第41話
「取り敢えず…お茶でもどうですか?」
俺は冷蔵庫から麦茶を2つのコップに注ぎ、オリビアさんの前に差し出した。
すると今まで警戒するようにこちらを睨むだけだったオリビアさんが数分ぶりに口を開いた。
「なにか変なもの混ぜてないわよね?」
「そんな命知らずなことするわけないだろ」
たしかにここで毒を盛って口封じというのも手のひとつかもしれないが、その手はどう考えても悪手でしかない。
下着姿を拝見したうえに毒盛ったとあればいよいよ言い訳ができなくなる。
そんなリスキーを犯してまで口を封じるメリットはどこにもない。
そもそも普通は毒なんて持ってないし。
オリビアさんはそんな俺の言葉に警戒しつつも、やっぱり喉が乾いていたのかチビッと口を付けた。
「…ねえ、これ銘柄はなに?すごい甘いわね」
未知のものと遭遇したように目を見開いて硝子の器の中の茶色い液体を凝視するオリビアさん。
もしかして麦茶は人生初体験だったのだろうか?
「銘柄?いや普通に麦茶だよ」
っていうか麦茶に銘柄とかあるのか?
俺の場合スーパーで買ってくるペットボトルの麦茶しか飲まないけど。
「ムギチャ?なにそれ?そんなの教えてもらってないわ」
「なにって、書いて字の如く麦で作ったお茶だよ」
しかしお姫様はそれでは納得いかない様子だ。
「麦ってあれでしょ?ビールの原材料でしょう?それでお茶が作れるの?茶葉は使わないの?」
あぁそうか、オリビアさんの方では茶葉で淹れるのが普通なのか。
「茶葉を使うのは緑茶だな」
「リョクチャ…それなら教えてもらったわ!日本で1番ポピュラーなお茶よね」
「まあ日本茶とも言うくらいだからね。でも多分日本の家庭で1番飲まれてるのは麦茶だと思うよ」
特にアンケートを取ったわけではないけれど、安くて美味しい麦茶は庶民全員の味方だからな。
「ふーん、ムギチャね…。今度国で広めてみようかしら…」
なにやらブツブツと独言を言った後、オリビアさんはコップに両手を添えて液体をスーッと飲み干す。
そして恥ずかしげにそっぽを向きながら俺にコップ向けた。
「…も、もう一杯頂けるかしら?」
あの警戒心丸出しだったお姫様のそんな素直な言葉に、俺はまだ口を付けていない自分のコップを無言で差し出すのだった。
「それで、オリビアさん的には今回の婚約についてどう思ってるんだ?」
お茶を飲みお姫様もやや警戒心が薄らいだところで俺はそう切り出した。
「もちろん嫌に決まってるじゃない」
一瞬の迷いもない即答に俺は苦笑いしか出来なかった。
しかし婚約が望むところではないのはこちらも同じことだ。
そこで俺はひとつの提案を思いついた。
「…だったらこうしないか?俺は婚約を破棄する。その代わりそっちはさっきのことを綺麗さっぱり忘れて無かったことにする。お互いにいい落としどころだろ?」
これならオリビアさんはこの婚約から解放されて、俺は例の件で殺されることもなくなる。
まさにWin-Winな提案だ。
オリビアさんとしても断る理由はないはず。
しかしそんな俺の思惑は外れることになる。
「それは無理」
オリビアさんはキッパリと言い切った。
「無理ってなんでだよ?オリビアさんも俺との婚約は嫌なんだろ?」
「もちろん嫌よ。でもこれはお父様から受けた大事な使命なの。英雄・高宮紫苑の血筋を手に入れるっていうね」
なんだそれは?
使命ってそんなことのために俺なんかと婚約を結んだっていうのか?
もしそうだとしたらこんなにバカバカしい話はなかった。
「っていうかあなた、あたしとの婚約が嫌だとか何様のつもりよ。それにさっきからその口の利き方はなに?敬語を使いなさいよ」
「えぇ…」
今更そこキレるか?
なにも言わなかったからてっきり気にしてないのかと…。
「それじゃあ用件は済んだから帰る」
そう言ってスッと立ち上がろうとしたオリビアさんは、流れるようにゴンッと頭から崩れ落ちた。
痛そう…。
「あ、あなたやっぱりあのお茶になにか混ぜたわね!」
オリビアさんは足を押さえて涙目にこちらを睨む。
なるほど、足が痺れたのか。
「なにも混ぜない_____ませんって。長時間床に座ってるとそうなるんです」
「嘘よ!じゃあなんであなたは平気なのよ!」
「えっと…慣れ?」
「なにそれずるい!」
ずるいと言われましても…。
日本生活歴1日未満の人と生まれてから16年間ずっと日本に住んでる人とで慣れによる違いが出てくるのは当たり前だろうに。
結局立ち上がるのは諦めたようで、前屈をする時のように脚を伸ばして座った。
「っていうかあなた、あたしの事ばかり話させて自分のことはなにも話さないつもり?」
「いや…そんな話して面白い奴じゃないですよ?」
「自分のことをそうやって卑下するのは辞めなさい。そういう考え方は自分で自分の可能性を殺すことになるわよ」
なんか叱られた。
本当のこと言っただけなのに…。
「日本人はみんな謙虚だって聞いてたけど、もしかしてみんなあなたみたいな感じなの?」
「いやいや、俺を日本人代表みたいに見るのはやめてくださいよ」
「関係ないわよ。世の中いつどこで誰が見ているか分からないのよ?誰に見られても恥ずかしくないように普段から自分が日本の代表であるように振る舞うべきよ」
…流石は一国のお姫様といったところだろうか。
俺みたいな凡人とは違って意識が高い。
俺は先程足を痺れさせてズッコケたお姫様を脳裏に浮かべながらそう思った。
「ふぅ、足も治ったしそろそろ本当に帰るわ」
よっこいしょと腰を上げたオリビアさんはそう言って足音ひとつ立てずに玄関前で歩いた。
どうやら本当に足の痺れは治ったらしい。
そして玄関の扉を開けると何かを思い出したように首だけでこちらを振り返った。
「あ、それとお父様の言い付けで明日から毎日会いに来ないといけないからよろしく」
オリビアさんは俺の言葉を待つことなくそれだけ言い残して去って行ったのだった。
部屋に戻ると机の上のスマホに通知が来ていた。
椎葉からグループ全員に向けたメッセージだ。
正直今はなにもしたくない気分だったが、椎葉からのメッセージをスルーするのも申し訳ない気がして俺はノロノロとスマホに手を伸ばした。
『皆さまごきげんよう。例の件の日取りについてなのですが、夏休み最終週____つまり来週の月曜日から3泊4日というのは如何でしょうか?皆さまのご都合をお聞かせくださいませ』
『私は問題ないわ』
『俺もだ。高宮は?』
『俺も問題ないよ』
『承知しました。詳しい時間や持ち物などはまた別途お伝え致します。それでは皆さま体調にはお気を付けて』
椎葉がそう締めくくりやりとりが終わった。
俺はスマホを机に放り、ベッドへダイブしようとしたが、先程オリビアさんをここに寝かせたのを思い出し、ベッドのシーツを取り替えたのだった。
翌朝、連打されるインターホンの音で目を覚ました。
まだ昼前の時間に叩き起こされて当然ながら気分は最悪である。
しかし出て行くのも面倒で、俺は布団を頭から被って耳を塞ぐ。
それでも完全に音は遮断できず、俺の耳に延々と電子音が流れ込み続けていた。
流石に鬱陶しくなり、俺は布団を抜け出して部屋の鍵を開け、そっと扉を開けた。
果たしてそこにいたのは、気味が悪いほどに満面の笑みを浮かべた梓と、妙にビクビクと怯えたオリビアさんだった。
どうして2人が一緒にいるのか?どこでどう知り合ったのか?などと疑問に思うけれど、少なくともこの様子から察するに簡単に終わりそうな雰囲気ではない。
だから無言のままドアをそっと閉めた。
「ちょっ!兄さん!なんで閉めるんですか!」
ガンガンガンとヤクザの取り立てのように激しく戸を叩く梓。
「絶対なんか面倒なことになるのは目に見えてるんだよ!帰れ!」
「嫌です。兄さんにはいろいろ聞きたいことがあるんですから!」
「俺には梓に言うことはなにもない!近所迷惑だから頼むから帰ってくれ」
しかし俺の懇願は叶わず梓に諦める気配は微塵もない。
果てにはいよいよ最終手段まで取り出してきた。
「この手段だけはなるべく使いたくはなかったんですが、こうなったらしかたありません、合鍵を使うしかないですね」
「いやいやいや!なんでそうなるんだよ!」
止める間も無くガチャッと鍵が開き、慌ててチェーンロックをかけるとその直後ドアが勢い良く引かれた。
ガシャンと音を立てながら十数センチだけ開いたドアの向こうに悔しそうな梓の顔が見えた。
「なにチェーンロックかけてるんですか!」
「お前が合鍵で強行突破しようとするからだろ!っていうか詳しい話が聞きたいなら父さんに聞けばいいだろ?俺だって詳しく把握してるわけじゃないんだよ!」
「そのお父さんに繋がらないから兄さんのところに来てるんじゃないですか!いきなり家に外国美人さんがお父さんからの手紙を持ってホームステイにやって来て、しかも兄さんの婚約者だって言われたわたしの気持ちが分かりますか!?流石のわたしも頭がパンクしますよ!」
そうか、どうして2人が一緒にいるのかとは思ったけど、実家にホームステイしていたのか。納得。
「まあ気持ちは分からないでもないけど、話ならあとでちゃんとするから今は取り敢えず帰ってくれ」
「またそうやって話を先送りにして!そうやって有耶無耶にしようとしているのは分かってるんですから!もういい加減観念してください!」
くそっ、流石は実の妹だ。
兄の企むことなんてお見通しか。
「なにをやってるの?こんな朝から」
それはいつのまにか部屋から出てきていたお隣さんの声だった。
「兄妹喧嘩もいいけど、もう少し声を抑えないと流石に近所迷惑だよ」
「「すみません」」
俺と梓は声を揃えて謝った。
「取り敢えず中で話そう?」
森守の正論に押された俺は無言のままにチェーンロックを外して3人を部屋に招き入れたのだった。
「で、梓はなにを俺から聞きたいんだ?」
「全部です。兄さんの知ってる限りの情報を全て要求します」
そう言う梓の顔をじっと見つめた後、そのまま視線をスライドさせてオリビアさんへ移す。
しかしオリビアさんは昨日とは別人のように目を閉じたまま息を潜めるように正座していた。
「…オリビアさんからはなにも聞かなかったのか?」
「もちろん教えてもらいましたよ?いろいろと…ね、オリビアさん」
「___っ!…はい」
梓ににこっと微笑みかけられたオリビアさんは少しだけ肩を震わせたが、表情は一切崩さずにポツリと呟くように答えた。
昨日のオリビアさんの勝気な様子を知っているからこそ、この豹変ぶりに戸惑いを覚える。
一体あのあとなにをされたのだろうか…。
「それで兄さんはどうするつもりなんですか?このままオリビアさんとの婚約を受け入れるつもりなんですか?」
「婚約?」
『婚約』という単語を聞いた途端に今の今まで聞くに徹していた森守が聞き返した。
「那由くん那由くん、婚約ってどういうこと?ねぇどういうこと?」
「怖っ!?無表情でにじり寄って来るな!普通に恐怖しかないわ!だいたい婚約って言っても別にまだ確定したわけじゃない」
「…えっ?そうなんですか?オリビアさんの言い様ですとてっきり確定したものだと思ってました」
「当たり前だろ、よく知りもしない相手といきなり婚約だなんて言われて納得するもんか」
しかもその相手が王女様なんてもう面倒ごとの臭いしかしない。
「ある程度したらもう一回父さんに話してみるつもりでいるから、しばらくは婚約者(仮)ってことで適当にやっていくつもりだ」
「つまり今の時点で兄さんにはその気は全くないってことですね?」
「ない」
梓の確認に即答で答えると、梓は取り敢えず納得したようにテーブルに乗り出していた身体を引っ込めた。
「っていうかなんで梓がそこまで必死になってるんだよ?梓には関係ないだろ」
「ぅえっ!?そ、それは…そう!璃子のいない間に兄さんに彼女が出来たなんてことがあったら合わせる顔がないからで…あっ」
俺の微妙な顔を見て思い出したように声を漏らした梓は、右へ左へ視線を彷徨わせたあとにポツリと謝った。
しかし梓が璃子のためにここまで必死になるなんてな…。
本当に仲良くなったよな。最初は今にも掴みかからんばかりの喧嘩してたのに。
「まあそういうわけだから、俺の婚約者っていうのは考えずにしばらくオリビアさんと仲良くしてやってくれ。頼むぞ梓」
「…はぁい」
明らかに不服そうな声で梓が返事を返した。
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