第04話 迷宮蟻街/ドピエル①


:強靭にして迷いなきわが主様:


 ……卑賤兵の賄賂が兵士を淘汰しています。汚職に耐えられない真面目な者はどんどん街を去っています。残るのは倫理観の狂った野蛮人どもや傭兵のように賢しい兵士だけ。彼らは荒くれ者同士で集まり、商売を始めました。当然、表立っては認められないようものであります。こうなれば傭兵も国属兵もあったものではない。法も秩序も覚えていた者が負けなのです。ここでの負けとは、死を意味するでしょう。


 先日、『卑賤兵』たちは組合からも見放されてしまいました。悪手でした。近いうちに、国属兵と彼らは、軍団を作り上げるでしょう。街を守るための自警団、その建前で集められた力で何をするかは容易に想像がつきます。更なる支配です。怯え、惑う、人々を悪へと導いてゆき、決して抜け出せないように謀るのです。


 リアト様はかつて私に、自分の力で物事を動かせと仰られました。ですが私たちだけでは力が足りません。どうかそのために、あなた様のお力を貸してはくださいませんか。詳細はわたくしの使者よりお聞きください。


 どうか宜しくお願いいたします。


:忠実で愚かなフェリ=ディアディスより:



Δ




 皇国第三都市フィロレム。


 それはローレッド山脈と首都エルトリアムのほぼ中間に位置する超城塞都市の正式名称であり、イルファンとリアトは日が暮れ落ちる間際、ようやく街が見える丘へとたどり着いた。眼下に巨大な城門と隔離壁が見える。その上には七色に輝く結界術式陣が伸びており、壁の外にはどこまでも広がる汚い町があった。


 あれこそが、フィロレムの代名詞である『貧民街』。

 この街は、とてつもなく広大な貧民街と壁内都市から構成されている。

 それはまるで、蟻の群れに取り囲まれた芋虫のように。


「城塞がちっぽけに見えるほどですね」

「人口は百万を超えるとも聞く。死者の数も知れんがな」


 リアトが唸った。


「病気のせいですか?」

「いや、ただの飢えだろう」


 リアトの話によれば、大海沿いの地方都市であるフィロレムの人口は元から非常に多かった。だが、病と戦争によって難民が更に押し寄せ、ついには、古くから市民権を持つ者でなければ入ることもできないほどにまで膨れ上がったのだという。


 流れの傭兵や商人などは、いくつかの近隣の小村や小都市などに泊まることができたが、難民や貧民は行く当てもなく、城壁の外側に簡易の小屋を作っていった。それらを排除することは容易だったが、今の中央大陸で人の移動を制限することは、難民を見殺しにすることと同じ意味を持ってしまう。そのために、有効な手立てという手立ては打たれず、また博愛主義の領主が難民の存在を許してしまったことで、フィロレムはもっと多くの人間を取り込み始めた。大都市から毀れた人々が幾人かの傭兵の手引きによって、街を作り始めたのだ。虫のように。蟻のように。


 最初はボロの仮住まい。

 それが次第に、柵や門、そして砦と化した。

 そうして、歴史に残るほどの貧民街が誕生してしまったのである。


 リアトが目を細めて眺めた。


「ここは結界もない無法地帯だ。人と獣の境界すらない。毎日の様にいさかいが起こっては無意味に人が死ぬ。何もできないなどということは本当はないはずだが、この街の国属兵達は己の利益を優先して、ろくな仕事をしていないのだ。博打に精を出し、麻薬に手を染め、騎士も兵士もそこらの貧民と大差ない暮らしをしている。規模は違えど、利用されて食われる側であることに違いはない。怠惰な人間ばかりだ」


 イルファンは眉をひそめた。


「悪い貴族みたいなのが牛耳ってるんですか」

「いや、悪い傭兵だ」リアトがしかめっ面をした。

「そんな面倒くさそうなことする奴がいるんですか?」

「卑賤兵というのを聞いたことはないか」


 金と自分だけを愛する荒くれ者のことだ。

 イルファンはかつて一度だけ会ったことがある。


「その頭の一人がこのドピエルにいるのだ」

「ドピエル?」イルファンが問うた。

「白毒蟻の群れのことだ。この街は湿部で最大級の大きさと複雑さを持っている。そして凶悪だ。毒蟻の巣のようにな。その意を込めて『蟻街ドピエル』と呼ばれている。私に言わせれば蟻というよりもきりぎりすの群れだがな」

「とてつもない数のきりぎりすですよ」


 視界のどこかでは、常に人が動いていた。いや、蠢いていたというのが正しいかもしれない。この貧民街では、至る所に人間の姿があった。遥か先に見える城塞まで辿り着くのは戦錬士でも骨が折れるだろう。いわく、ノーラン中の貧民が最後に辿り着く場所、餓人の聖地にして墓場。ここでは他と異なり、地下にも街が築かれているのだという。地上でこのありさまならば、地下はどんな風なのだろう。これ以上の数の人間がひしめきあっているというのなら、それはもう、地獄だ。


「それでもこれは、大陸中で起こっていることなのだ。フィロレムと比べれば小規模だが、事態に歯止めはかからんまま、ますます難民や避難民が増えているという。いずれは城壁の内側も同じようになってしまうのかもしれん」

「どうして止まらないんですか」少女が言う。


 人間はこの世に無限にはいない。

 大地の大きさほどには、人はいないはずだ。


「魔獣病で居住地域が減ったのだ。どこの街も結界を張るので手一杯で、貧民街にまで手が届いていない。下手を打てば不満は行き場を失って、街全体を壊してしまうだろうからな。邪魔だと思ってはいても、どこの街主も手を出さない。手を出さないままに人間も街も増えていく。いつか都市ごと食い潰される日まで臆病にかまけているのだ。私などには、それが悪いとも言えないが」師匠が冷えた声で続けた。


 リアトが手をくるくると回して、病を払うまじないをした。

 今日はなんだか、饒舌であるようだった。


「このごちゃごちゃ感は結構面白いですけどね」少女が言った。

「厄介ではある」

「厄介なんですか?」イルファンが問う。

「通り抜けるのもごめんだな」


 周囲の空気はぞっとするほど冷たかった。

 寒さだけではない。人間の猜疑心が放つ、独特の冷気のせいだ。


 日が落ちたことで、貧民街の住人も警戒を強めているらしかった。何を恐れているかは想像がつく。『若き呪い』と呼ばれるほうの魔獣病だ。罹患した者が旅人に紛れていないとは限らない。若い魔獣病への対抗手段は今のところないに等しかった。


 二人が近づくと殺気にも似た気配が向けられた。

 リアトはそれを軽く流して貧民街に立ち入っていく。

 イルファンも師匠に続いた。


 この街はひどく込み入っているらしく、自分がいま何処にいるのかすぐに分からなくなってしまう。そのため、初めての都市だが高揚感などはなく、むしろ痺れるような緊張が身体をずっと支配していた。あちこちの粗造の仮小屋や崩れた石壁、木切れに天幕を張った屋台もどきから、ねばついた視線を感じた。道端に転がる人々はまったく身じろぎをしないが、それでも眠ってはいない。その枯れた体の下には武器を隠している。愚かな旅人や狂人、そして魔獣を殺すための武器だった。


 リアトとイルファンは警戒を怠ることなく奥へ奥へと進んでいった。

 開けた場所に出たとき、遠くに城が見えた。


「あれがフィロレムの『クスタファルビア城塞』だ」


 瓦礫の家々の隙間から、くすんだ黒色の塔が何本も見えた。もくもくと煙を吐き出しているそれは、いまもなお稼働している武装城塞。古代バルニアの時代から残るという薄汚れた巨人の様な大砦、まさに対獣要塞のなかの対獣要塞であった。


「クスタファルビア……」


 イルファンは『血飢城』に憧れを抱いていた。

 無数の戦錬士や剣術士や魔法士が血飛沫となり散っていった、

 そういう場所だと、傭兵達に聞いていたからだ。


§


 クスタファルビアは二千年前、バルニア帝国の時代に築かれた砦だった。


 当時のバルニア帝国とは、中央大陸湿部のほぼ全域を支配していた大国家であり、対抗出来る程に有力な国家は大陸に存在していなかった。そこでは独裁統治が行われていたといわれており、その中でも現在ノーラン皇国のあるグレルト地方は侵略者であるバルニア人によって、特に厳しい統治が行われていた場所だという。


 この地域の先住民であるグレルト人は度々反乱を企てたため、バルニア人は彼らを弾圧し、ローレッドの向こうにあるファルティア人の土地へ追いやった。その時に建造された原初のクスタファルビアは、帝国冷部の重要拠点、その礎となった。それゆえ、この砦はグレルト人にとって、故郷との間に立ちはだかる巨大な敵とみなされ、グレルトの民は何度もクスタファルビアを攻撃した。だがしかし、この砦は難攻不落であり、統治者がノーラン皇家に代わってからもそれは続いた。


 幾千万もの人間の血を浴びてそれでも尚残る砦。

 血と煙で汚れた穢れた城。

 故にクスタファルビアは『血餓城』と呼称されるようになる。


 ただし、血飢城は実際には人よりも魔獣の血を多く浴びているといわれている。古代バルニアの時代、バルニア人は積極的に呪域を開拓していったが、そのとき、人と魔獣は激しく争い、冷部魔獣や海獣との闘争では血飢城が最前線となったのである。神話の魔獣は人よりも高位であり、その戦いは苛烈を極めるものだった。


§


 イルファンは目を輝かせた。


 太古の魔獣キィラノア=リトによる『赤雨の大虐殺』が起こった忌地にして、魔術師フロン=アギオシュスによる『大規模聖属結界』が張られたノーランの聖地。帝国神話の最前線がここなのだから、見られるものなら見ておきたい。


 考えても見れば、旅行はたぶんこれが初めてなのだ。少しくらい観光しても損は無いというか、見ないと損に決まっている。今回の旅の目的が観光でなにが悪いというのか。リアトに悟られたくはなかったが、心はすこし浮ついていた。

 

「城ってあんなにカッコいいんですね」

「フィロレムに入る予定はない」

「え、『血餓城』にも行かないんですか?」


 少女が目を剥いたが、リアトは無視して言った。


「今日は蟻街に泊まる」

「ここに?」嫌そうにイルファンが言う。

「伝手がある」リアトも嫌そうに言った。

「伝手とかいらないですから街に行きましょう」

「もう遅い。出迎えが来た」


 その時になってようやくイルファンは気付く。

 貧民達がゆっくりと二人を取り囲み始めていた。


 その数は少しずつ増えており、その誰もが目を爛々と輝かせて剣やこん棒を握っていた。目当ては馬か。剣か。金品か。それとも自分たちか。無用に警戒されたくはなかったので、この街に入る時には仰仰しい胴剣布を脱いでいた。頭剣布はリアトが解くなというので被ったままだが、胴布も着ておいて牽制した方が良かったんじゃなかろうかと少女は思う。真交流の剣術士に襲い掛かる者など、まずいるまい。


「師匠、剣布を出しましょう」

「ふん」リアトが鼻を鳴らす。

「師匠!」

「闘ってもどうせ傷ひとつ負わんぞ」


 それはそうかもしれなかったが、それでも二人は狂気染みた表情に完全に取り囲まれているのだった。そろそろ剣を抜いた方がいいとイルファンが背中の柄に素早く手を掛けようとしたその直前、リアトがため息をついて、銅貨を投げた。すると、痩せこけた人々の群れは、そんなものを追って周囲に散ってしまった。


 なるほど。この街にはこの街の決まりがあるようだった。これで穏便に済むんなら良いけど、とイルファンは安堵したが、リアトは不満げに鼻を鳴らして群衆を睨みつける。表情は険しさを増しており、苛立ちが眉間の皴に表れていた。女は足をたんたんと踏み鳴らしてから神経質そうにきょろきょろと辺りを見回した。


「どうかしましたか」

「頭が出てこんな」


 そう言うが早いか、リアトは背の藍剣を抜き放る。


 剣を抜いてどうするつもりなのかイルファンにはすぐに見当がついた。

 ローレッド山脈の道場ではこの技に何度も苦しめられたからだ。


 きりきり。

 きり、


 強弓を引き絞るような音と共に剣身が蒼白に輝き、殺気が零れる。

 ぴぃいいいいん、ぴぃいいいいいんと硬質な音が鳴り響く。

 イルファンは顔をしかめて、耳を両手で塞いだ。


 大気が共鳴するように震え始めると、空を飛ぶ魔獣の叫喚にも似た振動が皮膚中を走りまわった。それを受けた餓人たちは恐れをなして悲鳴を上げる。あちらこちらで狂乱が起きている。転んだものは踏みつぶされ、踏んだものも正気を失ったように叫んでいた。そして人々は、頭を抱えたままに路地や家々の隙間へ消えた。


 ただ一人を除いて。


 その人物を確認すると、リアトは剣の血を払うようにして闘気を霧散させた。呪界に顕れていた力が大気を歪めながら靈界へと返っていく。イルファンはその靈気から師匠の苛立ちを感じ取り、その身を固くした。


「ラフィー。なぜ姿を見せなかった」リアトが問う。


 その男は屑だらけの道に一人立っていた。


 左目尻に焼け爛れたような傷が一つ。背には長短剣が下がっているから、流派は真交流だろう。歳は三十を半分ほど過ぎたくらいなのだろうか、まだまだ剣を振るうに十分な肉体である。無駄のない身体つきだが猫背。貧民らしく、くたびれたぼろを着てだらけた立ち方をしている。一見すると男は隙だらけだった。


 私でも軽く対処出来る程度だろうかと思い直して少女が力を抜くと、男は口元に薄ら笑いを浮かべながらリアトの方へと進んだ。ずるずると左足を重たそうに引きづりながら。ゆっくりと怠そうに。その気だるげな様子が、どこか奇妙に歪んで感じられる。虎が爪を隠して近づいているような気持ち悪さだった。


 しかし、どこまで近づいても男から殺気が向けられることはなかった。


「姐さん、いきなり過ぎやしませんか。こっちにだって準備ってもんがありまして。いやぁ疚しいことは何一つないんですがね。知られたくない付き合いなんかもあるもんですからねぇ、ほら、連絡のひとつくらい損はねぇでしょ」男が言った。

「五年前に永遠の忠誠を誓ったろう」リアトが呟く。


 『永遠の忠誠』

 その言葉は、契約魔法による隷属契約を指す。


 内心でイルファンは驚いた。このリアトとそんなものを結びたがる人間が何処にいるだろうか。弟子たる私でさえ、永遠の忠誠だけは御免だというのに。結びたがるはずがない、となれば無理やり結ばされたのだ。


 少女はすこしだけ目の前の男が哀れに感じられた。

 もちろん、こそ泥の末路としてはマシな方かもしれないが。


「いやぁ、そうは言っても姐さんを見ると体がぶるっちまって動かないんでさぁ。今だって靈気に中てられてちびっちまいそうで。一体全体、何用でさぁ?」


 へへへ、と苦笑しながら男が言ったがその弱弱しさは芝居がかっていた。本当にリアトへの恐怖心で動くことも出来ないという感じはしなかった。やはりこいつは何かを隠している。イルファンは疑いの目を男へと向けるが、彼は目を泳がせることなく、少女へ向かってにやにやと笑いかけた。どこか下卑た感じがする。


「うげぇ」イルファンが言った。

「そこのお嬢ちゃんはあっしのことを……」

「黙れ。その子に喋るな。部屋に案内しろ。それと二日間は情報を漏らすな。首を刎ね飛ばすように命令してやってもいい」リアトが吐き捨てるように言った。

「いやそれならお安い御用で」へこへこと男が答える。


 少女とその師匠はそのまま男の後を歩いた。


 フィロレムの総門からはどんどん離れて、三人は貧民街の奥深くへ入っていく。この男はやはり貧民街の卑賤兵を仕切っているらしく、餓人は遠巻きに見てくるだけで襲ってはこない。それが気持ちよくもあり、気持ち悪くもあった。


 神話に出てくる救世主のように貧民の間を通り抜けていくが、もちろんその先には、神話のような神殿はない。むしろ、深く入るに連れて、どんどん闇が濃くなっていくのが分かった。夜の闇ではない、もっとどす暗いものでできた闇だ。



Δ


 角を曲がりまた角を曲がり、そして角を曲がる。

 どこまでも角があり、直線の道は存在しないと言ってもよいほどだった。


「入り組んでますね」少女が言う。

「道は覚えるな。無意味だ」リアトがそれに応えた。


「ドピエルは不定の街でさぁ。迷宮の構造は日毎にばらばらっと変わっちまう。ちゃんと判ってるのはあっしと迷宮製作者ラドキエラ=デュロイだけさねぇ。まぁあっしは別に覚えてるわけじゃねぇ、魔具の地図を持ってるから迷わねぇだけさぁね」


 ラフィーはそう言いながらも、地図を見ることなくさっさと進んだ。


「見てないじゃん」

「あっしは勘がいいからねぇ。ほら、そこを右に曲がりな」

「うっ、くさい」少女が足を止めた。

「止まるな」リアトが鋭く言った。

「だってこれ……」


 壁の松明から黄褐色の煙が出ている。


 それを覗き込めば魔虫が火の中で蠢いていた。人差し指ほどの大きさの芋虫が数十匹だ。イルファンは一瞬胃の中の物を吐きそうになった。


 それを見たラフィーが、面白そうに少女に声を掛けた。


「ドルレーン。みんな大好きな油魔虫だぜ。なんせ今じゃ、海獣やらハレイン草から取れる油が高いからねぇ。ドピエルじゃこいつを重宝すんのさぁ。これがありゃどんなに暗い夜もぱぁっと明るくなっちまう、最高の松明さ。腹が減ったら食えるしねぇ」そう言ってラフィーはうごめく芋虫の一匹を口に放り込んだ。

「こいつの臭いに幻惑作用があるから使っているだけだ」


 リアトがすかさず、男の言葉を断ずる。


 幻惑作用と聞いてイルファンは後ずさりした。恐らく師匠の言っている幻惑作用とは実界的な物だろう。そして実界の物は時に致命的となることがある。


 例えば毒。魔術毒で剣術士を殺すことは不可能に近い。強力な術式毒ならば痺れはするが、余程のことがない限り、剣術士は死なない。剣術士の肉体の内側で充満する靈気が、毒を生成する魔術を阻害してしまうからだ。


 しかし実体毒は肉体そのものへ浸食を加える。

 だから抵抗することもできず、ころりと死んでしまうのだ。


「けけけ。ちゃんと使えば、なぁんも危険はないんですぜぇ。ここの貧民連中はこいつをむさぼり喰って夢を見るんでさぁ。まぁたまには間違って、一生分の夢を見ちまう奴もいますがねぇ。それもまた一興。何が起きるか分かってる人生なんてギリベスにでも食わしちまったほうがマシでさぁ、そうでしょ?」


「イルファン。嗅覚を閉じておけ」

「はい、師匠」

「何なら聴覚も閉じて構わんぞ」

「ひでぇなぁ、姐さん」


 単に嗅覚を閉じたところで、実体毒が無効化されることはない。それゆえに戦錬士が嗅覚と呼ぶのは単なる五感のことではなかった。それは、嗅覚に付随するあらゆる意識や感覚のことを指している。たとえば、刺激に対する反射の抑制や、毒物の意識的な阻害までもがおおまかな意味で、『閉じる』と呼ばれた。


 であるから、嗅覚を閉じればある程度は、明瞭な視界を得られるというわけだ。

 これが即効性のある毒物ならば、五感を制限することに意味はない。


 少女が言い付け通りに五感を操ると、すこし感心したようにラフィーが息を吐いた。五感の操作は戦錬士の中でも傭兵が得意とする領分だが、イルファンはそれを高い精度でやってのけることが出来る。その力量は上級傭兵にも劣らない。


「こりゃ凄い。流石は姐さんの弟子さぁ」ラフィーが言った。

「黙っていろ」リアトがすぐさま言い放った。


 それからしばらくは誰も話さなかった。


 静かに、汚物塗れの階段をいくつも降りて、どんどん深くへと進む。古代遺跡のようでありながらも、何処か生活感を感じる雑多さがある空間だ。灰色の薄い混凝土の壁の向こうからは笑い声や怒号が時折聞こえた。


 側溝には赤黒い液体が流れており、上には継ぎ接ぎだらけの布が張られている。もはや方角も、どれだけ歩いたかという時間感覚も失われていた。油魔虫に惑わされたのだろうか、頭がぼんやりとしていて脚も覚束ない。立ち込める鉄錆めいた臭いは、どこか生臭かった。人とも獣ともつかないなにかを感じさせる。なんとなく出した足が固い物を踏みつけ、見てみれば大腿骨だった。頭がおかしくなりそうだった。


 目の前に見えるリアトの踵だけを頼りに、イルファンは歩いていた。ここがもし本当の迷宮――つまり中央大陸に存在する五迷宮のことだ――ならば、とうの昔に少女は魔獣に喰われて幾多の人骨の中に埋もれることとなっていただろう。


 絶対に迷宮には入らない、とイルファンはぼやけた頭で思ったし、そのことを考えるだけで頭に靄がかかったようになった。目の前に不意に光のようなものが見えたと思ったら、ふわふわと壁のなかに吸い込まれて消えていく。イルファンにはもはやそれが現実なのか幻覚なのかも分からなかった。自分がこういう光景を見たことはあっただろうか。恐ろしく無機的な壁に囲まれて当てどなく、彷徨い歩いたことが。あった。いやおそらくあったのだろう。だからこんなに苦しいのだ。


 どんどん息が苦しくなっていく。

 二人、いや三人、いや何人もの声が聞こえた。


「イルファン」


 若い女の声だ。柔らかくてまるで滑らかで、優しい。


「イルファン」声がした。


 野太い男の声だ。いつかも聞いたことがある。

 深く、穏やかでいながらも鋭い。


「イルファン……」声がした。


 卑劣だ。狡猾で邪悪に満ちている。

 どこまでも卑怯で、おぞましく、暗い。

 すべてを裏切りながらのうのうと生きている。


「イルファン!!」声が。


 激情に満ちたそれは、少女の声だった。

 いまや、たくさんの誰かに囲まれているような気がした。

 イルファンは思わず笑い出したくなった。

 あぁ、もう黙っていられない。


 そう思ってイルファンが泣き言を言おうとした時、

 遂にリアトが迷宮探索の終わりを告げた。


「イルファン、ここだ」聞き馴染んだ声だった。


 鋼のような手が少女の手首を強く握っていた。

 あまりにも強く握られていて、痛みすらあった。

 だけれど、イルファンはひどく安堵していた。


「気をつけろ。気を抜くと幻覚に飲み込まれるぞ」

「はい。まるで迷宮ですね。頭がおかしくなりそう!」

「なぁに本物はもっとうんざりさ」ラフィーが言った。


 イルファンはそれを聞いて下唇をびっと突き出した。


「魔獣が出てくるんなら退屈しないわ!!」

「けけけ。それは威勢のいいことで」

「馬鹿にしてんの?!」イルファンが噛みつく。


「いやぁ、そのねぇ、迷宮ってのは魔獣じゃなく、『深魔』の巣窟でさぁ。戦おうと思って戦えるようなものじゃねぇんですよお嬢ちゃん。死ぬとか生きるとかじゃなくてありゃぁもっと恐ろしいんだ。それが嬢ちゃんに分かるとは思えねぇが、自分の信じていること全部がぐちゃぐちゃになるってのはもう、ひでぇもんだ。いやまぁ確かに退屈はしねぇが、退屈する方がどれだけマシなことか、分かるってもんでね」


 深魔。

 その存在についても、イルファンは断片的なことしか知らなかった。

 だが、連中が魔獣以上に不気味で慈悲を持たないということは知っていた。


 街道などに稀に深魔が出た際には、あの荒くれ者の傭兵たちでさえも小屋に閉じこもって震えていたのだから、それは相当に恐ろしい相手に違いない。『深魔』は、幸いにもローレッドにはほとんど現れなかったが、出会った場合には一目散に逃げるしかないのだと、リアトに言われたことがあった。実際、イルファンはたったの一度だけ、その深魔の一片に触れて、血も凍るような思いをしたことがあった。


「迷宮の深魔って危険なの?」ぶるりと少女が震える。

「危険なんてものじゃねぇなぁ。迷宮深層の『腑分け』なんざ上級剣術士が何人いても役に立たねぇんでさぁ。条理もなくバラされて、ただの肉と骨の固まりの出来上がりってなもんよ。他にも『人鏡』に『血溜まり』に『蚯蚓』に『骸殻』に……どれ一つ、俺たちを生きて帰してはくれねぇよ。たとえ姐さんが一緒だろうとなぁ」


 ゾッとした。


「嘘でしょ」少女が言う。

「本当さ」

「嘘!」イルファンが恐ろしい剣幕でラフィーを睨みつけた。

「あっしはまぁ、嘘つきではありまさぁ」

「ほら、中に入るぞ」女が言った。


 迷宮の魔物たちの話は、妙に真に迫っていたから、リアトがそう言ってくれたのは、有難かった。辿り着いたところには錆びた鉄製の扉があった。それは何重もの鎖や閂で閉じられている。松明を近づけてみると、細かな幾何学模様まで彫ってあった。ということはこれは魔道具。なんらかの術式を組み込んだ防御魔術の罠だ。


 こういったものの存在は、ローレッドにくる傭兵たちから聞いていた。泥棒や陰秘士を追い払う為の防御結界のようなものは案外と安く手に入るらしく、山の中の何でもない荷箱にも、悪辣な魔法がかけられていることがあるそうだ。それに手を出して痛い目をみた傭兵の数は、とても両手指十本では数えきれないのだとか。


「触るなよ」


 リアトはすっと前に出ると、これまたびっしりと模様が彫られた鍵を無造作に差し込んで回す。重苦しい軋音と共に扉が独りでに開きはじめた、それと同時に、腐ったような臭いが漏れだしてくる。それはイルファンを少しばかり目覚めさせた。


「くさっ。こんなところに泊まるんですか?」

「ご苦労だったな。ラフィー。礼だ」


 リアトはイルファンの問いを無視すると、そう言って金貨を数枚ほど男に投げた。それは、まるで殺すかのように、頭部へ向けて的確に投げ打られていた。だがしかし男はそれを片手で器用に掴んで見せる。よく見れば、一枚ずつ指の間に挟んでいる。この動体視力と反応速度は並の中級剣士とは思えなかった。


「ありがとうごぜえやす。ここで迷ったらお呼びくだせぇ。このラフィーはいつだって姐さんの味方にして忠実なる僕ですからねぇ。あの熱部人やら紫髪の女に劣っているところなど少しも、ほんの少しもありませんぜ?」ラフィーがにやついた。

「お前の素晴らしいところは、その腕だけだ。わざわざ呼ばんさ」リアトが睨む。

「つれねぇなぁ。しかしここは来る度になにもかもが変わっているんですから。なんたってそりゃ人造迷宮ですからね。姐さんの心でさえも変わってるでしょうさ」


 そう言うと男は下卑た笑みを貼りつけたまま、闇へと消えていった。

 ほんの数瞬で気配も消える。

 残り香も何もかもが虚空へと去ったのだ。

 

 驚くべきことに少女は既に男の顔も名前も忘れていた。誰だったっけ今の。氷が解けて水となるように、イルファンの記憶から男の輪郭が消失しようとしていた。その奇妙な感覚が、少女に『赤い城』の記憶を思い出させようとしたそのとき、


 リアトがイルファンの様子に気付いて声を掛けた。


「ラフィーだ。忘れるな。あの男は役に立つ」

「うそありえない。今の一瞬で全部忘れてました」呆けた声で言った。


 リアトが眉根を寄せて頷いた。


「そういう特質を持っているのだ。二ツ名は『陰迷かげまよい』のラフィー。あれでもエルトリアムで正規登録された傭兵なのだ。そうは見えんだろうが。それと、一応言っておくがあの男は悪人ではない。狡猾で抜け目が無いだけだ」


 それは大抵の悪人が持っている性質なんじゃないか、と思ったが少女は黙っていることにした。というのも、自分の馴染みの傭兵たちもその程度の性質はちゃんと備えていたからである。責められる道理などなかった。それが傭兵というものであり、それが彼らの生き方だと、イルファンはちゃんと知っていた。良くも悪くも。


「さぁ中に入れ」リアトが言った。

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