村上春樹「〜多崎つくる〜」からの。(2)
「事実は小説より奇なり」
という言葉がある。
あまりに言われ過ぎてきた言葉だけど、これは私にとっては常に実感として意識してる真実であり、日常的にちょいちょい実感し直してさえいることだ。と同時に、小説家にとってはジレンマとなる難しい部分なんだろうなとも思わされる言葉だ。
たとえば、小説や映画を見て「こんな偶然ある?」っていう感想がよく聞かれるけど、実際「偶然」はある。
なので、そういう感想に出会うと「こんな奇跡的な偶然が起こったので、その話を聞いてほしい」というスタンスで作品が生まれることだってあるんじゃないの? と、私は考える。
あるいは、都合の良い設定について。
まずは、根底に「こういうことが言いたい」というテーマがあって、そのための舞台装置としてのキャラ設定や状況設定があってもいいのではないか、と、私は考える。
はたまた、村上春樹の会話文の特徴である、ある人たちにとっては持って回った言い方、回りくどい、理屈っぽいなどなどと感じさせるしゃべり方。これを否定したら、私のような春樹ファンにとっては、もはや「いわゆる村上春樹」じゃなくなる。
地の文もそうだ。続けて何作も読んでると、ファンでさえも「いささかお腹いっぱい」に感じたりもする、やれやれな春樹節(笑)。でも、それがいいんだよ〜。あぁ、村上春樹だなぁ。って、ファンはそれに浸りたいし、そこにこそ魅力を感じるわけで。
そもそも、春樹さんが海外、特にアメリカの現代文学を翻訳していて、その影響を受けてることをベースに考えれば、春樹作品らしい会話スタイルや節回しを否定することは、村上春樹自体(の作家としての存在)を否定することになるのでは??
小説における「余計な説明」に至っては、誰にとって余計なのか?って問題で、もし私がそう感じたとしたら、自分は作家が小説全体で言わんとしてることを受け取れてないのかもしれないとか、この先の展開との符号に気づけてないのかもしれないとか、そんなふうに思う(少なくともプロとして実績のある作家の作品なら)。
百歩譲っても、どうしてこの「余計」と思えるようなくだりを付け加えたのだろうって考えたりはする。
そして、やっぱり最後には、村上春樹がシューベルトのソナタについて言っていた言葉に行き着くのだ。
「ただ、そう書きたいからそう書いた」。作家のその自由意志を否定してもしょうがない。作品は作品として、もうそこにあり、手に取るかどうかは読者の自由だ。
もちろん、褒めるかけなすかも自由ではある。でも、根本的な部分を否定するのは、家族友人とのおしゃべりのネタ止まりでいいんじゃないかな。
「あんなヤツ、おらんやろ〜」
「リアルの俺とは違うから、共感できなかった」
「あんなしゃべり方するヤツいたら、友だちになりたくない」
「あの話、正味半分で終わる話じゃん」
そんな感じの個人的なおしゃべりで十分だろうと、私は思う。
百歩譲ってどうしてもレビューとして書きたいなら、「この作品は、XXXXがキライな私には合わなかった」「私はOOOOなのが好きなので、この作品の〜〜なところが好きじゃなかった」という感じになるだろうか。
実際、その人個人の好みなどはどうでもいいのだけど、最低限、批判する根拠を示すのがフェアというか、基準みたいなものを踏まえて初めてレビューに「適切さ」を持たせられるのではないかと思うのです。
じゃないと、ただの個人的な「文句」「不満」「要求」「言いがかり」で終わってしまう気がする。
まあ、レビューや感想も、「ただそう書きたいから(思ったから)そう書いた」と言われてしまったら、それまでなのだけど。。。
※アマ○ンレビューには、もちろん、批判的であっても適切に書かれたレビューもたくさんあったことを申し添えます。
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