(9)

 安久あく 美乃梨みのり

 岳と同じ中学校に通っていた女子高生。

 岳と中学時代に付き合っていた女子生徒。

 その関係は、中学の段階で既に破綻しているものだと彼も思っていた。

 しかし、彼女はとんでもない事を口にした。


「みのりたちって、まだ付き合ってるよね?」


 彼女の言葉に不快感を示したのは、岳だけではなかった。横にいた真琴も眉をひそめる。

 彼女がそれを本気で言っているのか、冗談で言っているのか。岳には分かっていた。


 安久は冗談を本気で言っている。


 その言葉によって誰かが不快に思おうが、傷ついてしまおうが、彼女は構わず、自分だけが愉しめればそれで良いと思っている。

 だから、この発言によって岳と真琴の関係が壊れようとも気にしない。むしろ、壊れていく過程をこの眼で見たいとさえ、安久は思っているだろう。


 彼女はいつも、何かを壊すことを愉しんでいた。


 真琴との距離感を掴みかけていたところに、それを破壊する為に現れた安久美乃梨。

 また、彼女の手でぐちゃぐちゃにされるのかと思うと、岳の胸は締め付けられ、苦しくなっていく。

 それに追い打ちをかけるように、現状を理解できていないであろう真琴が口を開く。


「だんまりはどうなの、ツバキくん?」


 彼女の言う通りで、言われっぱなしでは安久のやりたいようにされるだけである。

 それに、あの時も、何も声を上げなかったせいで、状況が悪い方向へと進んでいった節がある。

 そうならない為に、彼女は彼に発言の機会を与えたのかもしれないが、中学時代の彼のことを彼女は知らない。

 ただ、彼自身の口から真意を聞き出したいのだろう。

 彼女を納得させるのに十分な言葉にはならないかもしれない。

 それでも、彼は自分の言葉で、今思っている事を率直に伝えた。


「安久さんとの関係は中学校で終わったはずだよ。もう付き合ってもいないし、本音を言うと顔も見たくない。だから、僕たちの前からさっさと消えてくれないかな?」


 思っていた以上の辛辣な言葉が口から飛び出して、岳自身も相当驚いていたのだが、聞いていた女子二人は彼の比ではないくらい驚愕していた。

 数秒間の沈黙が三人を包み込み、この空気をどうすればいいのか、岳は思案する。

 何も出てこないまま、時は過ぎていく。

 そして、何を思ったのか、彼の横にいた真琴が噴き出すように笑い出した。

 彼女のこんなにも可笑しい様子を見たことがなかった彼は困惑する。

 そんな彼女につられるように安久まで笑い出した折には、彼はただ突っ立っている事しかできない。

 女子二人が自分の目の前で笑っている理由が全く理解できず、きょとんとした表情でその様子を傍観する。


 ――二人とも、なんで笑ってるの……? そんなにおかしかったか……?


 二人にとって可笑しい事が起きたのは間違いないが、それを突き止めるまでには至っていない。

 自分だけが完全に取り残され、二人が笑い続ける状況に、岳が少し呆れてきた時だった。

 段々と笑いの収まってきた真琴が口を開く。


「ツバキくんにここまでのことを言わせるなんて……フフッ。あなた相当ヒドイことしたのねえ……」

「アハハ! ホントにね! みのりにゾッコンだった時期もあったから、少しだけ期待してたんだけどなー……ざーんねーん。がっくんは“まことちゃん”に夢中みたいだね!」


 真琴は彼女と親しそうに会話しながら、ゆっくりと彼女の隣へと移動していく。

 彼女が岳の方へと視線を滑らせると、彼は訝しげな表情で二人を見ていた。

 仲の良い様子の彼女と元彼女に違和感を覚えていた。

 二人は初対面のはずで、それなのに、安久は真琴の事をこう呼んだ。


「真琴ちゃん……?」

「うん? なに? いきなり私のことちゃん付けで呼んでどうしたの、ツバキくん? チャラ男にでもなったの?」


 安久の口から出てきた呼び名をそのまま繰り返しただけで、真琴を呼んだつもりは岳にはなかった。

 本当に自分が呼ばれたと思って、彼女が反応したのかというとそうではない。

 彼女は彼に意地悪をする為にそんな反応をしているのだ。

 話がややこしくなる上に、構わないわけにもいかず、岳は一つ一つ対処していく。


「真琴さんを呼んだんじゃなくて、今のは安久さんのを繰り返しただけだから……! 安久さんが真琴さんのことをどう呼ぼうと、僕には関係ない話ではあるんだけど……それより、僕が気になってるのは――」

「――どうして、みのりがまことちゃんのこと知ってるのか、ってことでしょう?」


 割り込んできた安久に、言いたかった事をそのまま言われてしまい、岳は頷くしかない。

 それを質問するのが分かっているなら、初めから説明してくれれば良かったものを、と彼は思うが、彼女らが素直に教えてくれるかどうかは甚だ疑問だ。というか、多分ないだろう。

 疑問に思った内容を彼女が言ったという事は、今から説明してくれるのだろうと、岳は安久の言葉に耳を傾ける。


「実はね、まことちゃんとみのりは今日が初対面じゃあないんだよねー。会ったのは、今週の初めくらいだったかな? 友達経由で連絡が来たの」

「彼女の言う通り、私から連絡を取って、彼女とは既に会っていた。ツバキくんに黙ってたことは謝るわ。ごめんなさい。でも、ツバキくんも彼女と色々あったこと隠してたんだからお互い様よね?」


 自分には内緒で安久と連絡を取り、面会していたという事実に、岳は少しがっかりしていた。

 同時に、中学時代のいざこざを隠していたのも事実で、彼女の行動を咎める事はできないとも思った。


「じゃあ真琴さんは、僕の中学時代のことを安久さんから聞いたってこと……?」


 岳の尋ねかけに真琴は首を横に振った後、それを補足するように話し出す。


「詳しくは聞いてないの。ただ、酷いことをした、とだけ。彼女は申し訳なさそうに言ってたわ」

「ちょっとー! それはちゃんと、みのりの口から言わせてよー!」


 対面していた真琴と岳の間に割り込んできた安久は、岳を一心に見つめる。

 そして、自らの頭を深く下げた。


「がっくん、ごめんなさい。中学の時のことを許してほしいなんてことは言わない。多分、許してもらえないだろうから……だから、悪く思ってるってことだけでも伝えさせて」


 彼女の口から飛び出した謝罪の言葉に、彼はこれが夢なのではないかと疑い始めた。


 ――なんで謝られたんだ……?


 彼女は彼を壊す事を愉しんでいた。それを彼女は何も悪いとは思っていなかったはずだ。

 それを今になって、謝ってきたという事実を、彼はすぐには受け入れられない。

 試しにと、彼は手の甲の皮を力いっぱいつねってみたが、皮だからかあまり痛みは感じられないようだった。

 しょうがないとばかりに岳は、頬を抓った。思わず、声が出てしまいそうなくらいの痛みに顔を歪める。


「じゃあ! みのりが言いたかったのはそれだけだから! がっくんもまことちゃんも元気でねー!」


 手を振りながら、その場を離れていく安久は、嵐のように過ぎ去っていった。

 真琴との関係をズタボロに壊しに来たのかと思っていたが、何事もなく、逆に謝られるという結果に岳は動揺していた。

 苦しんできたものの全てが一言で済まされてしまい、まだ消化しきれていない何かが彼の中に残っている。


「このために、安久さんを……呼んでくれたの……?」

「どうでしょう? このために呼んだってわけではないかもね。それに呼んだのは、私かもしれないし、私じゃない他の誰かかもしれない……まあ、こんなこと曖昧にしてもしょうがないから本当のこと言うと、両方とも、よ。でも、そんなことはどうでも良くて。ねえ、ツバキくん、彼女に謝られてどうだった? スッキリした?」


 岳は考えるまでもなく、それに答えられたが、口を閉ざした。

 自らの中にあった安久に対する怒りや憎しみ、悲しみや苦しみ。そのすべてがまだ残っている。

 言葉だけじゃない何かを求めているからそうなっているのか、何をされたとしても残ったままなのか。

 その答えを彼女は分かったように言葉を続ける。


「無理だよね。消えてくれないよね。私のもきっとそう。誰かに何をされたとしても、一生消えてくれないんだよ。だから、ツバキくんも、私を救おうだなんて思わないで。ただ、ツバキくんは、私に殺されてくれればそれでいいの――――ね?」


 同意を求めるような彼女の言葉に、彼は何も反応を見せなかった。

 自分を救える者は誰もいない。

 彼女はそう言いたかったのだろうと思うと同時に、岳は反論できなかった。

 真琴の発言は、岳を突き放しているようにも聞こえたが、岳に救ってほしいと思っているようにも聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る