第13話 小人閑宴/ナロケ④
あぁ殺られた。
そう思った少女のすぐそばを、何度も感じたことのある独特の気配が走り抜け、鋭い藍剣がぴぃっと奔った。視界に広がるのはケインに照らされた藍色の髪。冷えた瞳に虎のごとき笑みを浮かべて、大剣を弾き上げる剣。その藍の、きらめき。
「おい。何を呆けている!」
「リアト、私、たぶんあれ父さんで」
「深魔だ。厄介なものを読み取られたな」
リアトがそこにいた。
女は、琥珀髪の目から少女を隠すように立ちはだかった。すると驚くべきことに、琥珀髪の姿がぐにゃぐにゃと歪んで掻き消えていく。「リアト」と声がして、代わりにそこに現れたのは、どういうわけか、宍色の肌をもった美しい女性だった。
少女は眉根を寄せながらおずおずと尋ねた。
「あれは本物だったんですか」
「いや、お前の心から引きずり出された『
であれば、あれは父親ではなかったのだ。
やはりあれはただの深魔だったのだ。
イルファンは安堵ともつかないため息を吐いた。
「嫌な深魔だろう。今いるあれは、私のオソレだ」冷えた声で女が言った。
「あの人は誰なんですか」
「さぁ、それはまたいずれにしよう」
リアトは剣を構える。しかしその切っ先は女を真っすぐに指してはいない。イルファンにはその動きだけで、師匠が対峙する女を殺すつもりがないことが分かった。これは守りの構え。先手必勝を是とする《速気》のリアト本来の構えではない。
「下がっていろ」
「戦うんですか」イルファンが問うた。
「お前がどう思っているかは分からんが、ああ見えて彼女は強い。殺すことならできるだろうが、今日は、そうしないつもりだ。だから、すこしのあいだ時間を稼ぐ」
「でも、あの人は武器なんて持ってないですよ」
と、その言葉に呼応するように深魔は、どこからか長杖を取り出した。
たくさんの鋼輪と魔晶が取り付けられた杖の先端には、奇妙なことに槍の穂先のようなものもついている。ただでさえ長く、靈気を通しづらそうだというのに、あれでは取り回しも難しそうだ。とても実戦向きの道具とは思えなかった。
「あれって、槍なんですか」少女が問う。
「魔杖槍と呼ぶ。さぁ、行け。来るぞ!」
深魔が、その奇妙な杖を上手に掌で滑らせて、瞬時に構えを取った。それは隙一つない槍使いの構え。見る者すべての時が一瞬だけ止まり。ちゃり、と金属の擦れる音がして、そう思った次の瞬間には、女の手から魔槍が伸びている。気がついたときには、リアトの正面が鋼の穂先で埋め尽くされていた。それは槍というよりももはや生物。数十本の鋼の蛇だ。槍使いの女は一歩たりとも動いてはいない。ほんのわずかな重心制御によって、槍は縦横無尽に視界を埋め尽くしたのだ。リアトは目にもとまらぬ速さで剣を滑らし、それらを、ひとつひとつ弾いていった。鋼と鋼がぶつかる音が響き、数度の攻防の末、リアトがようやく剣を下ろした。
「魔力を込めた突き、魔剣流の技と同じだが、自前の槍術と相まってその槍は必中だった。射程も自由自在で、近づくほどに勝機がなくなる。嫌になるほど昔見たものと同じだ。ちっ。イルファン、私はどうやら甘すぎたのかもしれん」
そうぼやくリアトの左太腿には刺創。
血がじわじわと滲んでいた。
捌ききれていなかったのだ。
「師匠……」
「動けば追われ、弾けば絡めとられる。押し負けずに流すしかないが、それができるような手数でもない。覚えておけ、これが真に鍛えられたバルニア式槍術だ。お前ならこういう相手をどうやって無力化する?」リアトが問う。
「あの、そういうこと言ってる場合じゃないです」少女が微妙な顔をした。
「そうか?」
リアトが不思議そうな顔をすると同時に、再び魔槍が伸びる。
物理的実体である槍に可能な動きではない。変幻自在にして伸縮自在、曲芸のようにしなる鞭のような槍がリアトの剣を絡めとり、そしてそのまま、がら空きの胸へと吸い込まれていく。イルファンはすかさず動こうとしたが、ふと見たリアトがにたりと嗤っていたので、助太刀を止めた。
そうだ。心配する必要などない。
この人は特級剣術士『捨剣』のリアトなのだ。
「手本を見せてやる」
そう言ったと同時に、リアトはしなる槍の穂先を掴み止めた。なぜかそれ以上、槍は動かない。あれほど自在に動いていた穂先が、ぴたりと動きを止めていた。
「これは鋼属魔力を実体化させたものにすぎないのだ。靈力で穂先を包み込めばそれ以上は展開できん。無論、魔力の先端部を消滅させて再構成することもできるが、何度やっても同じことだ。これしきの魔力では私の靈力を破れないからな」
「あ、えと、あの人を抑え込んだ方が良いですか?」
「必要ない。それに、次の手を使ってくるからもう保たん」
「え?」イルファンが素っ頓狂な声をあげる。
その目の前で、リアトの身体が勢いよく吹き飛んだ。
魔力の穂先がいきなり爆発したのだ。
「リアト!!」
「無事だ! 私より後ろに来い!! 跳べ!!」女が叫んだ。
イルファンは反射的にリアトの方へと跳んだ。見事に四つ足で着地するリアトの、すぐ真横に並ぶ。意外なことに、深魔からの追撃はなかった。不思議に思って目を凝らすと、すぐに謎は解けた。深魔は木陰に眠り込むナロケの前でゆらめいていたからだ。その姿が見る間に、父親へと変わっていく。
だが奇妙なことにそれはもう、何もしなかった。
「終わったんですか」
「寝ている者は畏れんからな」リアトが言った。
「……あれは、一番近い相手を読むんですね?」
「そうだ。とっとと離れても良かったが時間稼ぎがしたかった」
「時間稼ぎ?」
「あぁ。あれの正体は霧だ。火に弱い」
そう言いながら、リアトは森の入り口に目を向けた。
いくつもの火の玉が近づいてくる。松明だ。
「村の人たちを起こしたんですね」
「物分かりがいいな。それに時間がかかった」
「死にかけました」
「よくやった。だがまぁ一応言っておいてやると、オソレは誰も殺せない。殺されたように思っても精々気を失うくらいのものだ。あれに想像の源を消し去るような力はないのだ。見てみろ。お前の傷だって、いつのまにか治っているはずだ」
自分の身体を見てみれば、あれほどあった傷が跡形もなく消えていた。
「とはいえ、あれは生命力や気力を吸い取る。魂にも干渉する。大人を嫌って子ども狙う。あの少女を囮にするにしても、そう長い時間は保たせられない。だから、火の準備ができるまで引き付けておきたかったのだ。万が一があると困るからな」
「師匠、囮にする時点でなんかもう台無しです」
イルファンが疲れた声で言った。
Δ
眼を覚ましたナロケの頭にイルファンは手を置いた。
「やっと起きたのね」
「お父さんが来たの……」
「私にも来たわ。遊んでもらった」
「私も。一緒に空を見て、なにか歌ったの」
「ふうん。いいわね」
あの夜のことをナロケはちゃんと覚えていた。
そしてあの父親ではないものを、それでもお父さんと呼んだ。
自分にとってはどうだっただろう。娘ではないと怒鳴られ、震えるような殺気を浴びせられた。こんな奴は父親じゃないと思った。だが、だがそれでも掌を頭に置かれたとき、どうしようもないくらいに嬉しくなった。冷たくても、温かかった。
その感情はどれだけ殺し合いをしても、たぶん消えない。
「お父さんはきっと生きてるわ」
「もしかしたらね」ナロケがくすりと笑う。
「なんでそこで笑うのよ」
「だってイルファンの言う通りだもん。傭兵も連れないでローレッドなんて越えられるわけない。たぶん他の子たちが言うみたいに、雪狼に襲われて死んじゃったんだと思う」ナロケはおどろくほど優しく、大人びた瞳でそう言った。
イルファンは面食らった。
そりゃそうだが、まさかそれをナロケ自身が言うとは思わなかったのだ。どちらかといえば彼女は夢見がちで、希望に縋ってしまう性格だと思っていた。
「意外とちゃんと分かってるのね。私よりあなたは年下だし、夜には歌いたがるし、薬草の名前だとか私の名前だとか。そんなこと考えたこともなかった。だから父親のことも受け止められないと勝手に思ってた。でも、そうじゃないのね」
「ああいう深魔はお話にもなってるもの」
「そういうの、私はもっと知るべきだわ」イルファンが言う。
ナロケはかすかに微笑んだ。
「父さんが教えてくれたの。イルファンの母さんは教えてくれないの?」
「私に母親なんていないわよ」
「一緒にいた人はそうじゃないの?」
「あれは師匠よ。剣の師匠。深魔よりも怖いときがある……怪物よ!」
わっ、と両手を挙げて驚かすと少女は楽しそうに笑った。
「私の母さんも魔獣より怖いときがあるの」
「へぇ。そうなの。保護者ってそういうもんなのかもね」
「そう思う。イルファンの師匠は、優しいときもある?」
無邪気に問われて、考え込む羽目になった。
優しくないわけではない。しかし、それを上回る怖さがある。
師匠としてのリアトは、とてもじゃないが優しくはない。
考えあぐねた末に、イルファンは答えた。
「不器用」
ナロケがまた笑った。
それから二人は寝台から降りて、手早く、服を着替える。先ほどから階下でナロケの母親が呼んでいた。どうやら朝ご飯ができているようだった。きっと今までに食べたことのないくらい美味しい朝ご飯だろう。ローレッドではまともな朝食は出なかった。腕利きの傭兵が作るものはゲテモノ料理ばかりと、決まっているのだ。
「イルファン、また会える?」少女が問うた。
「さぁね。この世界は厳しいし。私は戦錬士だし」
「またいつか帰ってきたら、ちゃんと一緒に、歌を歌わない?」
「分かった。じゃあ、皇都で一曲、覚えてくるわ」
「私も美味しいご飯の作り方なら教えてあげられるかも」
ナロケが悪戯っ子のような顔で笑った。
イルファンは、ほんの少し鼻を鳴らして、
「ねぇナロケ、」
「なに?」
「私の名前にも意味があるのかな」
「たぶんあるよ」と少女が言った。
自然とイルファンの口角が緩む。
「まだか?」
そのとき、声がして、二人がいる部屋の扉が叩かれた。静かに開いたその向こうには、ナロケの母親がいた。なぜかその後ろにはリアトも立っている。二人は同じように呆れた顔をしながら、さっさと降りてきて朝ご飯を食べろ、と言った。
リアトはいつものようにすこし苛立ったような眼でイルファンを見ている。
だが、本当に苛立っているわけではない。
こうして呼びに来るのが照れ臭かったのだ。
それが分かるということが、イルファンにはなぜだかとても嬉しかった。
Δ
「行くぞ」リアトが言った。
「はい、師匠」
この村を出る準備をしている最中だ。剣も食べ物も服も持った。
ナロケとの別れも済ませた。
何も忘れ物はない。ないはずだ。
だのに、昨日の夜のことを思い出すと、胸になにかがつまる。
どこかに何かを、忘れてきたような気がしていた。
大切なものを落としてしまったような気がしていた。
それがなにかは考えなくても分かる。
父親。その冷たい声がイルファンの胸のなかで渦巻いていた。
そして、霧へと溶けたその姿が、森のなかに、今も見える。
あれは深魔だ。ただの幻だ。
だけれど、あれを置いていくことは父親を忘れていくような気がした。
永遠の別れであるような、そんな気分で少女は目を伏せていた。
「イルファン、大丈夫か」
リアトが珍しく声をかけた。
「お前にとってあのオソレは、とても恐ろしかっただろうと思う。そして同時に、ひどく愛おしかっただろうと思う。あれはそういう深魔なのだから」
「師匠、私は全然、大丈夫ですよ」
「私にとっても辛いものだった。あの姿を見るのは」
それはつまり、リアトがイルファンの父親を知っているということだ。もちろん勘付いていたことではあるが、面と向かってそう言われると、悲しみとも驚きともつかない気持ちが頭をもたげてくる。師匠はずっと、それを隠していたのだから。
「あの人は、私の父さんでいいんですか」
「あれはオソレだ。お前の心のなかのものを元に造り上げられたものだ」
「似ていましたか」
「姿はそれなりに。動きも。だが心はなかった」
心がもしもあれば、あの人はなんと声をかけたのだろう。
大きくなった娘に、なんと言葉をかけたのだろう。
あんな言葉ではないはずだ。なかったはずだ。
もっと優しくて、暖かくて、それで、私を喜ばせたはずだ。
イルファンは、身勝手に期待する心に歯ぎしりをした。
頭を振って、雑念を払いのけようとする。
だけどそれでも、ひとつの問いかけだけは、喉からこぼれ落ちた。
「名前は。父さんは、なんという名前だったんですか」
「ヴォファン。『剣獣』のヴォファンだ」リアトが言った。
その名には一切の聞き覚えがなく、
だがそれゆえにイルファンは安堵した。
どこかで会えるかもしれないと、そう思ってしまったから。
自分は生まれてきたとき、一人ではなかった。
ならばこの先、また会えることだって。
嘘ではない。
嘘ではないと、少女は言い聞かせるように奥歯を噛みしめていた。
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