第3話 スタンダロン・パーソン
サキは目を覚ますと、顔の横にあったスマートフォンを手にし、配達の依頼が入っているのを確認した。それにはまだ1時間はあるので、しばらくベッドにだらりと横になって、血圧が上がるのを待った。もう少ししないと起き上がるのは無理。
むくり。
ゆらゆらと歩いて、鏡の前に座った。
血の気のない青白い顔が向こうに見えた。
痩せぎすでぎょろりとした目を瞬かせ、茶色がかった灰色の瞳を一回りさせる。
「今日も、生きた人間には見えないですね」
サキは、鏡の向こうの蝋細工のような青白い自分に話しかけた。
Tシャツを着て顔を洗い、櫛を持って鏡の前に戻った。
毛が細くて灰色に見える黒髪。寝癖を丁寧に梳いて、肩で切り揃えた髪の乱れを除き、より人工的に見えるようにした。顔は、目の周りに控えめにシェーディング。口紅はただのグロス。
アンドロイドが社会に広まるにつれ、その美しい容姿を真似てみようとする若者が増えた。あえて血の気のないように化粧をする。ぎこちない動きを真似する。人工的な声のトーンを真似する。
アンドロイドは進歩して人間に近づき、人工物のイメージを払拭し、寝起きの人間よりよほど人間らしい活きた表情を見せるようになった。
それを真似する娘たちは、それでもまだ、いかに自分の顔から生気をなくすかに腐心していた。
――当社の配達員は全員人間です――
これが謳い文句の食事宅配サービス、HMD。その配達員がサキのアルバイトだった。好きな時間に登録すれば、それに見合った仕事が割り振られる。いつも仕事が来るわけではないが、生活のためより、半ば暇つぶしと思っていたサキには、これぐらいのペースのほうがちょうどいいと思えた。
細身のパンツにカーディガンを羽織り、スニーカーを履いて外へ。軽量ヘルメットを頭に載せ、リュックを背負い、クロスバイクにまたがってさっそうと街へ駆け出した。
コンクリート造の10階建てのマンション。その脇の駐輪場にクロスバイクを止め、右足をさっと回して立った。
オートロックの扉の前で、スマートフォンに示された配達先の番号を押した。
「は、はい……」
歳をとった男の声がした。
「HMDです。お届けに上がりました」
「どうぞ!」
こころなしかはずんだ声が返ってきて、扉がすっと開いた。
エレベーターで目的階へ。届け先の部屋の前でひざまずき、リュックを前に置いて中を開けた。
「いやあ、お姉さん、キレイだね!」
呼び鈴を押そうとしたとき、先にドアが開いて、白髪と白い顎髭の老人が顔を出した。
「お食事です。どうぞ」
「ありがとう……」
リュックの中身を手に立ち上がったサキから、老人はそれを受け取ると、しばらく黙って、サキの顔を見つめた。
「…………」
「何か?」
サキは笑顔を作って、老人に訊いた。
「お嬢さん、写真を何枚か撮ってもいいですか?」
老人の肩から高そうな一眼のカメラがぶらさがっていた。
「あー」
「うん?」
「すみません。そういうのは事務所から止められているんです。もしよろしければ、事務所を通して発注してみてください」
使い慣れた営業用の声でそう答えると、ウエストバッグからモデル事務所の連絡先が入った名刺を出して老人に渡した。こちらがサキの本業だった。サキぐらいの年齢の女性ではそれほど珍しい職業ではない。それほど売れている事務所でもモデルでもないので、こうしてアルバイトをしている日々だった。
「お一人様で申し込みされますと、少しお高く感じるかもしれません。グループでの撮影会なども歓迎しますよ。ぜひご検討ください♡」
「グループで……。なるほどー。『サキ』ちゃんだね。覚えておくよ」
目を細め、手を伸ばして遠くに置きながら名刺を眺めて、老人は言った。
名刺とサキの顔を交互に見て、目をパチクリする老人が面白くて、サキは笑い顔で老人の耳に口を寄せた。
『ヌードもありますよ♡』
「!」
白髪の下で、肌が少し紅潮したように見えた。
「じゃあ、お仕事お待ちしていますね!」
老人の動きが止まった隙に、サキはさっと離れると、リュックを背負い、ぺこりと頭を下げた。そして、背中を向けてスタスタと歩いた。
ふふっ
なぜか笑いがこぼれた。
ふふふふっ
このバイトがモデル業の宣伝になるなんて。
本当に発注してくれるかなんて分からない。ヌードなんて依頼来たこともない。だけど、男の下心がいいぐあいに自分の仕事に結びつくなんて、なんだかゲームみたいで楽しかった。
別の日。
別のマンション。
お昼時に、また同じように自転車を止め、オートロックの扉の前で部屋番号を呼び出した。
「どうぞ」
平日の昼間だというのに若い男の声。今どき会社員でも在宅勤務など珍しくもないが。そういう人はむしろ自分で料理したりするので、そんなに食事の配達は頼まない。HMDは配達を全部人間がやるから、サービスとしては割高で、日常的に頼む人も限られている。
エレベーターを降りて該当する部屋の前へ。リュックをおろして左手で抱き、サキは呼び鈴を押した。
「はーい」
細いフレームのメガネをかけ、細い顎にいくらか髭が残る、30いくつの男が顔を出した。
「HMDです。お食事を届けに参りました」
「はい、確かに」
「ありがとうございます」
荷物を渡し、頭を下げ、さあ帰ろうと思ったところ、マジマジと自分を見つめる男の顔に気づいた。
「…………」
「あの…、何か?」
サキは怪訝そうに問いかけた。
「HMDって確か…」
「ああ、はい、配達員は全員人間です」
「本当に?」
「本当ですよ」
「いやあ……。でも、僕らの情報だと、そう言いながら、『コネクテッド・パーソン』が使役されてるって、聞いてるんだ」
「そうなんですか」
「『そうなんですか』じゃなく、僕はいまその現実に直面しているわけだが」
「!」
流行りに乗ってアンドロイドメイクをしているサキ。HMDを頼んだのに、顔立ちは整っているが、生気のない女の子が運んできて、「え、あなた人間?」と言われたことがないわけではない。
それでもだいたい秒速で、なりすましだと分かってもらえる。
今どきのアンドロイドはむしろ血の気がいい。いかにもアンドロイドです、というのは少ない。むしろ、マスターの方がコスプレまがいの衣装を着させて、そっちでアンドロイドらしさが醸し出されたりする。
「貴女があくせく働いて、貴女の稼ぎを、何もしない人間が搾取するわけだね」
「いえ、私が働いたお金は私が受け取ります」
「なるほど、よくできたリアクションだ。そんな受け答えをするように指示されているんだ」
「ええー><;」
「貴女の容姿、話し声、身のこなし。僕なら分かる」
「まあそれは、ありがとうございます、だけど」
「僕は、『コネクテッド・パーソン』の尊厳を守りたいんだ。もしよければ、このまま僕のところに逃げ込んでもいい」
「えええ?」
「僕らのグループはいつでも貴女のような方を受け入れる準備ができている」
「そ、そうなんですか」
「それか、これを渡すから、後で連絡してくれないか」
男は食事を玄関の奥に置くと、名刺入れを手に戻り、サキに中の1枚を渡した。
「私も、アンドロイドの人が壊されたとか聞くと可哀相だな、って思うときもありますが…」
名刺に書かれた文字列を眺めながら、サキはそう言った。
「どう? もうマスターのところに戻らなくてもいいんだよ」
「そうですねえ…」
「ほら、君がもしマスターから何か性的なことをされていたりなんか……」
サキは不意に素早く動き、男の頬に顔を寄せた。そして、その頬に唇で触れた。
「………!」
突然の出来事に、男はしばらく動きが固まった。
「ごめんね♡ あたし、スタンダロン・パーソンなの」
体をさっと翻し、そう言葉を残すと、軽やかな足取りでサキは男の部屋の前から立ち去った。
アンドロイドは唾液がない。唇がつややかに潤っているように見えても、そういう仕上げをしてあるだけで、衛生上の観点から口の中は乾燥している。
「ドライマウス」というのが、口の病的な状態のことではなく、アンドロイドを表す隠語となって久しい。対義語の「ウエットマウス」が人間だ。
目をパチクリさせながら、頬に手を当て、信じられないというように唾液の感触を確認している男の顔を、エレベーターの中でサキは思い出した。
「逆に、あの人の部屋に入ってみたらもっと面白かったかな?」
はたして、実際に逃げ込んだアンドロイドがいたのか。サキはそれがちょっと気になった。
「でも実際はナンパだったりしたら、やばいな」
マンションの前から自転車で駆け出すと、適当な歌を口ずさみながら、風の中をサキは走っていった。
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