第05話 迷宮蟻街/ドピエル②
薄明るい室内は思っていたよりも綺麗で整頓されていて、ローレッドと比べれば夢のような空間だった。それほど狭くもなく、もし斬り合いとなっても十分に動くことは可能な広さをしている。部屋は三つもあるようだったし、奥まったところには浴室や厠もあった。そのうえ――生まれて初めて体験することに――大きな寝台が二つもあった。これが蟻街の宿だというのならば、それほど悪い環境ではない。ただひとつ、アルレーン並みのすっぱい臭いが漂ってさえいなければ……。
どうやらリアトは、生物や食料品を長年放置していたらしかった。籠の中には蟲も集らないような魔獣肉がおそらくは腐ったまま放置されていて、ヘドロのような臭いを発している。結界によって蠅一匹たりともいないらしく、部屋は清潔なままだったのだが、そんなことは鼻の利く少女にとって、何のなぐさめにもならなかった。
リアトは嫌そうな手つきで肉の入った籠を掴むと、迷宮の廊下へと投げ捨てた。それから壁に取り付けてある術式板を起動させ、手をぱたぱたと振り動かす。奇妙に思って見ていると、部屋の隅から生ぬるい風が強く吹いてきた。その風は腐臭をなめらかに集めると換気孔へと滑り込んでいった。臭いは少しだけましになった。
リアトはその装置をもう一度動かした。
「それなんですか」イルファンが訝しげに問うた。
「換気装置だ。ここはずっと昔に使っていた隠れ家で、あちこちに術式機械が備えてある。だが大した代物ではない。ああ、そうだ、そこの箪笥に子ども用に仕立てた服があるから明日のために選んでおけ。汚いなりでは首都には入れんからな」
臭いに顔をしかめながら、リアトが部屋の隅を示して言う。
術式機械は気になるが、リアトの集めた服というのはもっと気になった。
箪笥を開けると、色とりどりの鮮やかな布切れが目についた。
「ほぁ! これ全部師匠が集めたんですか」
「さぁどうだったかな。貰い物も多いかと思うが」
今まで見たことのないようなお洒落な服ばかりに思えた。
当然それらは戦闘向きでない服ばかりであった。
最初に取り上げたものは、袖口がきつく閉じていて、しかも丈が長いために足が開かなかった。戦錬士として、これを着ることは出来ない。少女は箪笥をひっくり返す勢いで適した物を探すことにした。最もイルファンはその手の服の着方を知らなかったから、大抵は着方がわからないという理由で投げ捨てられていった。
しばらくして見つけたものは、胴回りの緩やかな厚手の服だった。元々は白かったのが年月の仕業だろうか、ほんの少しだけ袖口が黄色くなっているが、それでもこの服は美しい。いつもの服と比べればそれが職人の手で丁寧に縫われたことがよく分かる。生地の立派さが分かる。年月を経ても色あせない素晴らしさがその服にはあった。動きやすさを犠牲にしても、それを着てみたいと少女は思った。その代わりに脚衣は、柔軟性と通気性に優れたリャポック(湿魔蜘蛛)の糸で編まれた物にした。機動力は闘いの要になるものだ。それを失うわけにはいかなかった。
この脚衣に古い革靴を履くのだから、結局みすぼらしさは拭えないのだろうが、上が綺麗な分、多少は小ぎれいに見えるような気がした。魔獣皮の胸当てをつければ台無しになるかもしれなかったが、それさえ、些細なことのように思えた。
「すこし古びてはいるがまぁ目立つほどではない。それで十分だ」
「変じゃないですか?」イルファンがびくびくしながら答える。
「これは市民向けの服装なのだ。傭兵や山越え商人どもの着る旅装ともまた違うもので、動きやすさを考えたものではない。お前にはそういう服を着せてこなかったが、まぁいずれは慣れるだろう。いや、違うな。ちゃんと慣れておくことだ」
イルファンは渋い顔をして裾を摘み上げた。
「いつもの服じゃ駄目なんですか?」
「いつもの? こんなものを服だと思うな」
リアトはそう言って、床に落ちている布を爪先で拾い上げる。
それは服、というよりも一枚布を縫った『剣布』だった。
真交流の剣士はこの布をばさりと服の上から被ることで胴剣布とする。そして頭部には、これまた長い白布『頭剣布』を巻き付ける。剣布の下に着る胴下布は、いわば下着であり、普通はこれを数枚着こむのみである。イルファンは下布を二枚しか着なかったので、ローレッド山の寒さは堪えたものだった。これらの白布は滅多なことでは切れない。だが流派が遠目にも明らかになってしまう事と、あまりにも礼儀作法に無頓着な服装のために、街では敬遠された。少なくとも、胴剣布を都市で常に着ているような剣士はいないと、リアトが以前に言っていた。
「剣布は隠したい物をすべて隠すには便利だがな、服としては着れたものではない。服ではなく、戦闘にしか使えん布だ。武器のひとつにすぎんのだ。よく覚えておけ」
とはいえ、多くの真交流剣術士は『剣布』を実用性というよりは一種の証文のような形で用いるという。少なくとも胴剣布を着ていれば賊に襲われることはない。有用な服なのだ。イルファンは、リアトの言葉に面倒くさそうに眼を細めた。
「私だって布を服とは思ってるわけじゃないですけど……」
「うむ。で、私のはどうだろうか。これとかどうだ?」リアトが言った。
「剣布よりは遥かに良いですね……」
それはかっちりとした黒色の服だった。山の中での無骨な印象を消して、特級剣士に相応しい威厳が滲み出る服である。とはいえ、やはり皮鎧をつけるのでちぐはぐになってしまうだろう。そういう意味では微妙だとは思ったがリアトには言わない。イルファンは傭兵とのお喋りで会話の作法というものを学んだのである。
「似合ってます」
「ふむ。少し堅すぎるかとも思ったがな」
師匠が遠くを見つめるような眼で呟いた。
美しいと少女は思った。
リアトの顔立ちはグレルト人とトルポール人の混血のようであり、世間では美人と称される類の凛々しく彫りの深い顔立ちをしていた。その褐色の肌は、砂漠の民のようにきめ細やかで、シミひとつない。とても三十歳には見えない。
それゆえ少女は、たびたびリアトの顔に見惚れてしまう。
だがしかし、誰も彼女には寄り付かないだろうということも、少女にはちゃんと分かっていた。なぜなら、強者特有の獲物を捉える眼が、女の相貌を獣にしているからである。粗暴さにも似た荒々しさ、それがリアトからは零れていた。睨まれただけで腰が抜けるような瞳は、幼いイルファンを何度も貫いたものだった。
とはいえ、今では、自分もそんな眼をしているような気がしてならない。
「何を見ている? 稽古でもしたいのか?」
「いや、早めに寝ます」即答した。
「そこの寝台で眠れ。明日の夜にはここを発つ」
剣を、研ぎ汁を浸み込ませた剣布で研ぎながらリアトが言った。イルファンもそれに倣って、頭剣布で愛剣を撫でた。きめ細やかな白布が刃のくすみを消していく。魔鉄の剣ならば一撫でで十分にきれいになる。イルファンもその一度で剣をかたわらに置いた。しかしリアトは、自らの剣を何度も何度も研いでいた。
本当のところ、リアトの用いる蒼神鋼の剣などは研ぐ必要がない。彼女によれば一日研がないだけで剣の重みが変わるらしいのだが、これは眉唾だとイルファンは思っていた。きっと師匠は手が寂しいのだろう。
「あの……明日はフィロレムに入りますか?」少女がおずおずと尋ねた。
「この街に来た目的は敵を見定めることだ。夜までに何も起こらなければそれで構わない。あの街には商人と都市官吏しかいないからわざわざ行く意味はないのだ。貴族も、まぁ会わなくてもいいだろう」面倒くさそうにリアトが言った。
いわく、ノーランでは何処の街もたいして変わらないらしい。皇王の直轄都市には中央から派遣された都市官吏が居て、その人物が都市を統制する。これがクレリア魔法王国やヴェルトヴァン王国ならば事情は少し違う。大都市は国王より任命された諸侯、豪族や貴族が治めるのだとか言われていた。
§
ノーランの貴族は、大半が古い貴族だった。建国時になんらかの功績を立てた家がほとんどで、皇家に連なる者たちもまた貴族ではあるが、彼らは通常は無天皇族と称される。皇族も貴族も領地を持つが、彼らが大都市を握ることは無い。大都市はすべて皇王の直轄地であり、その管理は、貴族より選任された官吏に任される。
それ故、貴族らがその権利として支配するのは、幾つかの中小級都市と山々や平原、田畑、河などである。土地が財産として継承される際に分割されることはほとんどなく、長男以降の子弟は少々の財と宝物品を受け継ぐのみだった。
この相続にともなっての家督争いは熾烈なもので、比較的思慮深いと言われるノーラン皇国においても毎年のように血みどろの争いが発生する。皇王や官吏はそれを防ぐために、皇都に『調停官』や『上級調停門』を設けたのであるが、適切に機能することはなかった。汚職が絶えなかったために、商人や市民向けの『下級調停門』のほうが余程機能していたというのは、どこか皮肉な話だろう。
§
イルファンとしては、無味乾燥な官吏よりは諸侯の治政というやつの方がなんとなく良いように思えるが、そんなことは実際どうでもよかった。イルファンは別に政治形態を見たいわけではなければ、難しい話をしたいわけでもない。ただ観光したいだけなのだ。見たことのない場所を見て、世界の広さを知りたいだけなのだ。
「本当に、観光とかしませんか?」
「しないが騎獣は買っていいかもしれんな」
「明日の昼とか、フィロレムに行きませんか」期待を込めて問う。
リアトが、すこしむすっとした顔で目を細めた。
「何度も聞かなくていい。基本的にはここで身を休める」
「そうですか……」少女が呟いた。
どこかの街の市場で自由に買い物をするのはイルファンの大事な目的だった。そのことを少女はまったく忘れていなかった。そして歴史的建造物を見学して回ること、これが次の目的になる。それが出来ないと知って、少女は大きく落胆した。残念だけど、騎獣は別にいらない。既に愛馬がいるのだし、魔獣に乗るなど正気の沙汰とは思えない。というより、市場とは言っても『蟻街』の市場には興味がない。
「観光したいです。『血飢城』とか……」
「煩いぞ、黙れ」リアトが吐き捨てる。
「だって期待してたんですもん」
貧民街で引きこもっているなんて、絶対に退屈に決まっている。
「はぁ、かわいそうな私」
落胆したうえに手持ち無沙汰となったので、少女は砥石を皮袋から取り出して剣を研ぐことにした。これは普段行わない正式の研ぎだった。頭剣布を用いる簡易なものとは違ってこちらにはコツが必要だ。昔から愛用している魔鉄製のバルニュスはもうあちこちに細かな傷が入っている。靈気を通すだけで痛むからだ。リアトの剣ならばこうはならない。リアトの愛剣を造る
だが、たいがいの剣術士が神鋼を師匠から譲り受けるまでに死ぬという。
さっさとリアトが譲ってくれないかな、と少女はにやけた。
「何を笑っているのだ」
「なんでもないです」イルファンは恐縮して言う。
「お前が望んでいるような観光ならば、またいつかの機会に連れていってやれるかもしれん。残念だが今回はそんな余裕はないというだけだ、これは、嘘ではない」
女が言った。
なんだか言い訳じみていた。
「いつなら行けますか?」少女の目が輝く。
「今回のことが上手くいけばな」
と、リアトは何かをほどきながら言った。
「それは……?」
「剣だ。お前が見たいなら、見ても構わん」
珍しい言い回しをしながら、リアトが身体をずらす。その手元には奇妙な色をした剣があった。ローレッドを出る時に見た剣だとイルファンにはすぐに分かった。厳重に布で巻かれていたそれは、いまや剣身の一部を鞘からのぞかせている。あのときリアトはそれを見せたくないようだったが、今は何かを調べる必要があって剣の覆いを取っているのだ。あるいは、見せてもいいと思ったから、見せているのだ。
「変わった色……」
「うむ。このような剣は他になかろう」
イルファンの呟きを聞いて、懐かしむようにリアトが言う。
そう。その剣の鋼は、驚くべきことに美しい『琥珀色』をしていた。
「綺麗です」少女が言う。
「これも術式具だ。やはり傷一つないか」リアトが言った。
「何に使うものなんですか」
「今のところは、何かに使うものではない」
そう言うと、非常に危険なものを取り扱うようにリアトは剣を鞘に戻した。その剣が隠れるまで、意識が引き込まれていたことに気付かなかった少女は、琥珀が見えなくなると同時に正気に戻った。あれはなんだったのかと考えてもまったく分からない。しかしイルファンが知る限りでは、琥珀色の鋼など存在しないはずだった。
「師匠の剣ですか?」
「違う。誰の剣でもない」リアトが言う。
「それって……」
「しっ」
詳しく尋ねようとした瞬間に、リアトが眉をひそめた。何かを感じたように辺りを見回してから浅く、そしてすばやく息を吸う。彼女は剣を素早くくるむと、部屋のあちこちから荷物を集めた。不思議に思っていると師匠が静かに言った。
「第七界に触れられた。今すぐ上方の気を探れ。獣だ。いまの私では感づかれる」
「了解です」
いつのまにやら師匠の眼が鋭くなっていることに、少女は気付いた。すぐに地上へと意識を集中させて、ぼんやりとした気を探る。こうすれば殺気や強大な気を出す者が手に取るように見えるのだ。とはいってもイルファンが探れるのは精々二弓飛(約四百M)程度のものだった。リアトであれば、半馬遊は靈気圏内だという。その広大な網に、何者かが敵意をもって触れたらしい。少女は集中して敵意を探すが、目当てのものはなかなか見つからなかった。そこら中に怪しげな気配がありすぎている。だが、そのほとんどは単なる餓人や国属兵のものだろう。もっと下、近くの方を探ってみてはどうか。奇妙な動きをするもの、敵意を持つものを……。
「おっ」と少女が声を上げた。
街の地下に、人々に紛れて獣臭い気配が五つあることに気付いたのだ。
魔獣か、それとも別の何かか。
しばらく探ってから少女は結論を出した。
下級魔獣ギリべスだ。
それは狗が魔獣化したと言われている獣だった。ある程度の知性があるために使い勝手が良くて仕込めば非常に強くなる。骨格は猿に少し似ており、猿と狗狼の合いの子と言われても違和感がないほどだった。
跳ぶ様に走り、その豺狼の鋭い牙をもって、群れで獲物を仕留める魔獣。野生でもそれなりに厄介な魔獣であるが、今まさに走り回っているこいつらは野生ではない。いくらドピエルが術式結界や都市城壁の外に建造されているとはいえ、兵や結界を掻い潜って、犬ごときが奥まで入り込むなど有り得ない。ならば猟犬だ。この狗猿の魔獣はしばしば人に飼われて行動するという。獣を操る術を心得る者たちは、ギリべス(魔猟犬)を用いて標的を襲うのである。戦錬士が警戒するとしたら間違いなくそちらの方だった。この五匹にも操獣者がいるのだろうか。
イルファンはそれを判断する前に、あることに気付いた。
この気配は近い。かなり近い。
これはひょっとすると、ひょっとして。
敵にもう、捕捉されているのかも。
「師匠! ギリべス五頭です!」少女は慌てて叫んだ。
リアトは予想していたように「狗か」と言う。眼には深い疑念の光が灯っていた。イルファンにはその理由が分からなかったが、リアトは敵について何かを思案しているようであった。目を閉じて、そして開く。やけに重い口調で彼女は言った。
「予定変更だ、追手を殺して朝には発つ」
その瞬間、扉を生き物が引っ掻く音がした。迅い。しかしながら力不足のようだ。竜巻の弾けるような激しい音が一度だけ響いた。扉に刻まれた結界術式を破壊するどころか、むしろ扉に手痛いしっぺ返しを喰らったらしい。ぴちゃりぴちゃりと水の滴るような音だけが廊下に響いている。魔獣の気配はもうない。
「これは雑魚だ。殺ったな」
「もうですか?」
「罠なら五匹も使わん」
立ち上がったリアトは扉を開けると、剣すら持たずに外に出た。
「うわ」少女が言った。
狭い通路にはギリべスの醜い死躰が転がっていた。全身が切り刻まれた様になっており、肋骨が向かいの壁に突き刺さっていた。内臓とも何とも形容できない肉塊が辺り一面にへばりついており、それが獣に対して行使された魔術――恐らくは嵐属かなにか――の強力さを物語っていた。やはり、この手の陣には触らないに限る。
ふぅと一息吐いてから、リアトが面倒臭そうにぼそりと言った。
「操獣士を見つけなければならん」
「その必要はないですぜ、姐さん」男の声。
通路のむこうから、不意にラフィーが現れた。
その右手が手品を見せるように動き、物陰から引きずり出したのは一人の男。暗紫の貫頭衣を着た男だ。頸部からは濃い赤がぴゅっぴゅっと吹き出している。どう見たってこれが致命傷だ。操獣士はラフィーに喉首を掻っ切られたのだ。
男の首には、何かの入れ墨が彫られている様に見えた。
犬か、狼か。よく見えないけれど。
その死体とラフィーを交互に見てから、リアトが苛立たしげに舌打ちをした。ラフィーは自らの腰に下げた長短剣をちらりと見せると、にたっと笑った。不思議なことに今の彼は猫背でもなければ足を引き摺ってもいない。先程見せた弱弱しそうな姿は演技だったという事なのだろうか。男は、ひくひくと笑いながら近づいた。
「貸しですなぁ?」
「お前が情報を流したのだろう」
「へへへ。人聞きの悪いことを仰らないでくだせぇ」
「この男は何処の手だ」
リアトはラフィーを問い詰める。女にとって、この男は昔からちっとも変わっていないように思われた。自らの益になると考えれば、格上でも容赦はしない。自分が置かれている状況を無数の要素から的確に判断する力と、彼自身に最高の結果をもたらす手段を取るという、その悪辣で有用すぎる精神は衰えていないようだった。永遠の忠誠を誓われても信頼できないが、リアトはそれでも、男を高く買っている。
ラフィーが金貨を取り出して指先で弾いた。
「金貨からするとトルポールですが、操獣士なんてあの国には縁のない話ですからねぇ。まぁただの孤れ傭兵『平原の狗』の連中だと思いやすけど。褒賞金目当てで姐さんを狙ってきたんじゃねぇですかい。どうせまだヴェルトヴァンの組合に手配されてんでしょ」ラフィーはあざわらうかのように言った。
「可能性はある」受け取った金貨を眺めながらリアトが言った。
「えと、師匠って手配書きをされてるんですか?」
驚きの話だった。このままエルトリアムに入ったら傭兵に捕縛されてしまうかもしれない。リアトは、冷静に見えてとても我儘な人だ。だからもし向こうで機嫌を損ねたらめちゃくちゃ困る。最悪の場合には自分まで手配されてしまうかもしれない。
「それって、大丈夫なんですか?」少女がおどおどと尋ねた。
「エルトリアムは真交流の街だ」リアトが言った。
それは確かにその通りだ。エルトリアムには傭兵はほとんどいないと噂ではそう聞いていた。だが、たとえ街に傭兵がおらず、組合に捕縛されないとしても、自分の師匠が罪人として手配されているということは快い事態ではない。いやむしろ、真交流には守られる理由とはなんだ。イルファンは好奇心と不信を半々にして尋ねた。
「あの、師匠ってなんで手配されてるんですか?」
「大した理由ではない」
「いや、それは師匠にとっては大した話じゃないんだと思いますけど、」
「けど……なんだ?」
「あ、や、その」
じろりとリアトに睨まれて言葉がつっかえる。
なにかを言おうとするが、形にならない。
「おっとおっと。話の途中で悪ぃが、つうワケで、頼まれてたモンですぜ」
と、その言葉を断ち切るようにラフィーが言った。想像していたよりも濁りの無い眼が少女の方を見る。それで彼女は理解した。いまのは目配せだ。師匠が手配されている理由には触れない方が良いのだろう。イルファンは取り敢えず聞かないことにした。いずれ知ることになるだろうから、別に今でなくても構わない話だろう。
「ラフィー。助かる。駄賃だ」
リアトも話を捨て置いて、ラフィーに応えた。
彼女は大きな布袋に入った何かを手早く受け取る。そして代わりに金貨を数枚渡した。ちらりと見たところ、袋には魔術用品や保存食料、その他諸々の旅具が詰まっているようだ。予定を延長して寄り道でもするのだろうか。とはいえ出立の時とは違って、四日分の食料や雑貨にしてはやけに多いように思われた。量も、金額も。
「中身が気になるかい? 嬢ちゃん」ラフィーがおどけた様に言った。
「まぁ。多すぎるじゃんって思っただけだけど」
「ひどい言葉づかいだ」
「あっそ。私、そういうの好きじゃないから。敬語とか使えないの」
「そんなことを誇らしげに言われてもねぇ」
だがそう言われても、相手を敬う言葉づかいなどまっぴらごめんだった。それは昔のことだ。リアトがたまたま留守にしていたとき、本道場から客が来たことがあった。そいつはノーラン皇国の弱小貴族の末男だった。肥満体を晒しており、帯剣もしていない剣術士崩れの男で靈気も薄弱。だが男はリアトが居ないと知るや、護衛と共にイルファンを罵った。苛立ちをイルファンにぶつけたのだ。その時、少女は汚いぼろを着ていた。腐れ山犬、浮浪児、卑賤民、などとひどく言われたのである。
イルファンは師匠の名誉を守るために男らの罵詈雑言にしばらくの間だけ耐えたが、結局、怒りは抑えきれなかった。彼女は男に懇切丁寧に文句を付けた。敬語を心掛けた。だがそれに対して男は「獣が言葉を使うな」と言ったのだ。即座にイルファンは男らを道場から蹴り出して、そのまま、ローレッドの山道に捨てた。つまり、彼女はこのことから教訓を得た。無礼な人間に敬語を使っても、それは相手を調子に乗らせるだけなのだ。敬語で話したから、相手が礼を尽くすわけではない。
「わたし、敬語は立派な人にしか使わないから」
「あっしは立派じゃねぇと?」
「嫌いじゃない。でも信用はできない」
もっとも眼前のラフィーは、奇妙な得体の知れなさはあるけれども、男のなかでは比較的ましな部類なのだろうとは思われた。おそらく邪悪ではない。しかし、だからといって信用するほどに、イルファンは能天気で幸せな少女でもない。邪悪であろうがなかろうが、人はいざというときには何をするか、分からないのだ。
ラフィーは信用されていないことを知って、それでも笑い続けて言った。
「あのねぇ、あの中には昔からの頼まれモンが入ってるのさぁ」
「昔からの?」好奇心を剥き出しに、少女が問う。
「そうそう。あっしがまだ傭兵だった頃からの付き合いさ。姉さんは無骨で不愛想な武芸者に見えて、本当はそうじゃないんでさぁ。あのリアト姐さんは実は、」
ラフィーの笑みがいよいよ大きくなる。
「おい」リアトが低い声で言った。
怒気が、リアトからラフィーに向けられていた。
師匠の右手が素早く背中の剣へ伸びている。
どうやらこの話は禁句のようだった。
ラフィーはわざとらしく頭を掻いて、けけけと笑う。
してやったりという感じである。
一体、あの袋には何が入っているのだろうか。
リアトが口を開く前に、男は左足を素早く下げて右手を胸元につけると深々と頭を下げた。ラフィーはまるで王族にするような宮廷挨拶――それは不抜の意思を示す――を即座に見せたのだ。その仕草に面食らってリアトの動きが一瞬だけ止まってしまう。それを逃さずにラフィーは口を開いた。そして不敵にもにやりと笑った。
「こりゃ口が滑りましたぁ。じゃあ、あっしはこれで」
「ちっ」
またもや軽く舌打ちをして、リアトは男を睨みつける。
「茶目っ気は嫌いではないが、どうしようもなく厄介だ。舌を切り取ってやろうか。忠誠を誓った相手をこの手で殺すことはできんが、舌くらいなら切れるのだぞ」
「ひぇ。姐さん勘弁してくだせぇな」
ラフィーが大げさに震える。
今にも逃げ出しそうな素振りだった。
「あ、ラフィー! 師匠のこと、また教えてね!」
「イルファン……」
と、喉元に突き付けられる剣気に少女は震えた。
軽く手刀を向けられたに過ぎない。だのに、身体が動かなかった。
ぴりぴりと痺れるような気配が全身にじんわりと纏わりついていた。
これは師匠が苛ついた時だと瞬時に察知する。
「す、すみませんでした」
「嬢ちゃん。もっと姐さんの話が聞きたかったらあっしをお呼びなせぇ。何処に居たって馳せ参じてやらぁよ。こいつは贈り物さ、受け取りなぁ。けけけけ」
「ラフィー、貴様殺すぞ」
軽口に対してリアトが一歩足を踏み込む。
剣が振られる。
だが次の瞬間には、ラフィーは溶けるように消えてしまった。
同時に掌大の鋼板が飛んでくる。イルファンは驚きながらも受け取った。どうやら、あの男の錬度は思っていた以上のものであるようだった。ほんの遊びとはいえ、リアトの剣を避けるなど簡単に出来ることではない。凄まじい手練れだった。
「師匠、あの人って……」
「強いぞ。今のお前では手も足も出ないだろう」
そうは見えないが、リアトが言うのならそうなのだろう。
イルファンは外見で男を侮ってしまったことを恥じた。
そして、手のなかの道具に目を移す。
「これ、なんでしょうか」少女が問うた。
「『簡易端末』だな。術式板を張り合わせた代物で、連絡用に傭兵が用いるものだ。高位のものとは違って『記述樹』には接続できんだろうが、十分に使い物になる。それに奴の手製ならただの端末ではあるまい」リアトが言った。
渡された鋼板は、高価そうな術式具だった。表には硝子板がはめ込まれており、裏には幾何学模様がびっしりと描いてある。この手の術式陣の読み方はよく知らない。だがおそらく、遠距離の二点を繋いで合図を送る物だろうと思われた。端末にはラフィーの名も刻みこまれていた。困った時は連絡しろという事だろうか。
「有効範囲ってあるんですかね」
「魔力はそれなりに持っていかれるかもしれんが、ラフィーの通信網なら皇国内全土で通用するはずだ。驚くべきことに、あいつは連絡網を至るところに張り巡らせているからな。それがあいつの最大の武器と言ってもいいだろう」
少女は目を丸くした。
「それって私に渡しちゃってもいいんですか?」
「随分、気に入られたようだな」
呆れたようにリアトが言った。
どうやらそうらしい、とイルファンも思った。
「まぁいい。ふざけた奴らのせいでこんな時間になってしまった。イルファン、明日はまた忙しくなる。さっさと風呂支度をして床についておけ。遅くまで起きていると『深魔』に魅入られるかもしれんぞ。あいつの話ではないが、ここも一応は迷宮だと認識されているのだ。あれら相手では、私がいても安全は保障できんからな」
リアトは廊下の死体を手早く片付けながら扉を開けた。
まだそれほど遅い時間ではないが、イルファンは手早く軽食を腹に入れると、服を脱いで浴室へと入る。リアトがその様子をじっと見つめていることに、少女は気付かない。扉が閉じられて姿が見えなくなると、リアトはようやく嘆息した。
イルファンが何であるのかを知る者は少ない。しかし、ラフィーは『琥珀髪』を見たというのに顔色一つ変えなかった。それはいかなる理由からなのか。ひょっとすると、既に敵の手が及んでいることも有り得た。
残念ながらラフィーは義理で動く人間ではない。
この部屋とて本当に安心できるのか。
気付かれる恐れよりもその心配が勝った。
リアトは集中する。
凄まじい量の靈気が一瞬だけ地上を駆け巡った。
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