第03話 演義呪道/ローレッド


 凍溶月の朝、身支度をしてあばら屋を出た。


 道場に上るということは、今後の修業は皇都で行うということだから、ここにはもう戻らないだろう。イルファンはそれを少しだけ寂しく思った。かつては真交流の道場であったという山小屋は、二人で住むには広すぎると思っていたが、こうして外から眺めてみれば随分と小さく見えた。馬舎に繋いでいた愛馬トルーンを門まで引いてくる。そして、その背中に鞍をつけてやり、荷物を載せてやる。


 名残惜しく振り返ると、丁度リアトが馬に乗るところだった。


 そのリアトにはいつもと異なるところが一つだけあった。

 己の背だけでなく、馬の背にも長い棒状のものが掛けられているのだ。


 真っ白な布でぐるぐると巻かれているものが長剣であることは一目瞭然だったが、真交流という剣術では、二本も剣を持たない。背のバルニュスが唯一にして無二の得物だ。師匠は無駄な事をしないのに、なぜあんなものを持つのだろうか。リアトは見られていることに気付きながらも、そのまま無言で馬をイルファンの隣に寄せた。すると、布から長剣がわずかに見えた。珍しいことに、それは鞘に収まっている。


「それって師匠のですか?」


 リアトはそれには答えず、黙ったままで荷物をイルファンに渡した。どうやら剣については話したくないらしかった。つまらなかったがそう察すると、少女は荷物をくくり付けて、改めて自分たちの姿を眺めた。馬には小さな革袋二つがつり下げられていて、驚いたことにこれが持っていく食料の全てだった。


 皇都まではここから十二馬遊(馬で十二日)程度。師匠も自分も闘鎧馬の術を使えるのだから、実際にはその半分の時間で着くだろうが、それでも足りない。これでは三日分あるかないか、いやそれはちょっとないか、といったところだろう。


「食料は足りるでしょうか」少女が言った。

「必要ない。行くぞ」


 その言葉に剣を抜きそうになったが、すんでのところで自制する。なに、足りなければ、道中で捕えて食べれば良いのだ。魔獣躰を食べるのは呪体浸食の危険があるが、熟練の戦錬士ならばよくやってしまうことだった。魔獣病の病原はしっかりと火を通せば死ぬことが大半で、仮に死んでいなくても、まぁ問題はない。 


 イルファンは山での修行のときに何度か雪熊の肉を食したことがあったが、あれはそこらの兎などよりも余程旨味がある。そういうわけだから、少女の好物は雪熊レルコオンの鍋だった。熟成したモツなんかは、本当に最高に美味しいのだ。

 

 手綱を引き、リアトが先を行った。その後に少し遅れてイルファンが続く。

 均された土地を出て山道に入ると、二人は雪走馬を全力で駆った。

 全力で駆るのは、魔獣を避けるためだった。


 あらゆる忌地がそうであるように、ローレッド山脈とその山道には魔獣が出る。わらわらと出る。そのため麓に住む部族はローレッド山脈を『右角』ではなく『病の巣』と呼ぶ。呪われた病の媒介者である小魔獣『鼠犬(ペト)』が多く生息している山だからだ。特に山頂は、上級魔獣の住処でもあり、無傷では抜けられない。手傷を負わされれば病への抵抗力が落ちる。魔獣よりも病のほうが、よほど厄介なのだ。リアトやイルファンといった剣術の達人であっても、瀕死では、病に対抗できない。そのためリアトでさえも中腹よりも上には滅多に近づかなかった。


 もっとも、普通の人間は、上級魔獣を相手にすればほぼ確実に即死するのであるから、大概はそちらを警戒する。病は怖いが、魔獣はもっと怖い。それが逆転するのは卓越した戦錬士の特権だ。レルコオンに殺された人間の跡を、何度も見たことがあった。奴らは食った戦利品を全て崖下に吐きだす。山の中腹を歩けば、傭兵達の装備や骨が散らばっている。ほんの数日前まで笑って話していた人間の死骸だ。


 そうしたものを見たくないというのも、急ぐ理由の一つだったかもしれない。


§


 奥まった暗い空間や人の立ち入らない場所は呪的に浸食されてしまうが、これは人々の空想や臆見が場所の呪性を高めるためだった。俗説にあるように、呪は恐れや嫌悪で味付けされて、魔獣をより『魔獣』にする。つまり、曰くつきの場所は危険であるということで、このことは古くから経験によってよく知られていた。


 そして同時にその経験そのものが呪をより高めてしまうという場合も多くある。呪はそれ自体が力を持つのだから、扱いには慎重さが必要だった。もちろん、呪は良い方向にも働いた。人々が安全を認識している『街道』や『自宅』は呪的に強化されることで、強く閉鎖的な存在理解を得る。存在理解は呪界へ干渉し、一種の結界となるのだと傭兵たちの間では実しやかに囁かれている。


 とはいえ、認識による呪的結界は第二界『呪界』におけるものでしかないのだから、それよりも上位の界に流れる力には抗しえない。靈力や魔力によって破られる事など度々であるし、物質的な実体攻撃にもそれらは全く無力だった。


 それゆえに重要な建物の場合は複合結界が使われる。これは『術式結界』と『呪的結界』と『実的結界』の三つを併せて用いた代物のことだ。この手の結界は大都市でも使用されるが、その場合は『術式結界・伝承と安堵・物理城壁』があてはまる。これらを破るのは一流の戦錬士どころか、軍隊でも困難だった。


§


 馬に自身の闘呪を纏わせて、険しいローレッド山脈を降りる。まるで崖を滑り落ちるような行程だったが二人は難なく踏破した。ローレッドは恐ろしい山だが、八年も居れば庭と変わらない。ほぼ半日で平野に立った。二人で住んでいた山頂付近には数多くの魔獣が生息していたが、この麓には原種動物しかいない。初級の魔獣といえども一筋縄ではいかない連中ばかりだから、そのこと自体は有り難かった。魔獣は、例外なく凶暴であり、争うことと食らいつくすことを至上の幸福としているのだ。


 幼い頃には黒兎でさえも恐ろしかったものだった。いわゆる、雪熊や雪狗が病にかかり魔獣となったものがレルコオンやマリリュスで、日が暮れると彼らの時間がやってきて、その鳴き声が響き渡る。そうなるとすぐに少女は布団に潜って剣を、血が出るほどに握りしめたものだった。あらゆる魔獣は病を持っているから、活性化しているものに噛まれれば変躰の恐れがあると聞いていた。まだまだ幼い当時は、そうして人の心を失うということが、死ぬよりも何よりも恐ろしいことだった。


 イルファンはそういったときによく思考した。原種と魔獣になる生物の違いについてよく考えた。傭兵や麓の者は、それが精神の差なのだとイルファンに言った。真実かはともかく、罹らない獣は精神が強くあり、罹る獣は精神が弱いものなのだそうだ。病に侵されたこの山脈で生きる強靭な獣たちが『精神の強さ』で選別されているとは思わなかったが、肉体の強靭さというのもなんだか違う気がして、誰にともなく頷き返したことを覚えている。納得はできないが、噂としては妥当なものだろう。


 ローレッドでも、今日までに何匹も山兎を見た。原種の山兎だ。どうして彼らは魔獣にならないのだろうか。魔獣になる物とならない物、その違いはなんなのだろう。大抵は、答えなど出ないまま、忘れて消える。そして恐怖心はいずれ薄れて、いつのまにか魔獣の肉すらも気にせずに食べている。


 だが、こうして山を去るとなると、そんなことがいつにも増して、気に罹った。


 この山では、視界の端々に死体がある。馬の踏み砕いた白骨は獣のものか、それとも魔獣のものか。死ねば区別の付けようもない。それを話すと、リアトはかつて「それは生き方の違いにすぎず、本質的には何の違いもないのだ」と言ったが、少女にはその区別が無意味なものとは思えなかった。狂ったように戦い、争いをもたらす魔獣は、どこか戦錬士や傭兵の生きざまにも似ている。剣に生きるリアトのような存在は、おそらく、そうではない人間からすれば、ある種の魔獣にも見えるだろう。


 これから向かう場所では、人は獣とともに暮らすことがない。人の場所と獣の場所は区切られていて、そして、街に住まう人というものは、リアトや己とは違って、ただ生きるために生きているのではない。知識や文化を収集し、それらを積み重ねていくことで、より良い暮らしを作ろうとしているのだ。そんなことを、傭兵たちから聞いたことがあった。イルファンにとっては実感のない話だったが、街の人間と会えば、彼らが戦錬士とどう違うか、それがはっきりと分かるのではないかと思った。


 そしてまた、自分がどういう存在であるかも。


「イルファン、そろそろだ」


 不意にリアトが声を掛けた。


 目の前にローレッド山脈と麓を分ける小さな河が見えた。数本の丸太を束ねた粗末な橋を渡りきるとそこには緑が広がっていて、これが『銀の風』と呼ばれる冷部の平原地帯なのだと理解した。一面に、アティカ(銀緑草)が凪いでいた。


「はい、師匠」イルファンが答える。


 馬が木橋を抜けると重苦しい山の気配が一瞬で消えた。呪界には気味の悪いものはもはや何一つ映っていない。強いて言うならば、半透明の彩雨がしとしとと降り注いでいるくらいだろう。あれは、この平原周辺の浄化呪体を表していた。


 こうしたものは、現実以上に美しく、この彩雨にしても、実界では有り得ない輝きを放っていた。これが、人々が『銀の風』に抱く空想であり、この地域の視覚化された呪だ。すなわちこの雨は、イルファンが自ら造った光景に過ぎないとも言える。少なくとも、リアトは幼いイルファンに対して、そういう風に語った。確かにそういう風に言ってしまえば、呪界の現象は全て空想的だ。だが、イルファンは呪界がそんなに単純な世界でもないということもまた知っていた。傭兵達に聞いた話では、世の中には呪界の現象を操る人間や魔獣もいるのだという。ということは、それらの者たちにとっては、呪界とはまさに現実の別のかたちなのだ。


 思い返せば、遺跡で出会った魔獣アルレーンもそうだった。上級魔獣だったからかは知らないが、奴は呪界の触手を自在に操っていた。あれは確かに空想では無かった。まるで見えない手を持つ霊のように、呪的な存在にあの触手は触れていた。あれがイルファン自身によって造られた空想だとは、到底、思えなかった。


 そのあたりの疑問については、リアトに聞いてみれば良いのだろうが、どういうわけかリアトは、魔法だの魔術だのといった事柄については、頑なに教えてくれない。それゆえ、イルファンの魔法知識はどれも傭兵から聞いたものだった。彼らから語られる言葉は真実なのだが、大概それは漠然としたもので、なおかつ実用性に振り切られたものだった。一方のリアトも、理路整然とした知識を敢えてぼかす。そんな次第だから、イルファンには、ひどい知識のかたよりと、欠落があるのだ。


 考えても見れば、イルファンはリアトに知識を教わったという記憶がない。もちろん剣技や闘呪に狩猟、それに家事雑用の方法は身体に染み渡っている。けれど、それを師匠に手取り足取り教わった記憶もなければ、学問を教える教知士の様に知識を脳に叩き込まれたという記憶も無かった。そもそも、リアトは教えるのが下手くそで、その教練らしい教練といえば、実戦のみである。まるで手探りであったが、それでも、どういうわけだか、イルファンにはリアトを写し取ることができた。


 これは少女の、天賦の才が為したものだった。天賦の才を持つ者にとって、もっとも良い教育者とは自然そのものである。天才はいつでも、自然からあらゆることを学び取り、成功例を己自身に複写する。そうした人間に対する態度としては、リアトの教育方針というものも、あながち正道を違えたものではないのかもしれなかった。


 もっとも、そのせいで欠けてしまっている知識は多い。戦うために必要な事柄については断片的には知っていても、学問の体系として知りえることは無知に等しい。このような状態で、真交流の戦錬士を名乗っても良いのかは予てより疑問であったし、そんな己が奥義を習得して良いのかということも、甚だ疑問だった。


 本道場でどのような試験が課されるのかは分からない。剣に魔法知識は不要かもしれないが、魔術は剣術士にも関係の深い事柄のはずだった。もしも魔術に関する試練が行われたならどうすれば良いのだろう。師匠はかなり酷いし、言葉足らずで滅茶苦茶だが間違ったことはしない。どれも、いつかは誰かに聞けばよいのかもしれない。


 だが。だがしかし。


 イルファンは手綱を強く握る。

 そして馬の腹を強く蹴った。

 平原に降りても、彼女が振り返ることは無い。


 風に白い剣布が靡く。



Δ



 吹きすさぶ冷たい風。

 これは、冷大陸からの贈り物だった。


 神話ではあの大陸には氷属を司る天獣『パゴス』が棲むという。リオノシア海、あるいはゲイン海を越えた魔力は風となって中央大陸の霊峰ローレッドを打つ。故にローレッド山脈は、手指が落ちるほどに冷えた山々が多いのだという。


 麓に住むような『演義者えんじ』は別として、ローレッドが嫌われる理由の一つが山脈の冷気だ。傭兵たちの言うところでは、危険な地域には特有の魔法現象というものがある。人々はその現象を忌み嫌うのだという。そしてまたそれが新たな現象を引き起こす。ここまでが一連なりなのだと、傭兵たちは言った。


 イルファンたちが歩いているのはそんな山麓の細道だった。

 この場所にも強くパゴスの風が流れ込んでくる。

 疲れのせいか馬の足取りも悪いため、馬を下りて歩くことにした。


 不思議なことに、このあいだからリアトの口数が減っていった。ただでさえ少ない口数が減るという事は会話が成立しないということだ。めげずに何度か話しかけたイルファンであるが、師匠は上の空でろくな返事を返さなかった。


 そんな状態のままで銀の風を早々に抜ける。二日ほど歩けば、山脈の冷気からは逃れることが出来た。あの風は、戦錬士でも長くは浴びたくない。早く抜けられたのは幸いだったといえるが、やはりそれでもリアトは口を利かなかった。問題がないといえばないのではあるが、寂しさというものだけはどうにもならない。悶々とした思いを抱えながらイルファンは歩みを進めて、愛馬と身体を温めあった。


 それから次に、二人と二頭を襲ったのは、数弓飛先も見えない様な濃い霧だった。ローレッド山脈から三馬遊の森の中でイルファンは物心ついてから初めて霧というものに遭遇した。雪煙や吹雪とも違う白色の空気は、油断すれば少女を木々にぶつからせてしまう。ここは背の高い木が幾つも連なっている森であった。そのため、イムファの深奥部ほどでは無いが呪的に強度を増しているようだった。


 これも魔法現象だ。

 イルファンは呪われた森の話を聞いたことがあった。


§


 神話層に刻まれている魔法を呪が如何に引き出しているのかは厳密には理解しえないが、『見えない霧の森』という呪をかけられた森がその認識を充たそうとすることだけは分かっている。具体的に言えば、大気中に霧、即ち水属魔法が発生することで森全体を濃霧で包み込むのである。そして呪的な力が魔法にさらに認識阻害の呪能を付与する。こうして魔法現象は複合的に強化される。


 このように呪と魔法は呪界の領域において関わり合っている。とはいえ、自然発生的な魔法は厳密には言式法化魔術と呼ばれるものではない。それは呪式法化魔術であり、法則として刻示された魔法を引き出す際に呪が用いられている。この呪は認識でもあり記号でもあり魔法の送手でもあり、受手と言うこともできた。


 そもそも呪界には二つの側面があるということを認識する必要がある。乾部に名高きティル=アーレイア学者群の解説するところでは、機能としての呪界は二つの面に分けられるのだという。それが認識面と呪面である。


 認識面とは認識が広く影響するという呪界の性質そのものであり、呪面とは第二界『呪界』として浄眼でのみ知覚可能な『既存在的非実体全般』を指す。この二面の働きによって、呪界は十一界の中でも類稀な実界関係性を持つのである。第四界『靈界』や第五界『空界』が実界に顕すという仕方で影響を持つとき、呪界は第一界『実界』との中間位相として『仲介者的役割』を果たす。


 すなわち、靈体や空体と呼ばれる位相体は実界ではなく呪界に映るのである。但し注意すべき点は、位相体それ自体は実存在し得なくてもそれが呪界で及ぼした『結果』は実界に反映されるということである。


 それ故に呪界における位相体の行使は実界を改変する事が出来るのである。


§


 霧の中では前を歩くリアトの姿も見えにくい。戦錬士の眼はあらゆる物を見通す事が出来るのだから、深い霧だって何処にも存在しないはずなのだが、この森のような魔法現象としての霧までは見通すことができない。呪界にもかかっている霧は時に『浄眼』さえも欺いてしまう。となると、魔獣の『獣光』も見えないのであるから、気配と臭いと音が重要になることは明白だった。ここに生息するのは中級の魔獣であろうが変異体が居ないとも限らない。慎重なイルファンは馬を下りた。


 己のわずかな気配さえも消しながら慎重に歩く。

 その耳をそばだてて、魔獣の襲撃に備えた。


 少女の経験上、このような視界の悪いところで不意打ちしてくる魔獣は性質が悪かった。ローレッドの雪煙に棲むゲバエ(飛蟋蟀)はその代表的なものだ。彼らは無数の魔虫の集合体であり、雪煙の中では体色と相まって不可視に近い。


 イルファンはゲバエを雪ごと飲み込んで、腹を食い荒らされたことがある。

 そのことを思い出して少女は顔をしかめた。


「師匠いますか?」


 霧のなかでリアトが少しも喋らないので少女が声をかけた。黙ったまま歩くと、胸の内がざわざわするのだ。静かなのは悪いことではないけれど、二人旅で話さないのは気まずい、のかもしれない。だが、ゲバエの話など盛り上がりそうもない。とその時、霧が少し薄まった。リアトの白い剣布がすぐ目の前にあるのが見える。


「師匠」


 たなびいた剣布が鼻先をかすめる。思っていたよりも近い位置に女はいたが、何を言えばいいのか少女にはまったく分からなかった。彼女は一昨日からさらに無口になったので、もはや二日程度も口を利いていない。一言も利いていない。物思いにふけっている様子であり、少女はリアトに話しかけがたい雰囲気を感じていた。


 適当に何か――例えばこの森とかについて――

 幾つか質問してみても良いのだけど。


「おい」


 その時、唐突にリアトが振り返った。

 イルファンが驚いて飛び上がる。


「ずっと考えていた。お前が知りたいことは、今の内に聞いておけ」


 『銀の風』に入ってからしばらくの間、何かを思案していたリアトだったが、どうもそれはイルファンに対する接し方に関する悩みであったようだった。なんて、他人事のように云うのはバカバカしいけれど、やはり面食らってしまう。先程まで自分自身がその事で悩んでいただけに、イルファンは激しく動揺してしまった。


「知りたいこと、ですか」


 突然そんなことを言われても困るが、とりあえず正面を見ると、どうやらリアトも動揺しているらしかった。鷹のような目が少し泳いでいる。イルファンは気が楽になった。なんだかんだ、この師匠も自分で言っておいて緊張しているのだろう。それが自分の緊張と同じものであるかどうかは少し……いや、かなり怪しかったが。


「それは、何でもですか」イルファンが問う。

「私に教えられることなら教える」

「かなり難しいような」

「その気になれば教えることくらいできる」


 本当に教えられるとは思わないが、やけに改まった口調でリアトが言った。

 山に居た時とは感じが違うと少女は思った。


 いやいや、もちろん、おそらく実際には何も変わっていないのだろうけれど、ローレッド山脈でリアトが沈めていた物が現れ始めたような、そんな予感がしたのだ。ただの直観でしかないが、不思議とイルファンはそのように思うことに納得した。今のリアトにはあの厳格で冷たい気配がないように思えた。それは柔らかくて今にも壊れそうな、どこか繊細な気配で、迂闊に踏み入ることを躊躇させるようなものだった。


 師匠は何故、聞かれることを警戒しているのか。

 それは警戒ではなくて恐れであるようにも見えた。


 イルファンには想像がついた。ああ、きっと、リアトは少女を恐れているのだ。それを感じ取ったイルファンは、自分の手指が小刻みに震えているのを感じた。緊張だ。私もリアトも緊張しているんだと少女は思った。どうせ聞くなら必要なことを聞かなければいけないだろう。しばらく考えたのち、少女は質問を決めた。


「師匠、どうして魔術のことを教えてくれなかったんですか?」


 そう言うと、しかしリアトは困り顔をした。いや、困るというのではない。すこし怯むというような顔をした。イルファンには、その表情の意味が分からないが、それがどうやら、師匠の望んでいた問いではないということは分かってしまった。


「魔術のことは話せん」

「はぁ」イルファンが間抜けな声を上げる。

「それ以外だ」

「じゃあ、何もないです」


 期待を打ち砕かれて身体の力が抜けるのを感じた。それが駄目なら何を聞けと言うのか。少女は不機嫌そうに師匠を睨む。するとリアトは振り返って眉を顰めた。どうやら困惑しているらしい。私は何か可笑しなことでも言っただろうかとイルファンは不思議に思う。リアトは森の小道が伸びる先の暗がりへと向き直った。


 そしてぽつりと言った。


「私は……別の事を考えていたのだ。お前が聞きたい事は山ほどあるだろうが、答えられる事は余りにも少ない。魔術にしてもそうだ。私は教える訳にはいかないし、もっと他の奴に教わったほうがいい。魔術とは、認識と幻想だ。私の言葉でそれを曇らせるわけにはいかない」リアトの声はかすかにあきらめの色を帯びていた。


 イルファンは問うた。


「師匠は、何を話してくれるつもりだったんですか?」 


 リアトの声は、ひどく疲れているように聞こえた。


「話せることは何でも。お前が知るべきだと思った事は何でも私に聞けばいい。イルファン、知るべきだと思ったことを我慢する必要はない。お前という人間を作るためには、数えきれないほどの存在情報が必要だ。そしてその中には、自分では決して見つけ出すことのできないものもある。私は、それを渡してやれるかもしれない」


 リアトが言った言葉はおそらく大きな意味を持っていた。

 それを聞かなかった事で後悔するような、重たい何かを言外に匂わせていた。


 けれど、少女はその言葉に対する返答を持っていなかった。魔術以外に聞きたい事など思い浮かばなかった。剣の事なら道場で聞けば良いだろうと思ったし、戦いのことや家事のことなら、この道中で聞けば良いと思った。この霧のなかだから許される話というものが存在することを、まったく想像することができなかったのだ。


 いや、本当は想像することはできたのかもしれない。しれないけれど、それを思考の俎上に載せられるほどには、イルファンは子どもではなかったのだった。


「難しい話なんて、ぜんぜん分かりません」

「それならば私は……いや、別にいい。構わないことだから、忘れろ」

「はい」


 打ち切られた言葉に、唐突にイルファンは思った。前を歩くリアトの顔を見たら、なにか浮かぶかもしれない。小走りで隣まで行ってその表情を見たいと少女は強く思った。そんな気持ちになったのはおそらく、師匠の声が優しかったからだ。


「あの、じゃあ、この森がなんで霧の森になったかとか、」

「そんなことで良いのか?」


 イルファンは手綱から手を放して、リアトに並ぼうと走る。

 されどリアトは上手に身を躱して、イルファンが隣に来るのを防いだ。


 その顔はまだ見えないが、なんとなく笑っている様に思われた。

 二人は、薄暗くも暖かい森の中でしばらくの間戯れた。


 しかしイルファンは思っている。

 その心の奥底で気付いていた。


 聞きたかった事は魔術ではないと。それが真実ではない事を少女は知っていた。真なる心はいつでも開かれている。触れようと思えば触れられる。自分自身が本当にここで問うべき言葉が何だったか、ということは。分かっている。


 ちゃんと分かっているのだ。

 だから少女は、一人で問うた。


 親は何処にいるのか。

 リアトは何処で私を拾ったのか。

 本当の名もイルファンなのか。


 何故、私は剣を振るったのか。

 何故、リアトは私を育てたのか。

 何故、今になって皇都に行くのか。


 あの町は、あの炎は、あの過去は、なんなのだ。

 リアトだけが知っている、あれは何かを。


 八年間も一緒に居たのだから、なんとなく、分かっていた。ここ数日のリアトの態度はおかしい。エルトリアムでの奥義習得というのだって、嘘かもしれない。本当はもっと恐ろしくて、おぞましいことが、自分たちを待っているのかもしれない。


 だけど、そのことについて、イルファンのなかに怒りや疑いはなかった。これから起きる事は怖い事かもしれない。でもそれは終わりではない。あのときのように終わりではない。あのとき。それを思い出すことはできないけれど、確かに自分はそれを恐れたのだ。きっと師匠もそれを恐れて、ローレッドへと隠れたのだ。だから、リアトが自分を危険に晒すのだとしても、それは恐れるようなことじゃない。


 だって、それに立ち向かえるだけの力を師匠は与えてくれた。

 そのはずだから。

 それを信じているから。


 数刻の後、イルファンは森を抜けた。

 そこにはこの旅の、最初の大都市が広がっていた。



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