第5話 平手打ちと呼び出し

 日曜日を一日挟んで月曜日、俺は一人、南校舎の五階と四階をつなぐ階段を登っていた。


 南校舎の六階には、準備室や教材室といった、普通に授業を受けているだけでは決して向かう必要のない教室が幾つも並んでいる。ゆえに、そのフロアーに足をみ入れる人間も同様に少ない。


 なのに、今まさに俺はそこに足を踏み入れようとしている。それはなぜか?


 事の始まりは、四時間目の授業が終了した直後の事。ちょうど教室を出ようとしていた俺を、教科担任が呼び止め、こう言った。

「昼食を取ってからでいいから、これを教材室に持っててくれないか?」と。


 何でもその教師は、今からすぐ出張に向かわないと行けないようで、授業で使った世界地図を返しに行く時間がないらしい。


 まったく。たまたま目に付いたからという理由だけで、そんな面倒を頼まないで欲しい。とはいえ、教師の頼み事をそうおいそれと断れるはずもなく……。


 六階に着くと、教室名を一つ一つ確認し、社会科教材室をさがす。お目当ての教室は、廊下の中央付近にあった。


 肩にかついでいた世界地図を、一旦、床に下ろし、扉を開ける。


 室内は薄暗く、また物が乱雑としていた。

 所詮、倉庫代わりなのだろう。掃除をした形跡は見当たらず、また換気すらされていないようだ。


 世界地図を適当なスペースに置き、足早に部屋を後にする。


 こんなほこりっぽい所に長居をしたら、それだけで体調を悪くしそうだ。


 扉を閉め、教室に帰ろうと足を踏み出した俺だったが、


「ん?」


 気になる物を見つけ、その足を止める。


 廊下の壁、今出てきた教材室の目の前に、扉二つ分の空間がぽっかりいていた。その先には階段があり、更にその先には鉄の扉が……。


 上? この学校は六階建て。つまり、ここが最上階のはずだが……。となると――


 扉の先に俄然がぜん興味がいた俺は、階段へと歩を進めた。


 鍵が掛かっているかもしれないという予想に反し、扉はノブをひねるとすんなり開いた。


 向こう側に開く扉。その先にあったのは、縦に長いコンクリートの大地と転落防止用のフェンス、そしてフェンス越しに広がる青空だった。


 とてもお世辞にも綺麗きれいとは言えない場所だったが、それでもこの景色は俺の言葉を奪う何かがあった。


 ドアノブから手を離し、屋上に足を踏み入れる。


 先程までは、教師から面倒事を言いつけられて不運だくらいに思っていたが、どうやらその結論は早計だったらしい。


 ガシャン、と背後で大き目な音がし、驚き、振り向く。


 ――眠り姫がそこにいた。


 出入り口の設置された建物、その脇に一脚のベンチが置かれており、そこに姫城先輩が座り眠っていた。眠る彼女の手元ではためく原稿のたばは今にも飛びそうで、見ているこちらに不安を覚えさせる。


 ……仕方ない。


 俺は嘆息しつつ、姫城ひめしろ先輩の眠るベンチに近付く。


「あの――」


 突然、姫城先輩の瞳が開いた。黒く綺麗な瞳に、俺の間抜けな顔が映っている。

 状況が理解出来ないのか、姫城先輩は固まっていた。


 見つめ合う二人。


「――ッ!」


 衝撃。そして、遅れて感じる痛みと熱。


 目の前には、ベンチから立ち上がった姫城先輩。その左手には原稿が握られており、右手は中途半端な形で宙に浮いていた。


 ほおを打たれたという事実に気付くまで、若干のラグがあった。

 熱がじわじわと頬全体に広がる。


「あ……」


 ようやく我に返ったらしく、姫城先輩の顔に表情が戻る。


 逃げるようにして、慌てて出口へと向かう姫城先輩と、それをただ茫然ぼうぜんと見送る俺。


 はっきりとしない意識の中、扉の閉まる音だけがやけ明瞭めいりょうに聞こえた。




 あの後、教室に戻った俺は、頬の赤みについて岡崎おかざきからたずねられた。


 当然といえば当然だ。教材を返しに行っただけのはずなのに、頬に赤みを作って帰ってくるなんて不自然きわまりない。


 しかし、本当の事など話せるはずがなく、俺は岡崎に曖昧あいまいな答えを返す他なかった。俺の誤魔化ごまかし方は明らかにおかしなものだったが、有りがたい事に岡崎はそれ以上詳しく事情を聞いてこようとはしなかった。


 そして、放課後。かばんを手に持ち、岡崎と一緒に教室を後にしようとしたその時、ピンポンパンポンと、校内放送をしらせる機械音が流れた。


「生徒の呼び出しを申し上げます。一年五組、城島きじまこう君。一年五組、城島孝君。至急、生徒会室までお越し下さい。もう一度繰り返します――」


 校内放送の終了と共に、まだ残っていたクラスメイト達が数人、俺の周りに集まってきた。


「おいおい、城島、何やったんだよ」

「教材室で物でも壊したか」

「知るか。悪い、岡崎。先帰っててくれ」


 前半をふざけたクラスの男子共に、後半を岡崎に言い、俺は急いで教室を出た。


 生徒会室に向かうまでの間、俺は呼び出しの理由を考えていた。

 思い浮かぶのは、屋上での出来事。


 まさか、あの事で何か処罰的な事でも受けるのだろうか。


 そんな不安を抱きつつも、待たせてはいけないと少し足早に廊下を進む。

 生徒会室は、北校舎の二階。職員室の向こう側にあった。


 一度深呼吸をしてから、扉をノックする。


「城島です」

「どうぞ」


 中から聞こえてきた返事は、おそらく岸本きしもと先輩のものだろう。


 俺は息を一つくと、扉に手を伸ばした。


「失礼します」


 室内には、生徒会の三人がそろっていた。全員の視線が俺に集まる。


 生徒会室というぐらいだから、もっと特別な内装をイメージしていたのだが、四脚の折りたたみ机に寄って作られた長方形はまるで会議室のそれのようだ。


 扉側の一脚を除く三脚の折り畳み机には、それぞれ一人ずつ生徒会役員が座っており、一番奥に姫城先輩、扉から見て右に岸本先輩、左に東雲しののめ先輩という座り位置だった。


「早かったな」


 岸本先輩が立ち上がり、俺の方に歩み寄ってくる。


「ここではなんなんで、隣の部屋に」

「……はい」


 岸本先輩に連れられ、俺が入ってきたのとは別の扉から生徒会室を後にする。


 気分は、判決を待つ被告人だった。


 生徒会室の隣は、生徒指導室。


 名前の通り、進路指導や素行の悪い生徒の指導に使う部屋だ。どうやら、生徒会室と繋がっているらしい。生徒会室同様、この部屋に入るのも初めてだ。


「座ってくれ」


 すすめられるまま、一脚の椅子いすに腰を下ろす。


 俺が座るのを見届けてから、岸本先輩も机を挟んで向かい側の椅子に腰を下ろした。


「今日君を呼んだのは、他でもない」


 岸本先輩の言葉に、俺の中で緊張が高まる。


「城島君。君、生徒会に入らないか?」

「……はい?」


 思ってもみなかった提案に、思わず変な声が出る。


「え? 俺はてっきり――」

「昼休み、生徒会長の寝込みを襲った件で呼び出されたと思ったか?」

「うっ!」


 やはり、知っていたか。


「冗談だ。静香しずかもそんな事は思っていない。むしろ、殴ってしまってすまない、と。打たれた頬は大丈夫か?」


 岸本先輩が机の上に体を乗り出し、俺の頬にれる。


「あー。少し赤くなってしまってるな。家に帰ったら、冷やした方がいいかもな」

「そんな。大丈夫です」


 打たれてすぐは赤くなっていたかもしれないが、五時間目と六時間目の中休みにトイレで見た限りでは、大分、目立たなくなっていた。


「そうか。なら、いいが。で、どうだ? 生徒会に入る事は、君にとっても悪い話ではないはずだ」

「なんで、俺なんですか?」

「今年、聖調せいちょう学園は男女共学となった」


 突然の話の展開に、一瞬話題が変わったのかと錯覚する。


「今まで女子校として長い歴史をほこってきた学園にとって、それは決して小さくない出来事だ。そこで、学園としては共学に変わった事を内外に大きくアピールしたいらしい。そして、その一貫として、男子生徒を一人生徒会に入れるという案が学園側から提案された」


 なんとなく、話の筋は見えてきた。


「ウチの学校では、生徒会役員を選ぶ時に選挙というものを行わない。生徒会役員の任命権は、生徒会長に一任されてる。つまり、提案された案を生徒会が受け入れたとして、その男子生徒を選ぶ権利は生徒会長と生徒会にあるという事だ。結果、生徒会は君を第一候補として選んだ」

「どうして、俺なんですか?」


 生徒会側の事情を知った上で、再度尋ねる。


「君には中学時代生徒会経験がある。そして、中学時代の内申も申し分ない。何より、君には華がある」

「華、ですか?」


 そんな事は言われたのは、生まれて初めてだ。


「生徒会は、学校の顔であり生徒の代表機関だ。歴史ある学校故の事かどうかは知らないが、少なからず、そういうものが求められてるらしい。……こんな事を、自分の口から言うのも何だが」


 そう言うと、岸本先輩は照れくさそうにそれでいて苦笑するように笑った。


「君を選んだ理由はそんなところだ。答えは急がないが、出来れば引き受けて欲しい。正直な話、君以外の他の候補は今のところ浮かんでいない。生徒会役員となると、誰でもいいというわけにはないからな」

「……分かりました。引き受けます」


 自分でも驚いた事に、そんな言葉が口をいて出た。


「……いいのか? 二・三日なら、返事を待つぞ」


 岸本先輩が、驚いた表情で俺を見る。


「待ってもらっても、状況は変わりませんから」

「そうか。ありがとう。そして、よろしく。城島君」

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