「誰にも言えなかったこと」をカク。
また、時系列の個人史からははずれた内容を差し挟みます。
というのも、この連休に飛行機の中などでヒマに任せて、チラッとカクヨムのエッセイを徘徊したりした際、心や体に病気やハンデをお持ちの方々がその心情を吐露するようなものを書いているのに、たまたまいくつか行き当たり、思うところがあったので。
前話で少し書いたけれど、私が「物を書く」ことを志したのは、いま思えば「言葉」の持つ響きや魔力に魅入られたのと、言葉から生み出される自分だけのイメージの世界に浸るのが好きだった(童話、絵本、児童文学)というのが最初に来て、さらには言葉をいじるのが好きになった(詩など)ということから必然的に「書く」ことに結びついていったというのが一つ。
そして、「小説家になる」などと言って物議を醸したあたり(後述)では、「書かずにはいられない」ことが明確に自分の中にできていたからだった。
自分でも持て余すほどの長過ぎる思春期(?)の複雑な心の内。それと、母との確執。
そういうものを抱えて、身内のことを書くなんて人の道に反しているのではないかと本気で悩み、結局は日記に書く程度で何とかやり過ごしていた。
そんな中、中沢けいさんの「海を感じる時」を読んで、身内のことを書くのもありなんだと勝手に解釈し、「書いてやる書いてやる」と呪文のように唱えては鬱憤を晴らしていた。
かくして、唱えているうちに時間だけが過ぎて、もう執筆にあてるような時間も気力もない社会人生活に突入。結局は書いていない。
何が言いたいかと言うと、趣味でお話を書くことは好きだったけど、いわゆる「小説」どうだバーン!みたいな形で発表できるような物を書く才能も身体能力(?)もなかったのではないかと、いまは思ってます。
ただ、おそらくは自分を保つために、鬱積したものを吐き出したり、心や頭の中を整理したりするのに、文字、言葉にするということが当時の私には必要だったのかもしれない、と。
あのころ、カクヨムみたいな場があればよかったのかなぁ。
病気やその他のハンデなどなどについて、思いや伝えたいことを書いてらっしゃる投稿を見て、そんなことを思いました。
その方々には、それを言葉にすることが必要、あるいは、言葉にして伝えることがとても意味のあることなのだろうと共感した次第です。
前回の続きの個人史で書こうと思っていたのだけど、忘れもしない高校3年の進路相談で突然「進学しません、小説家になります」と暴言(?)を吐き、その後、担任から電話で学校に呼び出された親が「お宅の娘さん、地に足つけさせてください」と言われた…という逸話を持つわたくしとしては、世が世ならば、あのような恥ずかしいことは言わなかったに違いない、せめてブログシステムというものでもあればぁぁぁ、と、今でも穴があったら入りたい、なければ掘ってでも入りたい心持ちがいたします。
ホントにそうなんですよ、原稿用紙にちまちま書き上げて、出版されるかどうかみたいな新たなハードルをこしらえなくとも、ここにササッと書いて応援がもらえたりすると、誰かには伝わった、共感してもらえたとダイレクトにわかる。
どうしてもっと遅く生まれなかったのか、私。
あ、そしたら、うちの母の元に生まれてなかった? としたら、書くべきこともなかったのか??
実は、「母について」も一つのテーマとして、別エッセイを起こそうと思ってました。いろいろ濃過ぎて、一番うまく書けなさそうなテーマだけど。
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