第12話 小人閑宴/ナロケ③
失敗した。
やはり森にひとりで入るべきじゃなかった。
だが、そう思ってももう遅い。
目の前の深魔は、己の名前を掴んだままで目を輝かせていた。
「イルファン、イルファン、イルファン」
「私の名前を掴んだってわけね!」
「イルファン、イルファン」
「でも私の名前の全てじゃない! あんたは名前の意味も知らない!」
「イルファン」
声がひときわ重々しく響いた。
「まさか、それで充分だったりするわけ? 最悪!」
男の身体は霧のように解けていき、瞬く間に一人の子どもの姿を取った。
イルファンは最初、それがナロケの姿に変じたのだと思ったが、形が定まるにつれて、眼前の深魔が己の姿をしていることに気付いた。骨格から肌の色まで寸分違わない。どうして敵は自分自身の姿に変わったのか。名を知られたためか。いや、だとすればなぜ最初はナロケの姿をしていなかったのか。こいつは、なんなのか。
「今行くよ」抑揚のない声で鏡像が言った。
「来るな!!!」少女が叫んだ。
考えるのも束の間、イルファンはほとんど無意識のうちに剣を振りぬいていた。見たこともない深魔であるから逃げるのが定石ではある。しかし、もし逃げる相手を捕らえる力を持っていたとすれば、自殺行為も良いところだ。
幸いにも相手は自分自身。正面から立ち向かえば、勝てはしなくとも負けはない。不意打ちが決まれば勝ちの目もある。その思考が後から追いつく。これは正しい動き方だったと自分で分かる。だから剣は靈力で満ちている。
「しっ」
その無心のバルニュスを鏡映しの己はかろうじて躱した。
身体能力に差はないようだ。反射神経もよい。
たぶんこいつは、かなり良い状態の自分自身なのだろう。
だとすれば、足手まといを連れて逃げることはできない。
イルファンは地面を蹴りつけて砂塵を飛ばすと、すかさずナロケを木陰に押しやった。もちろんその隙を見逃す深魔ではないが、イルファンは自身のものによく似た突きを何食わぬ顔で避けた。自分自身の攻撃ほど、読みやすいものはない。
弾き、さばき、鏡像の剣がしなるように下から伸びる。すかさず左側面への入身、後ろ手に振られた伸剣を弾き、そのために崩れた体勢を狙って、軸足に刃が飛んでくる、しかしそれを読んでいるイルファンは、すかさず飛び上がって深魔の顔を蹴りつけた。鏡映しの少女がよろめき、痛みを感じたように顔を覆う。
無論、それを待たずにイルファンは剣を振りぬいた。これがまともに深魔の頭部に食い込んだ。頭蓋が割れるめしりという感触ののち、剣から滴る血が手首を、そして上腕までも濡らす。だくだくと溢れる鮮血にまみれながら、しかし深魔は体勢ひとつ崩さずに、イルファンの喉をぐっと掴んだ。
だがそれは、顎を砕くように力が込められたものではない。
むしろ愛撫のようですらあった。
「な……何のつもりよ」イルファンが言う。
「貴女は私が誰か分かっていないのね」
「喋れるの?」少女が目を剥いた。
「貴女が喋らせてるのよ」深魔が言う。
見れば見るほど、その姿は己にそっくりであった。違うのは瞳だけ。
瞳には暗闇があり、なんの光も宿してはいない。
だがそれに恐怖は感じなかった。
あるのは、悲しさ、そして虚しさだった。
「あなたは怖くない。前に会った奴とは違う。鳥肌も立たないし、首を絞めてもこの程度。私を真似たところで、靈力の使い方がずさんなら意味がない」イルファンが薄く笑みを浮かべて言う。
そうすると、眼前の少女もよく似た笑みを浮かべた。
「貴女は大人ぶるのが好きみたいね。でもそれは幼子の強がり。あなたのほうがよほど、誰かの真似事が上手いんじゃないかしら」もう一人の自分が言う。
「なんとでも言いなさい。次は心臓を貫いてやる」
「いつかも、そうやったように?」彼女が微笑んだ。
その姿が一瞬にして溶け、そして、一人の男になる。
筋骨たくましい、まるで怪物のような男だ。
髪は茶色、いや、ケインの光の下でも分かる。
それは、琥珀色をしていた。
「誰」投げ出された少女が喘ぐ。
「イルファン……か?」男が言った。
まさか。
声を聴いた瞬間に鳥肌が立った。
その声を確かに知っていた。
記憶にない記憶のなかで、それを聞いたことがあった。
そしてあの腕。
自分を抱きしめたあの腕を、忘れることはない。
「おとうさん……?」
思わず漏れたその言葉に、己自身が一番驚いた。
そうだ。
私は知っている。
この人を、確かに知っている!
「あなたのことを知ってる……!」
その姿を見たことはなかったが、それが自分の父親だということを、イルファンは瞬時に理解した。その色のない瞳以外の、すべてが愛おしく感じられてしまったからだ。獣のような骨、刃さえ弾きそうな皮、針のようになった琥珀の髪!!
しかしその手つきの細部に宿るのは獣ではなく、人間の心なのだ。
震える手指がイルファンのほうへと伸ばされる。
少女はあっさりと、自身の頭のうえに掌が乗せられることを許した。
「嘘、いや嘘じゃない!」イルファンが言った。
「お前が、なぜだ。そんなはずはない」
「これは本当! これは嘘じゃないはず……!」
「これは夢か、それとも呪いか?」
瞳が見えずとも、男が困惑しているのが分かった。いやそれはただの混乱ではなく、恐れ。父親であろう男は、その巨躯に似合わぬほどに少女におびえていた。その理由はイルファンにも分からなかった。
「現実よ。父さんは私の前にいて、私は父さんの前にいる」
「簡単に信じると思うか。俺は、もう何も信じはしないのだ」
男はそう言ってイルファンを見つめた。
灰色の瞳、そこにもやはり悲しみがあった。
そして、がらんどうで空っぽなその瞳を見た瞬間に、イルファンの痺れていた頭が、再び動き始めた。そうだ、違う。これは父親ではない。ただの夢まぼろし。ナロケの父親と同じような、心のない魔物。深魔なのだ。騙されてはいけないのだ。
絶対に、騙されては、いけないのだ。
頭ではそう分かっていても、心は、眼前の男を受け入れていた。
「ずるい。こんなの……深魔のくせに!」
「お前こそ、お前こそ魔物じゃないのか」男が唸り声をあげる。
「違うもん。怒らないで、信じて」少女が言った。
「黙れ!!」
少女の言葉を聞いた男は、怒気を剥き出しにした。
もはや恐れはない。その殺気は研ぎ澄まされている。
イルファンは、抱きしめようと伸ばした手を引っ込めた。
「俺には分かるのだ、お前が何者か!」
「分かるわけない。覚えてもないのに」
声が震える。
しかし男の怒気は収まらない。
「いいや! お前は違う。お前は、まがい物だ!」
「ずっと、いなかったくせに分かるわけないじゃん!」
「黙れ。お前は娘ではない!」
娘ではない。
心に、たった一言で氷の膜が張った。
娘ではない。
父親がそう言うのなら、私は何なのだ。
もちろん眼前のものが本物でないことは分かっていた。
だがそれでも、心のどこかで信じていた。
自分を、欲してくれると。
「そう。そうなの」
少女は呟くように言った。
「やっぱりこれは、偽物だ。ただの深魔だ」
言うが早いか、イルファンのバルニュスがひぃっと鳴った。だが、一瞬の心の迷いが剣を鈍らせる。男は、その刃を容易く受け止めた。手には傷一つない。だというのに、その手で、鋼鉄を掴み止めたのだ。無手、それがこの男の戦い方なのか。イルファンは湧き上がる感情を押し殺しながら、そんなことを分析する。
そのとき、男の背にある得物が見えた。無手ではない。この男も剣を使うのだ。いや、剣と言ってよいのか、男の背中には、長く分厚い鉄の塊があった。その鋼の質は見たところ
まずい。
「失せろ」男の手が柄にかかった。
と、その動作が見えた次の瞬間。死を感じたイルファンは全力で靈力を開放し、男の正面から飛びすさっていた。逃れていた。正面の大地に何かが叩きつけられる。鉄塊。剣だ。男の振り下ろしたそれが、とんでもない速度で振られたのだ。
一瞬ののちに、落ち葉だらけの地面がばかん、と割れた。
地面はどこまでも割れていて、その果ては見えない。
イルファンの額から汗が落ちた。こういうとき、本来ならば自分は涙を流すべきなのだろう、そう思いながらも悲しみはもう湧いてこなかった。感情よりも戦いの本能が勝るように訓練されたからだ。一瞬の感情が失敗を生む。涙を流すよりも手を動かすほうが早い。この身体が、そのことを覚えているのだ。
ゆえに少女は、無意識に男の背後に回り込んでいた。
無防備な背中に一撃を加えるため。
確実に相手を仕留めるため。
しかし、驚くべきことに、その剣は弾かれた。男の強靭な靈力と分厚い表皮は、少女の軽い剣など通しもしなかった。何のことはない。たとえ自分が最初から全力で斬りかかっていたとしても、自分には、皮を破ることさえできなかったのだ。
「なによこれ、この人、なんなの!?」呟き。
「シィィっ」男の口から息が漏れ、
途端、剛脚が組むように捻られた。全身に張り巡らされた発条のような筋肉が弾けて、少女の身の丈ほどもある鉄塊が、風車のように廻る。ねじれるようにして放たれた一撃が、まず少女の鼻先を掠め、それから周囲の木々を瞬く間に寸断した。
鼻血を拭いながら跳び上がった少女は、上空にケインの闇を見る。とっさに跳んでしまった。跳んでしまえばもう身動きは取れない。そして眼下の長剣に込められた靈力は、山さえ斬るほどに重い。少女が落下を始めた瞬間、それが放たれた。
無策。斬撃が身体を割り、この夜に真っ二つの骸を晒すだろう。
だがそうなる瞬間に、少女は空を蹴った。
その技は《空歩》。不許流の靈気歩法である。
小さな足先から爆発的に靈気が放たれて、その身体は加速する。
豹のように。火のように。
空を縦横無尽に跳ね回るその動きを、琥珀髪の男が捉えることはない。
十分に加速をつけた少女は天高くへと昇った。勢いそのままに身を反転させ、大地へ向かって更なる加速を試みる。剣が軽く、靈力も軽く、刃が通らないというならば、それを速度で補えば良いのだ。リアトが用いる自己流の剣、その奥義がひとつ《竜打ち》。着地を考えない加速によって可能となる、全身全霊の斬り落とし。
空歩によって少女が垂直に走り落ちた。
目の前の男を、父親を、分かつために。
「あああああっ!!」
その瞬間、男の両太腿に靈気が収束した。
ひょうっ。視界が男で染まり、両腕が衝撃に弾かれる。跳んだ。技の出鼻を潰されていた。獣のような跳躍が、少女を吹き飛ばしたのだ。いつのまにやら、人形のように宙を舞わされたイルファンの身体は、騒がしい音とともに木々に吸い込まれていた。琥珀髪の男はすぐさま追撃を試みるが、流石に、その左腕だけは土のうえに落ちていた。少女の渾身の剣をまともに受けたためだった。
しかしそれでも男は右手一本で大剣を握り、支障などないとばかりに構える、
と、その次の瞬間、
少女はふたたび、空中を駆け下りた。
「くっそっ!! もう一回っ!!」
傷だらけの身で。
「あんたが、なんでも知ってるみたいな顔して、」
それでも少女は剣を握っていた。
「ただのくそ深魔のくせにっ!!」
信念でもなく執念でもない、悲しみのゆえに。
「父さんのわけないのにっ!!」
「騙された自分が馬鹿すぎて嫌になる!!」
「とっととっ!! 消えてっ!!」
雄たけびはもはや声にもならない。
心のなかだけで放たれた、怒り。
実際には無音のまま、少女は剣を振るった。
《竜打ち》
みしり。
その一撃は、琥珀髪の完全な油断を突いた。
左首筋からはらわたまでが袈裟懸けに斬り裂かれている。
深くまで刺さった剣は、もはや抜けないだろう。
殺した。
殺してしまったのだ。
少女は手を放し、よろよろと男から離れた。その身体は、二度にわたる加速と落下の衝撃で火傷をしたように爛れており、いたるところに切り傷があった。体内の細かな骨や筋も限界を超えて、壊れていた。しかし、不思議と痛みはなかった。
「殺った?」少女がへたり込んで言った。
いや駄目だ。
靈力が消えていない。
頭のなかでリアトがそう言った。
ぶわり、男の巨体が翻る。
色のない瞳はイルファンを静かに、見ていた。
「最低」
交わす言葉ひとつないまま、眼前で巨剣が振りかぶられて、熊のように太い右腕がそれを思い切り、振り下ろした。身体は金縛りにあったように動かなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます