第07話 虚偽命窃/カラグリム①


 イルファンは饐えた臭いの部屋で夜を明かした。


 あれ以来、獣による襲撃はなかったので三時間ほど仮眠を取ったのだ。寝室から出ると、見張りをしていたリアトがいなかった。地上に出たのだろうか。そう思ったときかすかに水音がした。浴室からだ。どうやら水を浴びているらしい。


 自分も昨晩入ったが、ここの魔道具はなかなか上等だった。なんと水だけでなく熱湯まで出たのである。水を湯に変える為の火魔法、転属型の術式陣はとても高いという。リアトがそういう嗜好品に近い物を持つとは驚きだった。


「なんか意外だったな」イルファンが呟く。


 この旅では今まで知らなかったリアトのいろんな一面が垣間見える。


 七年だが八年だが一緒にいたのに、自分は師匠のことはまったく何も知らなかったようだった。それはうれしくもあり、悲しくもあった。だが少なくとも、自分をしごこうとしている相手に人間らしいところがある、というのはこれ以上ない朗報だ。いつかは二人で普通に暮らすこともできるかもしれない。

 

 と、そのとき、少女のお腹がぐぐぅと鳴る。


 リアトが備蓄していた食糧は軒並み腐っていたので、昨晩は干肉と麦菓子を固めた物しか食べていなかった。お腹と背中がくっついてしまいそうで、食物について考えると涎がじわりと溢れてきた。修行が待っているのにこれではいけない。


 少女は、気を紛らわせる為にバルニュスを手に取る。それはリアトの物よりも少し短い。まだまだ少ない自身の靈気に合わせたのだ。


 剣術士にとって、力を剣先まで満たすことは何よりも重要だった。充たせなければ、魔獣に剣は通らない。そのため、中央大陸では余裕を持って扱える長短剣『バルニュス』が好んで使用される。剣術士に限れば、長槍や長剣は限られた使い手しかいなかった。傭兵は別だ。彼らは武器を選ばないで戦える訓練をしていた。たんなる魔鉄の槍に無理やり靈気を流す方法も彼らは知っていた。魔獣の血液を槍全体にぶちまけるのだ。そうすれば、血を媒介として靈気が満ちるらしいが……いやこれは、眉唾話かもしれない。いくらイルファンでも槍に血を纏わせたことはなかった。それどころか、剣を血で濡らしたこともほとんどなかった。


 少女は血曇りひとつないバルニュスをぐっと握る。そしてゆっくりと立ち上がって構えた。その構えには隙一つないが、少女はそれを無意識にやってのけていた。


「やぁっ」そう呟くと、


 闘気を込めて振る。


 この部屋は剣を振るのに十分な広さだった。それでも、爪先に力みを乗せれば部屋の端から端まで二歩とかからない。リアトに習った真交流の第一歩法《瞬避しゅんぴ》の力である。この歩法を用いれば、この程度の間合いなど無きに等しい。靈気で滑るように距離を詰め、あるいは紙一重まで離すのである。


 リアトによれば、これは一行流の歩法であるらしかった。なんでも、開祖ラエスの教えである、「技を交えて真と為す」を玉条とする真交流は、独自の剣技をあまり持っていないのだという。つまり、五大流派に数えられる内の三剣派『一行流』『海刃流』『魔剣流』を掛け合わせた剣技がノーランの真交流だった。


 ゆえにその術理には他流派の物も多い。特に秘技とされる幾つかの技はそうなのだという。《破砕剣はさいぎ》を除いて、ほとんどの技が他流からの流用。それらは《一行九剣》や《海刃十剣》と呼ばれる。


 イルファンは中級ながら、それらの秘技を完璧に使用することができた。


 たとえば、

 瞬飛を使いながら斬る。斬り流す。

 一行九剣《流斬ながれきり》。

 すれ違いざまに。躱しながら。

 様々な状況を想定しながら、振る。


 いつしか目は閉じている。正面から合わせられた一撃、《延避えんぴ》に足指が地を跳ねる、側面に延びるように躱す、その左肩口を仮想の刀が擦る、


 だが致命傷は避けている、相手の背後を取るとすかさず、一行九剣の四《貫刀ぬきがたな》。心の臓を貫き、抉る、その間にも一太刀もらっている、


 それを自覚したままで、あと一人。


 海刃十剣の十《海巻からめ》。想像の相手のバルニュスを絡めとり、そして。《海下うなおり》。全身を躍動させた全力の斬り下ろしが、落ちる。


 斬る。斬り伏せる。

 いつかの、あの、夜を。

 赤く立ち昇る、炎を。

 

 火を斬り伏せるのだ。


 その思いに呼応するがごとく、

 イルファンの足が虚空をさまよい、

 小さな身体が熱を帯びていく。

 獣のような唸り声が口の端から漏れ出して、

 剣を握る白い手に赤みが差した。


 激しい殺気が溢れだして、

 それを――少女自身は知らない速度で、

 鋼の刃が、恐るべき速度で落ちていく。


 瞳に火が映る。

 その視線の先には暗闇しかなかった。


 その時、かちゃりと音がした。


 同時に斬り下ろした剣が止まった。眼に見えない壁に刺さったかのように、剣の流れが喰われたのである。瞼を開くと、そこにはリアトが立っていた。刃先を両掌で包み込んで完全に止めている。まさに妙技だった。


「稽古がしたいか」リアトが言った。

「すみません、師匠」イルファンは小さくなった。

「壊した壁と床の分だけ遊んでやろうか」


 見れば、部屋中に闘気の擦れた跡が奔っていた。自分でも気付かない間に靈力を放ちすぎていたらしく、絨毯やら壁やらがめちゃくちゃに傷ついていたのだ。いや、それどころか、無意識のままにリアトまで斬りかけたのだ。


「呑まれるなよ」


 リアトがあきれ顔で言った。


「出る準備を始めておけ」

「はい」

「早く服を着てみせろ」


 湯気がのぼる傷だらけの肉体を拭きながらリアトが微笑む。

 肩、胸、太もも、滑らかなそれらには一切の無駄がない。


 視線に気付いた女は、昨晩選んだ服を纏い始めた。鍛え上げられた肉体が上等な衣にどんどん覆われていく。勿体ないほどだとイルファンは思った。リアトが最後に皮鎧を付けると、格式高い特級剣士に相応しい姿が現れる。まるで騎士のようだ。年季の入った皮鎧がちょっとだけ浮いていたがイルファンは言わなかった。


「お前も、着ろ」リアトが言った。

「ほんとにこの服を着るんですか」少女が言う。

「構わん、皇都までの路で魔獣は少ない」

「魔獣っていうか、恥ずかしいというか」

「なにがだ。私には分からん」


 リアトが真顔でそう言うので、イルファンも観念して着替えることにした。


 選んだ服は着心地がよかった。雲のように柔らかな衣は身体にぴったりで気持ちがいい。初めて着る普通の服は、とても優しく思えた。まるで自分まで優しくなってしまうようなのだ。なんだか無骨な鎧を付けるのが躊躇われてしまう。


「恥ずかしい……」

「似合っている。市民の娘のようだぞ」


 げ、褒められた。


「いつかそういう服をもっと着ろ」

「要りませんよ」

「たまには剣も振れ」リアトが無表情に言った。

「だから着ませんって」

「本当に似合っているのだ。勿体ないな」


 褒められ慣れていないので少女は赤くなった。そしてその後、すぐに青くなった。だが流石に、似合っているから修業しろなどと言うことはなかった。だから、ここは素直に喜んでおこうとイルファンは思うことにしたのだった。


 その間もリアトは着々と身支度を済ませていく。もうすぐ出発の用意が整うらしかった。一体何をそんなに喜んでいるのかはしらないが、師匠の顔はどことなく嬉しそうで、微笑んでいるようにも見えた。


「すぐ出発ですか?」名残惜しそうに少女が言う。

「時間がないのだ。皇都に着くのが早いに越したことはない。レアーツを待たせると面倒だし、まぁ色々と……厄介な事情がある。ここには留まれないだろう」


 イルファンが眉根を寄せた。


「厄介な事情ですか?」

「あぁ。きっとどこかの時点で話してやるから……おい、拗ねられても予定は変えられん。いつか見に来い、クスタファルビアを。別に大した距離ではないのだから」

「はぁそうですね」イルファンが言った。

「そんなに観光がしたいとは思っていなかった」

「そうですね」


 イルファンは心のなかでほおを膨らませた。

 観光できなかったことではない。

 リアトが何も言わないことに腹を立てていた。


 詳しい説明を端折られるのはこれがはじめてではない。リアトはすぐに言葉を濁す癖があった。それはよく分かっている。だから別に拗ねたわけではない。だが、完全に納得したわけでもない。なにせ奥義習得という話自体を疑っていた。リアトのことは信じているが、それでも、秘密主義というのは面白いものではない。


「早くしろ、行くぞ」リアトが急かす。

「分かりましたけど」

「置いていくぞ」


 もっといじけていたい気分だったが、仕方なく、少女はリアトの部屋を後にした。今度は寝室に隠されていた小さな扉からだ。その扉にも幾何学模様が彫ってあったのでイルファンは気を使った。ここなんかで死んでは堪らない。


 リアトも窮屈そうに出口を抜けた。その先は真っ暗で、前が見えない。何処へ続いているのだろう。イルファンは警戒しつつも広いほうへと歩いた。身を屈めて進むと、すぐに開けた空間に出た。そこは自然に生まれた洞穴らしかった。ここが脱出用の道なのだろうか。どんどん奥まで続いているようだが、やはり先は見えない。


「身を隠したい時はここを使う」


 しかめ面で穴から這い出してきたリアトが言う。


「このままドピエルから出るんですか?」イルファンが問うた。

「どうも嫌な気配なのだ。面倒は避ける」

 

 女は周囲を神経質そうに見渡してから言った。


「あ、馬!」咄嗟に少女が言った。

「置いていくが悪いようにはしない」

「トルーン……」


 イルファンは嫌そうに顔をしかめた。彼女は馬に名前を付けていた。『トルーン』と言うのがそれだ。ノーラン文化膜において名前は呪的な力を持つが、これはいつの時代も変わらぬ認識である。名付けられたものは、12年間は帰属するのだ。


 だが、奥義習得の修業がすぐに済む保証はない。修業が行われない可能性を考えてもトルーンの事はやはり気がかりだった。彼は馴染みの傭兵に貰った雪走馬で、広い蹄は深雪にも沈み込むことが無かった。トルーンと共に過ごした3年はイルファンにとって大事な思い出なのだ。馬を思うと、少女はどうしても悲しくなった。


「泣くな」

「泣いてません」

「じゃあ泣きそうな顔をするな」

「してません」


 しばらくは無言で細道を進んだ。

 

「ここからは広い。少し気をつけろ」


 リアトの言葉どおり、幾つかの穴を抜けると急に空間が広がった。端に手も届かない。完全な暗闇がイルファンを焦らせた。視覚を調整しながら壁を探す。そうしているとリアトにぶつかった。筋肉が堅くて緩衝材にもならず、鼻をぶつけた。


「視覚調節には慣れておけ」リアトが言った。

  

 そんな事は分かっているという気持ちを抑えてイルファンは靈気の量を多めに調節していく。眼が暗闇に徐々に慣れていった。そうすると、思いもよらない光景が目に飛び込んできた。イルファンははっと息を呑む。


 どこまでいっても壁がない。

 驚くほどに広大な空間だ。

 この洞穴は、小さな原っぱほどにも広かったのだ。


 すかさずリアトが言った。


「河蝕洞だ。フィロレムから少し行けば大海だろう。そこへと通じる地下水脈が昔、ここを通っていたらしい。だがイルファン。上を見てみたらもっと驚くぞ」


 そう言いながら女は、魔獣油の松明に火をつける。折角の小奇麗でかっこいい服が既に泥まみれなのが見えた。リアトはにこりともせずに松明で上方を指し示す。


 すると、はるか頭上に、巨大な木のかたまりのようなものがあった。

 いや、それは自然によって生み出されたものではない。人工物だ。

 洞穴のなかに、巨大な、城のような建造物が浮かび上がっていた。


「増改築がすぎて、たまに木切れが落ちてくる。気をつけろ」

「あ、はい……師匠、もしかしてこれって、ドピエルですか?」

「そうだ」


 少女はおおきく息を吐いた。


 これがドピエルの本当のすがたなのか。人造迷宮とも呼ばれる地下貧民街、城とも街とも形容しがたい異形の建物はなぜか、空中に浮いている。洞穴の壁中に、まるで根を張るように浮遊している。あちこちに足場を突き刺しながら闇の底にぎしりぎしりと浮かんでいるのだ。まるで空に浮かぶ城か、なにかのように。


 目を凝らして、巨大な人造迷宮を眺めれば、修復や解体を行っている豆粒のような人間たちが見えた。木造の城の隙間という隙間からはかすかな光が漏れでていて、仄かに、ぼんやりと輝いていた。なんとも恐ろしいほどに幻想的な光景だった。


 あの灯に無数の人間が暮らしているのだ。

 数千もの餓人や狂人が。


 そう思ったとき、なぜか胸が騒いだ。

 既視感に近しい何かだ。

 美しいけれど。恐ろしいほどの暗闇。

 浮かぶ無数の灯。燃える城壁。怒号。


 そして、光に包まれる小さなお城。


 思いだした。

 紅い城だ。


「あ」


 ダメだ。

 これが私のなかの、引き金だ。


「師匠、すみません、松明を消してください」


 気付けば指先が震えていて、思わず目を背けた。

 少女は自分の中の言い知れぬ恐怖にこそ恐怖した。


 あれだ。また、あの光景だ。自身の中に巣食う恐怖の幻影。これは一体いつの記憶で、何の過去なのだ。自分の心に湧き上がってくる悲しみと恐怖、そして怒りの感情はどこからやってくるのか。わからぬままにイルファンは頭を抱えた。ぼっ、と音がして、光が消える。ゆらめく炎が消えて、泥のような暗闇が少女を包み込んだ。


「どうした、イルファン」リアトが声をかける。


 その声には抑揚がなく、いつも通りに冷徹だ。

 師匠は気づいたのかもしれないが、それでも何も言わなかった。

 だったら、私も、何も言わない。イルファンは眼を閉じる。


 そうして、ドピエルの光景を頭から消し去った。数瞬後にはイルファンは紅い城の事をほとんど忘れた。それが彼女に課せられた呪いであった。こうしている限り、イルファンが思いだすことはない。彼女が望めばそれは永遠に。永遠に深みに沈められるのだから。たとえ目の前で親が死のうとも、己が死のうとも。そして、


 大事なものがすべて失われようとも。

 忘れればいつでも幸せになれる。


「なんでも……なかったみたいです」少女が言う。

「まったく。いい加減に機嫌を直せ」

「はい……」力のない声であった。


 リアトがかすかに目を細めた。


「何か怖いものでも見えたのか」

「いいえ」

「ならば良い」リアトがそう言った。


 そう言ったが、とてもそうは見えなかった。

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