村上春樹とシューベルト

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別のサイトに、今回のタイトルに関連するエッセイをバラバラに書きました。2010年に「1」を、2012年に「2」を。それより前の2009年に「3」を。

それらをまとめて、「読む」の個人史の一環として加筆修正して転載します。

3には2の結論が出てくるので、ついでに載せましたが、「読む」とはあまり関係ない、音楽の話です。長いので、結論に興味のない方はスルーで。

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村上春樹がシューベルトについて語っていると誰かが言ってるのをどっかで読んだ。


この時、村上春樹は評論本の中で語っているとばかり思っていた(確かに、そんなような評論本もあるらしいけど、未入手)のだけど、なんと、『海辺のカフカ』にも、登場人物がシューベルトを語っている場面がありました!

昨日、電車で読んでいて、いきなりその場面がやって来たもんで、感動しながら読みふけっていたら、危うく降りる駅をのがすところで…ドア閉まる寸前に駆け降りました。。。


それにしても、村上春樹の語る音楽、いや、音楽に限らず、村上春樹が何かを語ると、どうしてこんなに深くしみてくるんだろう。まるで、実地に味わってるような気分になる。

観察眼の鋭さと、それを言葉にするのに見合うだけの感受性の奥行きと広さがあるってことなのか?


こういうのが小説にも深みを与えているし、この感受性あっての、あの作品群なのだろうと思います。そして、作家としての表現センスがあるから、評論も「読ませる」ものになるのだろう。


がぜん、くだんのシューベルト ピアノソナタ ニ長調が聴きたくなったので(退屈と評された音楽が聴きたくなるとは!!これが、村上評論マジック?)、ネットで調べてみたら、第17番らしい。しかも、オンラインショップの紹介文によると、村上春樹が語ったので、急に人気(?)が上がって、品薄みたいな??

おそるべし。。。



今ついに、村上春樹氏の『意味がなければスイングはない』を読んでいる。


これは音楽エッセイなのだけど、春樹さんが音楽を語ると、まったく知らない曲であっても、演奏家であっても、輪郭がくっきりと浮かび上がり、「聴いてみたくなる」のではなく、読んだこちらが思い描いた音楽が実際どんなもんか「確かめたくなる」感じなのだ。それに、まるで文学を読んでるみたいに味わい深い。


以前、彼が「退屈」と書いたために売れて品薄になった曲もあった(シューベルトのソナタ)と記憶してる。今、これから読む項目の中にそれがある。とっても楽しみ。


だって、「退屈」と評されて、それが売れるようになるなんて、ほかに誰がそんな逆宣伝みたいな芸当ができるのだ!?

もはや、コワいもの見たさの域を越えて、聴くことで「春樹さんと同じ感覚を共有したい」というコアな春樹(音楽評論)ファンがいるとしか思えないじゃないですか。


自分が演奏できなくても、こんなふうに音楽を語り、音楽に興味を持たせ、ファンをも増やしちゃってるかもしれないなんて、すごい才能だ。まったくもって、うらやましい。。。



ちょっと前のことだったか、音楽評論家らしき人がシューベルトについて書いてるのが、ふと目に留まった(ちょっと探しただけでは見つからなかったのだけど、たぶん、新聞か?)。


なんで目に留まったかというと、おそらく「村上春樹」という文字があったから。

その執筆者は、村上春樹がシューベルトについて語った文章を読んで、膝ポンだったと書いていた。


執筆者によると、シューベルトのピアノソナタは、クラシックの中ではあまり好まれていないらしい。長くて、じれったくて、退屈などと書いていたように思う。

執筆者も好んで聴くシューベルトのソナタ曲があるけど、そんな自分でも、前述の批評に同意できる由。


そこで私も、シューベルトについて思い巡らせてみた。


父が時々、交響曲第8番「未完成」を聴いていた。(私も好き)。

「野ばら」の愛らしさ。

「楽興の時」(自分も3番を弾いていた)、「即興曲」(op.90の3曲目が好きで、練習しかけた)。

「ます」「冬の旅」(のすばらしさ)。

30ちょっとと短命。かわいそうな人。

子供のころに読んだ伝記のおかげか、一人物としてもけっこう馴染みがある。


でも、確かにシューベルトのソナタってどんなんだっけ?

そこらへんのリサイタルでも演奏される機会が少ないのか、思い浮かばない。


つまり、シューベルトと言えば、何はなくとも「未完成」とすばらしい歌曲たちなのだ。

それで十分なので、ウケのよろしくない作品があるなんて、全然知らなかった。


話を戻して、この執筆者は、村上春樹の見解の何に膝ポンだったかというと、春樹さんは、まさにこのような実績のあるシューベルトが、どうしてそのような(不評な)ピアノソナタを書いたのかについて悩んだ(?)あげく、一つの結論に達した。

それは、なんと、「ただ、そういう曲が書きたかったから」!!


結論も結論だが、それに膝ポンする方もする方じゃあ、ありませんか。。。


ズルッとなったあとに、しかしこれは、とても深いと思った。

つまり、音楽が、時として作曲家のメシのタネであり、名声の道具であり…と考えると、自分の表現欲のおもむくままに奔放に曲を作るなんてことは、そんなに多くないのかもしれない。てことは、作りたいものを作りたいように作る。というのは、贅沢な、自分だけの趣味、楽しみ、あるいは実験だったりするのかもしれない。


私自身が何かの曲を弾いてる時、「ここがこの音になってるのが、どーも理解できない」「なぜこうしたの、フランツ?(心中でこう問いかける時は、必ずファーストネームになる)」「当時の流行だったの?」「実験なの?」「世の中に対する反抗なの?」みたいに思うことが、時々ある。

そういうのはすべて、作曲家が「そう書きたかったから」で解決するのだ。いや、まじめな話。


小説を読む時、そのようなものを書いた作家の、生い立ちや思想や生き方など、背景を知りたいと思うことがある。

この評論の執筆者が締めていたように、曲というのも、作曲家の思いが形になったもの、彼が生きた音そのものだとすれば、こちらはひたすら傾聴することで、その一瞬、ただ(作曲家と)いっしょにその音を生きればいいのだ、と、なるわけです。。。


※お断り:この執筆者(名前も出典もわからず、ごめんなさい)の文章は、シューベルトの話を枕に、もっと別の話(芸術に関する)をメインに書いてました。

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