かれたかのように大きく見開らかれている。まずは、なにかの足払いで鳩が床に倒れ込む、バイオウィルスならびに催涙スプレーを素早く回収。そして、鳩の腹に拳を打ち込んだ。うへっという呻きと嘆きが折り混ざった声と共に、鳩は動かなくなった。

「これでよし」

 なにかは言った。


 なにが、これでよし、なのだろう、あすなの疑問は拭えなかった。

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