放課後、僕は彼女に誘われた。

 ――放課後、僕は彼女に誘われた。


 三年前。中学二年生の秋。

 昼にはまだ夏の暑さが残っているが、夕方には段々と涼しくなっていき、夜には肌寒くさえ感じる。

 秋の様相が見え始めていたそんな季節に、椿本岳は、部活動の練習もほったらかして、学校を飛び出していった。

 その目的は、“当時”好いていた彼女と会う為だ。


 今日の昼休みに、学校とは少し距離のある小さな公園へと彼女に誘いを受けた。


『放課後、公園で待ってるから。その気があるなら、がっくんの言葉で教えて』


 つまり、付き合う気があるのなら、その場所で彼女からではなく、岳の方から告白してくれ、とのことだ。

 夏休みに、夏祭りや花火を彼女と見に行ったことが、ここで実を結んだか、と彼は胸を躍らせた。


 岳のクラスのホームルームが長引いたせいで、彼女を待たせてしまっている。 

 だから、一刻も早く向かわなければと、彼は急いで公園に向かっていた。


 やっとの思いで着いた公園で、彼女は独りでにブランコに座っていた。

 手に何かを握った彼女は、じっとそれを見つめていた。

 彼女の元に駆け寄った岳は、息を切らしながら、目の前に立って、間髪入れずに言葉を放つ。


安久あくさん! 僕と付き合ってください!」

「うん! よろしくね、がっくん!」


 彼女はブランコから地面に降り立つと、快く頷いた。手に持っていた何かを地面に捨てて。

 二人の周りには鮮やかなピンク色のコスモスの花が咲いていた。

 

 これから経験するであろう彼女との青春の日々に岳も期待していた。

 そんな日々が本当に待っているのか、心配になるような出来事は、二人が付き合い始めて数日ほどでやってくる。




「椿本ぉー。お前さあ、安久さんのこと振ったんだって?」


 クラスの男子生徒から、こんなことを聞かれた。

 確かに、岳は公園で安久に告白した。が、彼女からではなく、岳の方から告白したのだから、振るのは彼女である。

 彼の話では立場が逆になっている上に、二人はきちんと付き合っている。

 全く身に覚えのないことだったので、岳は否定の動作でそれに応えた。

 すると、その男子は訝しげな表情をしながら、話を続ける。


「は? でも、安久さんが言ってたぞ。お前に告白したら振られたって、泣きそうな顔してた」


 安久から聞いたと言ってはいるが、内容は出鱈目だ。

 多分、学年でも人気な彼女と付き合い始めた自分に嫉妬しているから、そんなことを言っているのだろうと、岳は彼の言葉を無視する。

 数日前のあの公園で、岳は安久に告白した。

 その時のことを彼は鮮明に覚えているし、彼女も忘れるはずがないだろう。

 それでも、彼女の口から聞いたという情報が彼を不安にさせている。

 放課後、ちゃんと確かめようと思ったその時、もう一人、彼らの話に割り込んでくる人物が現れる。


「何言ってんだよ。俺が聞いたのは、椿本に告白されたけど、安久さんから振ったって話だったぞ? だから今、落ち込んでんのは椿本の方だろ?」


 近くで話を聞いていたクラスメイトがそう口を挟んできた。

 どちらの話も岳と安久は付き合っていないという事に変わりはないが、そこに至るまでの過程が異なっている。


「それは誰から聞いたの?」

「安久本人だけど……? まあ、どっちにしろ付き合ってないんだろ?」


 先ほどの対話を見ていなかったのかと責め立てるかのように、岳は激しく首を横に振った。

 情報元は二人とも同じ、安久美乃梨みのり


 確かめないわけにもいかず、部活が終わってから一緒に帰るようになった時に、彼女に尋ねる。

 彼女は申し訳なさそうな顔をして、普通に答えた。


「ごめんね。がっくんと付き合ってるって知られるのがなんかこう……恥ずかしくって、嘘ついちゃった。明日、皆にはみのりからちゃんと言っとくね。だから、心配しないで?」


 彼女のその言葉を信じた岳はそれ以上の追及はしなかった。

 自分の前では可愛らしい彼女のことが好きだった。そして、彼女もそうだと思っていた。

 しかし、それからも岳は、あらぬ噂を何度も耳にすることとなる。



 ある人が言うには、岳は安久と付き合いながら、他の中学校の女子生徒とも付き合っている。

 ある人が言うには、岳は安久に対して頻繁に暴力を振るっている。

 ある人が言うには、岳は安久からお金をむしり取っている。

 岳は安久に刃物を向けて、脅迫のようなことした。

 岳は彼女を殺そうとした。

 彼は彼女を階段から突き落とした。

 彼は彼女を多くの車が行き交う道路に突き飛ばした。



 段々とその内容がエスカレートしていく中、周囲からの白い目に耐えられなくなった彼は、学校でもトイレに閉じ籠ることが増えた。

 学校に居場所のなくなった彼の心の拠り所となっていたのは、安久美乃梨だった。

 噂話を流しているのは、彼女だと分かっていた。それでも岳は彼女から離れようとはしなかった。

 何故なら岳の前では、安久は普通の恋人だったから。


 二人が付き合い始めて半年が過ぎた頃、見かねた田辺が放課後、岳に声を掛ける。


「おーい、ガク。部活終わったら一緒に帰ろうぜ。ちっと話したいことあんだ」


 岳と安久の交際が始まってから、部活動も含めた学校生活が忙しく、また気を遣って一緒に帰ることのなくなった田辺。

 久々に岳と帰路を共にして、話をしようと思ったのだった。

 勿論、岳に関する噂話は耳にしてはいたものの、田辺自身はそれを端から信じてはいない。

 また、彼の周りでもその信用度は段々と下がってきており、適当に聞き流している者がほとんどだった。


 部活が終わって、約束通り、岳と田辺は、一緒に帰ることとなった。

 噂話を信じていないことを伝えた上で、田辺は岳を諭すように言う。


「もう、別れた方がいいって。ガクも苦しいだけだろ?」

「でも、僕の前では普通なんだ。どれだけ僕の悪評を垂れ流そうとも、彼女は普通だ……それに最近、みのりは周りから嘘つき呼ばわりされてるらしい。そんな彼女を放って別れろって? 僕にはムリだ。僕にもみのりが……みのりにも必要なんだよ、僕が……」


 完全に岳は安久に依存している状態だった。

 このままでは、絶対に自分の助言を聞き入れてはくれないだろうと思った田辺は、深いため息を吐く。

 どうすれば、岳が苦しまないで済むのか。今の状態が彼にとっては幸せなのではないか。

 いろいろ考えたが、田辺は彼を説得する為の言葉を紡ぐ。


「分かったよ。じゃあ、これだけでも彼女に確認してくれよ。なんで噂話を流し続けたのか。それと、本当にお前のことが好きなのか。どうせ聞いたことないんだろ? それを聞いた上で、このままその関係を続けるならそうしろよ」


 田辺の言う通りだった。

 岳は安久に付き合い始めた頃にクラスメイトから言われたことを尋ねて以来、嘘を流布する理由を問いただしたことはなかった。

 そして、自分に対する好意も同様に確認していなかった。

 田辺はまるで、安久が岳のことを好いていないかのような口ぶりで言ったが、岳はそれを聞いても何も思わなかった。

 怒りも悲しみもなく、ただ、妙に何かが引っかかるような気がしていた。





 ――放課後、僕は彼女を誘った。


 放課後、彼女との交際が始まった公園に、今度は岳の方から彼女を誘った。

 彼女と同様にブランコに乗って待っていると、花壇に咲いたチューリップが目に入る。

 あの時は確か、コスモスが咲いていたかと思い起こしていると、笑顔で近づいてくる彼女の姿を捉えた。

 丸くて大きな目をキラキラさせた明るい感じのいつも通りの彼女。

 その雰囲気に流される前がいいだろうと、岳は簡潔に彼女へと質問を投げかける。


「どうして、僕を貶めるような嘘を広め続けたの……?」


 それを聞いた瞬間、その場の空気が一変した。

 最初は少し驚いた様子だった彼女だが、すぐにこの時を待っていたかのように冷静で、冷たい雰囲気が彼女の周りから溢れ出る。

 表情は笑顔のままで、彼女はその回答を口にする。


「がっくんがみのりのせいで苦しんでるのは知ってたよ。でも、みのりたちの関係が変わることはなかったよね? なら、それでいいんじゃないかな? がっくんはみのりと付き合えて、みのりはがっくんが壊れていくのを愉しめる――――」


 彼女の本音は衝撃的な発言だったにもかかわらず、聞いていた岳は驚くことはなく、ただ納得していた。だから、彼女は自分を苦しめるような嘘を流し続けていたんだ、と。

 田辺から聞けと言われた質問も、続けて口から出てくる。


「最初から僕が好きじゃなかったってこと……?」

「いいや。好きだよ? 壊れていくがっくんがものすごく好きなの」


 笑顔で話す彼女は狂っていて、それに付き合っていた自分も狂っていたことに岳は気づいた。

 そして、それはこの公園で告白した時からだったことを思い出す。

 彼女はあの時、ブランコに座って何かをしていた。


 ――ああ。そうか……あれは――――


 彼女の足元に散らばった無数のピンク色の花びら。その存在に今になって気が付いた。


 ――コスモスだったのか……


 彼女はコスモスを千切って、いとまな時間を潰していたのだった。

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