第08話 虚偽命窃/カラグリム②


 それから半刻程の間、二人は延々と続く洞窟を歩いた。


 ここに現れる魔獣はその多くがカラグリム(洞窟蝙蝠)だ。口から強酸を吐き、高音の音波攻撃をする。感覚強化とは相性が悪い相手だった。もちろん、剣術士は感覚を意識的に遮断できるが、イルファンは聴覚遮断が苦手なのだ。耳障りな洞窟魔蜂のぶんぶんという羽音。魔蝙蝠のからからという音波。それらが頭部を締め付けるように何重にもなって鳴り響く。こういう音もダメだ。リアトの『剣鳴』と同じで、なんだか頭痛がする。イルファンは千切った布を湿らせ、耳に差し入れた。


 これですこしはマシになったが、だからといって蝙蝠が減るわけでもなく、闘気を込めた小石で蝙蝠を射ち殺しながら進んではいたが、一定の間隔で飛んでくる魔獣たちは、まるで何かを測るように、付かず離れずで少女に攻撃を加えていた。


 そうしてイルファンはついに痺れを切らした。


「うざい! こいつら、厄介ですね! 薬でも炊きませんか?!」

「厄介か……ふむ。イルファン、なにか気付かないか?」


 リアトがかすかに鼻を鳴らして言った。

 おかしなことに、自分をいじめる時の余裕が見て取れる。


「えっと、何にですか?」イルファンは尋ねた。

「こいつらは操られている。行動に人の意志が加わっているのだ。お粗末な手際だがな。右上方から次は左上方に飛ぶ。ほら、それからこっちに飛んでくるぞ。殺気でも分かるだろうが、操獣の動きには、不自然に規則的な繰り返しがあるものだ」


「なるほど」


 少女は耳栓代わりの布を外した。すでに敵は襲ってきていたらしい。敵がいるなら話は速い。イルファンはすかさず敵に応じていた。剣帯からバルニュスをすばやく抜き、それを正面に構える。この程度の獣をすべて倒すのは、造作もない。


 だがしかし、相手はカラグリムだ。リアトの敵が相当に趣味の悪い連中でないとすれば、今までの蝙蝠による攻撃はおそらく布石なのだろう。それは聴覚を遮断させる為か、それとも別に何らかの策があるのか。獣以外の相手が本命ということは十分にある。とはいえ、考えればきりがなく、また別の罠に陥る恐れすらある。


「考えすぎるな。罠に嵌る」

「はい」

「やるべきことはなんだ」リアトが問うた。

「なにも考えないこと」

「そうだ。お前の場合はそれが正解だ」


 取り敢えずは敵を見つけるべきだ。


「来るぞ」リアトが呟いた。


 とその瞬間だった。

 辺りが突然に、真っ暗闇に包まれた。


 敵。だが襲撃はない。

 何も見えない。だが気配はない。


 なぜ襲ってこない? 何かを待っているのか? 考えてはいけないのに考えが止まらない。ひとまず靈気を肉の中だけに満たす。暗闇で靈光を放つのは自殺行為だ。リアト級の戦錬士に対して隠し通すことはできないが、先の襲撃から推測するに敵は大した手練れではない。ならば、内奥の靈力を見る事などできないに違いない。


 イルファンは精神を集中させ、五感を……

 強化しようとして気付いた。


 意識的な感覚操作には、わずかだが集中する時間が必要だ。この敵が盲目で無かったら? 闇の中でも居場所を知る方法があるなら? 隙をつくるのは危険だ。そもそもこの闇は相手が作り出した物なのだ。自分が刺客ならば、この隙をみすみす逃すだろうか。いや。逃さない。イルファンはその瞬間に考えることをやめた。


 それは少女にしては珍しく、大正解だった。

 前方から粘ついた殺気が放たれると同時に魔法の詠唱が響く。

 魔法射撃。なかば無意識に身を屈めた刹那、紫の光が頭上を抜けた。


 久々にみる魔法の痕跡だ。これが∫闇射《スクーロ/アクティ》。やはり、この暗闇は敵が作り出したものなのだ。使用された魔法から見て、刺客は五界繋の『闇属』魔法士。幸いなことにイルファンには、傭兵譲りの断片的な知識があった。


 ――闇属魔法とは、闇の天獣『スクーロ』の力を引き出す魔術を魔法化したものの一つ。射撃魔法《アクティ》などの魔法に付与することもできる。そのとき、付与される属の存在顕示として、闇属は暗闇をもたらす。その暗闇は術者の力量いかんでは靈気をも遮るのだという。現にこの暗闇は浄眼でも完全には見通せない。きっと微量の魔力によって阻害されているのだろう――


 聴覚遮断をしていないがゆえに、動いている敵の位置もよく分かる。仮に耳を切っていたらまたも闇に逃していただろう。この暗闇で殺気だけを頼りに闘わねばならないというのは恐ろしいことだ。危なかった、とイルファンはぞくりとした。


 と、そのときになってようやく、少女はおのれの師匠のことを思いだした。

 そういえば、リアトがいない。どこにもいない。

 どういうわけか、靈気も魔力も放たれていない。


 何故動かないのか。一瞬、脳裏を過ったのはリアトが既に死んでいるという可能性だったがそれはありえない。あの人が負ける光景は浮かばない。師匠は蝙蝠の段階で刺客の取る手段に見当が付いていたはずだった。それを自分に言わず、今も動かない理由など、もうひとつだけしかない。たぶん、師匠は隠れているのだ。私の修行のためか、あるいは、敵の出方を探るためか。リアトにはそういうところがある。たしかにこの程度の相手に、私は死なないだろう。でも万が一というのはいつでもあるわけで、もし、もしなにかの間違いで、私が死んだら……リアトはどうするつもりなんだろう? いや、よく考えればそれはいつものことなんだけれど……。


 そんなことを思いながら法射を躱していく。敵の手札が分かれば怖くはない。

 足音や衣擦れ、闘気の揺らぎ。それらから刺客の位置を逆算できる。

 

 ここだ!


 男の見えない動きが見えた瞬間、イルファンは無造作に剣を出した。


 ただその場所に置くようにふんわりと。

 またしても大正解。確かな感触があった。

 当たったのだと分かった。


 その直後、魔法によって作られた闇が消失した。ほのかな光が帰ってくる。剣先は艶やかな血に染まっていた。濃紺の暗殺衣を着た初老の男を、イルファンは袈裟斬りにしていた。衣が吸いきれなかった血液が、どす黒く地面にしたたり落ちる。その地面には二つの染みができていた。イルファンと、敵の血だ。少女の肩からもそれは滴っていた。最後の最後に、少女は魔法を受けたのだ。無詠唱だった為に威力は低く、闘鎧は貫通していない。数秒で血も止まる。それは無傷に等しかった……


 が、それでも油断。

 イルファンは悔しげに顔をしかめた。


 斬る瞬間にこちらの殺気が読まれたのだろう。ならばこの男は予想に反して相当の手練れだったのかもしれない。でもまぁ、そっちは致命傷でこっちは軽傷だ。少女はどこか誇らしげに肩の血を手で払って、獣のような笑みを浮かべた。濡れた剣先からは、それからもまだしばらくのあいだ、赤黒いものが、滴り落ちていた。




Δ



 リアトは目を閉じていた。

 深い闇の中で気配を断ち、周囲の音を探っていた。


 響く心音は、四つ。洞窟の反響のせいで正確な場所はしれない。

 だが間違いなく敵がいる。

 闇属の魔法士とは比べ物にならない手練れが暗闇に隠れている。

 七界繋の力を凝らさなければ見えないほどの連中だ。


 前方にひとりを見つけた。身をひそめている男だった。

 その男の眼が、刹那、リアトの姿を捉えた。

 男が目を大きく見開いて、その手から銀色の笛と小瓶が落ちる。


 殺してもなお、掴み止めるのは容易だった。だがそれでも、かすかな音が鳴るだろう。気付かれるだろうか。分からない。この機を逃すつもりはなかったが、敵は少なくない。全員を殺しきるのは流石に難しい。だから即座に『探気』を放つ。


 敵の正確な位置が知れるとほぼ同時に、彼女は暗器を彼ら全員に向けて放った。先の尖った小さな鉄棒が風切り音もせずに迫る。一本はさきほど見つけた男の額に突き刺さった。残るふたりの刺客は、あっさりと暗器を躱した。一人はその姿を消失させ、闇に溶けるようにゆらりと消えた。もう一人は迫ってくる暗器を、わざとらしく掴んで見せた。そうして、闇に慣れているのか、それとも魔道具でも使ったのか、軽やかに消えた。この者も、まるで闇のなかに滑り込むように姿を消した。


 気配はもうない。

 どこにも。


 奇妙な感覚だった。殺気でもなく好奇心に近いような気配だった。

 敵とも敵でないとも判断がつかない。まるでなにかを確かめるかのような動き。

 リアトは首を捻ったが、イルファンの安全を考えると深追いはできなかった。


 足元には、カラグリムを操っていたのであろう、殺した男の死体がある。ギリべス使いの男と同じく犬の刺青が彫られていた。やはり平原の狗。持ち物もそれを裏付けるものばかりだった。だが、狗如きが自分の暗器を避けられるはずがない。逃げた連中は『人狩士』に匹敵する手練れだ。おそらく自分は、外れを狩ったのだ。

 

「狗を使うか」リアトが呟いた。


 犬の刺青――平原の狗はノーラン平原を縄張りとする小さな勢力だ。国外の人間が使うような連中ではない。トルリアを始めとしてリアトには外敵も多かったが、奴らならばもっと手軽な暗殺者を使うだろう。ヴェルトヴァンならば国内にごまんと手練れがいるはずだ。だが、そうしなかった。足がつくのを恐れたのだろうか。国外の暗殺士に依頼しようとすれば、目立つ動きを取ることになる。敵は目立ちたくはなかったのだ。だとすれば、中央の誰かが裏で手を引いているのかもしれない。


 中央。ならば、兄の力が弱まっているのだろうか、とリアトは思った。あるいは、レアーツ自身が糸を引いているのか。残念ながら、それも考えられない線ではない。あの兄ならば殺しは躊躇わない。信じても、信じきれないのが本音だった。


 なぜならば、「イルファンを殺すこと」、それが剣王の目的になりうることを、リアトは知っていたからだ。八年以上が経過し、イルファンの術式にも限界が来ている。あのドピエルの光景で、少女はティルミシアでの狂乱を想起していた。あのとき、街の灯が弟子に思わぬ衝撃を与えたことにリアトは驚いていた。


「ティルミシアの記憶さえも手の届くところにあるのか」そう呟く。


 似ても似つかぬ蟻の街でさえ、あれを誘発したのだ。

 エルトリアムに行けば、完全に彼女は目覚めるかもしれない。


 動揺を隠す術を持っているから平静を装えたが、その実、リアトの胸の内は騒いでいた。イルファンはやはり、あの記憶を思い出してきている。ローレッド以前の記憶が残っているとなると、それは、少女自身にとっての脅威ともなるだろう。


 いずれまた、封じられなければならないのか。

 それとも。


 リアトは思案に耽った。

 その耳に、鮮血の滴る音がとどいた。




Δ



「終わったか」

 

 物陰から現れたリアトがいつもと変わらぬ語調で言う。

 イルファンは素気なく答えた。


「一応。なんか聞いたりします?」

「やめておけ。この手合いは自らを『誓いの術式』で縛っているのだ。それを破る手段がなければ暗殺士は情報を持っていないのと同じだ。さっさと殺してやるか、あるいは縛り上げておくのが賢いだろう」リアトが淡々と言った。


 だがそうは言っても、仰向けに倒れる男の肌はすでに白い。

 死が近いことは明白だった。

 時折漏れるうめき声が洞窟に響いては消えていく。


「縛りあげますか?」少女が問うた。

「この傷は自力では治せん。じきに死ぬ」

「うわ、後味悪いやつだ」少女は嫌そうに言った。

「お前を殺しに来たやつだぞ」

「ええと違いますけど」


 少し棘のある口調は不機嫌さを示していた。元はと言えばリアトを襲ってきたはずなのに、なんであたしが肩を撃たれたうえにトドメを刺さないといけないのか、とでも言いたげな顔で、イルファンはぷくりと頬を膨らませた。


「後はお任せします」

「おい」リアトが眉根を寄せる。


 しかし、少女は立ち止まることなく血を拭った剣を背に仕舞い、さっさと歩いていった。リアトは、困るとも不満げともつかない表情で、敢えて言うならば思案気な顔をしながら、男に刃を向けた。滑らかな刃先が男へと落ちる。殺すことにためらいはない。怯えるほどのことでもない。殺すことは、死ぬことではないからだ。


 だがその直前。

 男が言葉を発した。


 封じられていたはずの口だ。そこから言葉が漏れ出たのだ。

 頸動脈のほんの少し手前で「イル」と、吐かれる名前。

 ごぼりと赤い泡が立ち、リアトの眉がぴくりと動くが剣は振り下ろされる。


 男は死ぬ。


 それは死だった。

 死は、恐ろしいものだった。


「これがあの子の運命ならばそんなものは誰も望んでいない」リアトは呟いた。

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