第25話

わたしにはお兄ちゃんだけだった。

両親に売られて奴隷なんて身分に身を落としたわたしを救ってくれたお父さん。

そんなわたしを我が子のように迎えてくれたお母さん。

2人とも滅多に会うことは出来ないけれど、2人のことは大好きだしすごく感謝している。

でもわたしにとってお兄ちゃんは特別だった。

この知り合いもいない、言葉もまともに通じない異国の地で唯一頼れる存在。

唯一の味方だったお兄ちゃん。

当時のことはわたし自身薄っすらとしか覚えていないけれど、お兄ちゃんはわたしにとってヒーローで初恋の男の人だった。

その想いは昔からずっと薄れることなく、濃く強くなっていった。

少しでもお兄ちゃんの気を引けるようにと考えて行動してきたし、お兄ちゃんの口では嫌がっていたけれど、そんなわたしを本気で突き放すようなことはしなかった。

そんな何気ない時間がわたしのとって多分1番幸せだった。

でもが全てを壊して攫っていった。

わたしが何年も掛けて積み上げてきた物をあの女は我が物顏で壊していった。

だからわたしはあの女が大嫌いだった。





「璃子?こんなところで膝なんか抱えちゃってどうしたの?」


声に璃子がはっと顔を上げると、そこには璃子の顔を覗き込む梓の姿。

好奇心に溢れたその表情は、璃子の顔を見るや心配の色に変わっていった。


「本当にどうしたの?なんか酷い顔してるよ?っていうかお兄ちゃんは?今日はお兄ちゃんと一緒じゃなかったの?」


キョロキョロと辺りを見渡す梓。

「今日はお兄ちゃんと一緒に文化祭を回るの!」と梓は昨晩璃子から嫌という程に自慢を聞かされていた。

しかしこの場に兄の姿はなかった。


「ねぇ、どうしたの?」


梓は璃子の隣に腰を落としてとにかく優しい口調を心がける。

昨日のウザったいほどのテンションだった璃子がここまで落ち込むなんてきっとただ事ではないと梓は直感で察していたからだ。

そんな梓につられて璃子は先ほどあった出来事を梓に言って聞かせた。

兄が自分との約束を放って違う女と一緒にいたこと、その女がかつて兄を棄てた女だということ、そして『兄妹だから』と言う理由で兄に振られたこと。

話出せば決壊したダムのように恨み辛みが零れ落ちていく。

時には酷く野蛮で聞くに耐えない言葉が飛び出すが、そんな璃子の感情の爆発を梓はあくまで優しく頷いて受け止めた。

それというのもこの梓自身、以前に同じような気持ちを抱いた事があったからだろう。

兄のことが好きで、それが故に単身アメリカへ離された時、梓も同じように憤った。

しかし、おかげで気付くこともあったのだ。

梓はフッと過去の未熟な自分を笑い、かつての自分と璃子を重ねた。


「璃子って兄さんのことをどう思ってるの?」


「どうって…好きに決まってるじゃん。」


「うん、それは知ってる。でもそうじゃなくて、璃子は兄さんの事を『お兄ちゃん』として好きなのか、それとも『幼馴染』として好きなのかって事」


「…?」


いまいちピンとこなかった璃子は梓の言葉に首を傾げる。

璃子にとって那由他は兄であってそれ以外の何者でもない。

故に梓の言うことの意味を理解出来ていないのだ。

そんな様子に梓は両手で顔を覆う。

璃子と那由他は兄妹であると同時に血の繋がらない男と女。

兄妹という枠を取り払ってしまえば2人は幼い頃から一緒の『幼馴染』なのである。

もしも璃子が『幼馴染』として那由他を慕っていたのならば、璃子が抱く感情は間違いなく『恋』であると言える。

しかし、もしも『兄』として慕っていたとするのならばそれは『恋』ではなく『ブラザーコンプレックス』でしかなのである。


「…その反応だとなんだね」


「なにひとりで納得してるの?」


「ううん、なんでもないよ」


訝しげな璃子に誤魔化して梓は首を振った。

「お前のそれは『恋』ではなくただの『依存』でしかない」なんてことを絶賛傷心中である璃子にわざわざ突き付ける必要はないと判断したからだ。

しかし今の状況はあまりよろしくない。

このままでは今までとなにも変わらず、璃子は自らの心の中にあるものを『恋』だと勘違いしたままになってしまう。

そこで梓は璃子にひとつの提案をした。


「ねえ璃子______」


梓のあまりに突飛な提案に璃子は目を大きく見開いた。

だが、話を聞いていく内にその表情は悩むようなものに変わっていく。

そして話が終わる頃には_______。


「うん…考えてみる」


梓の提示した提案を前向きの検討しようと思う璃子だった。





自らの仕事から解放された真代はひとりで文化祭を見て回っていた。

特になにを買うでもするでもなく、目的もないままに校舎の中をぐるぐると練り歩くだけ。

時々なにかを探すように立ち止まって周囲を見渡すが、結局見つからなかったのか再び歩き始める。

そんな事をかれこれ1時間と続けていた。

その頭の中にあるのはつい数時間前の出来事。

特に璃子の自分を憎むような表情がいつまで経っても頭から剥がれなかった。


(随分と憎まれてしまったものね…)


マイナスから始まった関係だったが、それでも一時期は本当の姉妹のように仲の良かった時もあったが、今となっては最初に戻ったどころかより一層関係は悪化してしまった。

しかし真代は璃子が自分を恨むのも仕方がないと思っている。

の那由他の事を彼女も少しは知っていた。

まるで廃人になってしまったかのように生きながら死んでいるようなものだったと。

どんなに仲が良くても自分の愛して止まない兄をそんな風にした相手を恨まないわけがないだろう。

だが、彼女は璃子に恨まれる事こそを自らの咎との証としていた。


「真代さん」


そんな真代を背後から呼ぶ声。

億劫に思いながら振り返ると、椎葉が一緒にいた辻野を置いて駆け寄ってきていた。


「どうかした?」


げんなりとした表情を椎葉に向ける真代。

残念ながらそこに自覚はない。


「それはこちらのセリフですわ。真代さんこそ人生に絶望して今にも空に身を投げ出してしまいそうな顔をしていますわよ?」


「やけに具体的ね…」


「そう思うくらいには真代の様子がおかしいって事だ」


あとから追いついてきた辻野もまた椎葉に同意する。


「もしかして高宮と何かあったか?」


辻野の頭に浮かんだ人物は自身の親友でもある、しかし最近は何故かなにかと避けられているクラスメイトの男の姿。

真代が落ち込むんだり怒ったりする場合の大抵は高宮という男が絡んでいることが多いと辻野も椎葉も知っていた。


「いいえ、高宮くん特になにもないわ。少し話してそれで終わりよ」


それはつまり『高宮くん』以外とはなにかあったと言っているようなものであるが、2人はそれ以上突っ込まない。

それ以上に2人にとっては真代が高宮と話をしたことに対して強い興味を引かれたためだ。


「高宮は俺たちについて何か言ってたか?」


「残念ながら彼の口から出てくるのは女装に対しての文句だけだったわ」


「そうか…」


実のところ真代はどうして高宮が辻野たちを避けるのか、その理由に既に心当たりがあった。

といってもあくまで彼女なりの想像の域を出ないが、それでも9割近い確率で合っていると確信している。

なにしろ高宮那由他という男がどういう男なのかを真代以上に熟知している人間は他にいないのだから。

それでも敢えて2人になにも言わないのかといえば、それはあくまで高宮自身が言わなければ意味がないと思っているからである。


「ほんっとにどうしちまったんだよ?夏休み に海に行った時までは普通だったじゃねぇかよ」


ギリッと歯軋りして辻野は拳に力を入れる。

そして爪が手のひらに食い込んで血が滲んだその手を壁に叩きつけた。


「正敏、物に当たるのは止しなさいな。みっともない」


「んだとコラ?」


「わたくしは事実を述べたまでですわ」


ツンと辻野にそっぽを向いた椎葉は、あの夏での出来事を思い出していた。

もしかしたら…と椎葉には思うところがあった。


(もしもが原因だったとしたら…?)


椎葉の頭に残るのは、自らの衝動を抑え切れず思わず誘惑紛いな事をしたあの瞬間。

あの時は『冗談』で誤魔化したけれど、椎葉にとってはあの時が高宮とまともに話した最後の時だった。

それだけに椎葉の中でその説はどんどん説得力を増していくのだった。


「椎葉さん?」


「えっ?」


「大丈夫?上の空だったようだけど」


「えぇ、少し考え事をしていただけですから」


椎葉は無理矢理に笑顔を作って誤魔化した。


「まあとにかく引き続き私の方でもそれとなく探ってみるわ」


真代はそう言って2人を一旦納得させると、一緒に回らないかという椎葉の誘いを断り再び1人で歩き始める。

しかしその頭の中には未だに巨大な渦が渦巻いたままだった。

そしてそれぞれの胸に深く刺さった棘を残したまま、いよいよ波乱の文化祭が終わろうとしていた。






学園長の閉会の言葉をもってとうとう文化祭が終わった。

祭りの後というのはいつだって胸に穴が空いたかのように虚しい気分になる。

俺はクラスの楽しげな雰囲気に馴染めず、生徒会の手伝いが残っていると嘘を吐いてクラスを抜け出した。

璃子は今頃なにをしているだろうか?

正直家に帰って顔を合わせるのが気不味い。

いつもは早く終わってほしくて仕方のない学校が、今日だけは永遠に終わらないで欲しかった。


「高宮くん」


そこにやって来たのはやはりと言うべきか真代だった。

俺の脱走を見咎めて追って来たのか、それとも俺に何か話しがあるのか。

まあ真代がこのタイミングで話すことなんてひとつしか思い浮かばないか。


「璃子のことか?」


「…あなたのその無駄な時だけ鋭いところ嫌いだわ」


真代は否定しない。

つまりはそういうことだ。


「あの後あの子とは?」


「話してない。今は俺も璃子も頭を冷やすべきだと思うし」


「そう」


短く言うと真代が俺の隣に腰を下ろした。


「汚れるぞ」


「別に気にしないわ。どっちにしろそろそろ寒くなってきたからクリーニングに出そうかと思ってたもの」


っていうことはまだ夏用のスカートだったのかよ。


「それで、どうするの?」


「どうするって?」


「分かってて惚けないでちょうだい。あなたが鈍感だけど馬鹿ではないのは知ってるの」


確かに誤魔化そうとはしたけど、それを瞬時に見抜く真代は一体何者なんだよ?

俺は仕方なく観念しすることにした。


「どうするって言われてもどうもしようがないだろう?俺たちは『兄妹』だぞ?」


「でも血は繋がっていない」


「それでも『兄妹』だ」


そう、血は繋がっていなくても俺は璃子のことを『妹』だと考えているし、それ以上に考えてはいけない。

それが俺を信じて璃子を任せてくれたに唯一報いる方法なんだから。

だから_______。


「それでも『兄妹』なんだよ」


自分に言い聞かせるようにもう一度繰り返す。


「璃子も今の冬で13歳になる。正直さ、年々女の子っぽく成長していく璃子を見てると嬉しく思う反面すごく怖くなるんだよ」


「怖い?どうして?」


「いつか俺が璃子を『妹』としてじゃなく『女の子』として見てしまいそうで怖いんだ」


「別に血が繋がっているわけじゃないのだからそれは仕方のないことじゃないのかしら?まあ最低だとは思うけど」


「あぁそうさ、最低だ。『好き』でもないのに『依存心』に付け込んで自分の性欲の捌け口にするなんてことは絶対にやってはいけない。それは『兄』として以前に『人』として最低だ」


「うわぁ…あなた自分の『妹』を性欲の対象として見ていたの?」


真代の視線が性犯罪者を見るようなものに変わる。

とても悲しい誤解がここに生じていた。


「いやいや、見てないから。見てないからな!?」


偶に溜まってる時は見そうになるけど、まだ『おかず』にもしていないしセーフと言えるだろう。

言える…よな?


「…」


真代はしばし怪しむような視線を向けるが、やがてその視線を地面に向けた。


「それにしても『依存心』…ね」


「あぁ、昔にお前の言ったことだ」


「『『恋』を解体バラすと独占欲と依存心に分離する』だったかしら。こんな痛々しい言葉を平気で他人に言う私もどうかと思うけれど、それを今でも大事に覚えているあなたもどうかしているわ」


「お前俺の信条全否定かよ」


「元は私の言葉なのだからいいじゃない。っていうか自分の言葉を信条にまでされると流石に引くわ…」


すすっと尻をズラして俺から僅かに真代が俺から距離を取る。

当然冗談であることは分かりきっていたが、「この野郎」と怒ったフリをする。

相手のことをちゃんと分かっているからこその軽口の言い合いだ。

きっと俺の周囲にいる人間で真代が1番俺のことを深く理解している。

それだけに真代と話しているのは心地よく、だからこそ恐ろしい。

それは璃子へと抱いている恐怖とは全く別のものだ。

俺は俺の中に眠っている真代への『想い』に再び火が付いてしまいそうなことが、再び真代を『』し『』したくなってしまうことが恐ろしかった。

だから万が一にそうなる前に俺は真代にある提案をすることにした。


「なあ真代」


「なにかしら高宮くん」


「俺たちしばらく距離を置かないか?」


俺の言葉に真代は目を丸くして、2、3度パチパチと瞬きをすると、口をへの字に曲げた。


「まるで終わりかけのカップルのようなことを言うのね」


「俺も自分で言ってそう思った。でも割と本気で言ってる」


ジッと真代が俺の瞳を見つめる。

まるでそこから俺の頭の中を覗き込んで俺の心の中を読み取ろうとしているようだ。

だが不思議と不快さは感じなかった。


「それはあの子のため?」


真代が俺の瞳を見つめたまま問う。


「…そうだ」


冬の青空のように澄み渡った瞳に貫かれながら俺はなんとか本音を隠して答えた。

その答えになにを感じたのか真代はフッと馬鹿にするように笑い言う。


「妹を優先して友達を蔑ろにするだなんて益々シスコン野郎ね」


「全く、その通りだな」


そんな真代に俺は肩を竦めた。


「______まあそういうことにしておいてあげる」


「…?なんか言ったか?」


「別になにも言ってないわ。いいわよ、あなたの提案に乗ってあげる。校舎も学年も別だからと私も少し油断してた。しばらくあの子が落ち着くまでは不要な接触を避けた方が良さそうね」


「そう…だな」


俺がなにも言わなくても真代が勝手にそれらしい理屈を並び立ててくれる。

流石は真代だ。


「それじゃあ私はもう行くわ。これからクラスで打ち上げ会があるから」


案の定俺にその連絡はない。

あんな思いまでしてクラスのために貢献してやったというのに…。

まあ別にいいけど。

別にいいけど!


すくっと立ち上がった真代はスカートに着いた土をポンポンと払い落とすと、俺に背を向けて手をヒラヒラとさせた。


今度はあなたの方から声をかけなさい」


いろいろって_____さっきボソリと言った件についてもやっぱり真代には隠し事は出来そうにないようだ。


「あ、そうだ」


そのまま格好良く去って行くと思われた真代はなぜかそう言って足を止めた。

そして振り返ってビシッと俺に白く長い人差し指を指す。


「辻野くんと椎葉さんには今は適当に誤魔化しておいてあげるから、その内ちゃんとしなさいよ?そのままフェードアウトは絶対に許さないから」


そう言い残して髪を翻すと、今度こそそのまま行ってしまった。


もうすぐ日が暮れる。

楽しい祭りは終わりを告げて、また辛く苦しい退屈な現実がやって来る。

俺は先ほど真代がそうしていたように地面に腰を下ろして秋の夕空をしばしひとりで眺めるのだった。

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