老人
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彼は、窓際で分厚い本を静かにめくっていた。何度も読んだ本だった。昼過ぎの強い陽光が、古めかしいゴシック体に、窓枠の影をくっきりと落とす。彼の視線が、その影を気だるそうに横切っていく。がさついた右手は一定のペースでページを進めているが、先程あったことが無性に気になって仕方ない。
その日の早朝のことだ。彼は起きるとすぐに母屋を出て、郵便受けを覗きに行ったところ、新聞の上に大人の手ぐらいの大きさの木箱が無造作に置いてあるのを見つけた。なんだろうと思って取り出してみると、見た目に反して軽い。振っても音がしないので、いぶかしさは増すばかりだ。彼はさっそく書斎に戻り、朝食もそこそこに箱の中身を点検してみることにした。
彼はしばらくその箱を眺めて、ふと「オルゴールかもしれないな」と思った。何の細工も施されていなかったが、なぜか気品のようなものを感じるのだ。実際に開けてみると、中にはぎっしりと綿が詰まっているだけのように見えた。
「なんだ、何にも入っていないじゃないか。そうか、オルゴールがこんなに軽いわけないよなあ」
彼は揺り椅子を後ろにもたせかけ、頭の上で腕を組んだ。深呼吸すると、かすかな空腹を感じる。が、一応中身を取り出しておこうと綿を引き抜いたところ、への字型の物体が机の上に転がった。彼はそれを凝視し、そして目を大きく見開いた。それは、軟骨でつながった2本の鶏の骨だった。
彼はしばらく呆然としていたが、目の前の不可解な事実を検証してみようという気が起きた。まず、この物体をここに入れたのは誰かという疑問が湧く。
その時、外から声がした。
「向田さん、おはようございまーす!」
隣に住んでいる萩野夫妻の奥さんの方だ。隣と言っても、お互いの畑を隔ててはいたが。
「はい、今行きますんで。」
彼はそう言って玄関口へ向かったが、その声は小さく、萩野さんには届いていない。いつもそうだった。
外では、萩野さんが米袋を抱えて立っていた。
「おはようございます。いつも、ありがとうございますね。」
彼は頭を下げ、袋を受け取った。
「少し待っていてくださいね。」
そう言って奥へ引っ込んでからすぐ、彼は芋とその半分くらいの量の根菜が入った紙袋を抱えて戻ってきた。
「はい、昨日採れたやつです。どうぞ。」
彼らの間では、各々の田畑で採れた農作物を交換するのが習慣だったのだ。
「じゃあ、少し重いですが、お気をつけて。」
いつもの、決まりきった挨拶だった。
萩野さんが帰ると、彼は小さく「うーん」と唸った。しばらく戸口に佇んでいたが、やがて背中を丸めて台所へ入っていった。
翌朝、彼は郵便受けの横で配達員を待ち構えていた。かなり長く使っているステテコにはシミが目立っている。彼は道路の反対側に広がる森の、なんでもない一点をじっと見つめていた。黒いバイクがやってきて、彼の前に停まった。
「あれ、えーっと。えー、向田さん・・・でしたっけ?」
「はい。」
「おはようございます。珍しいですね、何かあったんですか?」
配達員の青年は相手の強い視線を感じていたが、目を合わそうとはせず、ポケットからフェイスタオルを取り出して額の汗を拭った。
「いやね、実は昨日のことなんだけれども。このポストに、誰が入れたのか分からない木箱が入っていてね。」
「はい。」
「それで、配達員さんが、もしかしたら何か見ているのかもしれないなと思いまして。」
「なるほど。うーん、昨日ですか・・・」
「誰かの姿を見たとかあれば・・・。」
「ああ、そういえば、僕が向田さんの配達を終えてこれに乗ってすぐくらいに、向こうからサングラスの男が歩いてきたような・・・。次の配達先のことを考えていたので、よく覚えていないんですけど。」
「ほお、サングラスの男・・・。ちなみに、服装とか体型とかは覚えてらっしゃいます?」
配達員は、首をかしげた。
「さあ、服装は変なものではなかったと思います。背はそんなに高くなくて、小太りだったような気がします。」
「ああ、いや、それで十分です。引き止めてすみません。」
彼は、ゆっくりとお辞儀をした。
「ああ、それでは。失礼します。」
そう言って、配達員は軽く会釈し、また額を拭って、次の配達先へと向かっていった。彼はその後ろ姿を横目で追った後、あいつかもしれん、とつぶやいた。
彼は、午前の農作業を終えると、居間の隅にある棚の下の方からメモ帳を引っ張り出した。
「えー、あいつは・・・」
しばらくそれをめくっていると、探していた箇所に当たったらしく、何回か見直したのち、棚の上に置いてある電話のダイヤルを回し始めた。通話が始まると、彼は誰にも聞こえていないはずなのに口元を軽く覆った。
「あー、俺だけど。柳か?」
「えーと、その声は、向田先輩ですか?お久しぶりです!突然どうしたんですか?最近お目にかかっていないですし、連絡も取っていなかったので、驚きました。」
「突然で申しわけない。うーん、突拍子もない話かもしれんが、聞いてもらいたくて。実は、昨日俺の家のポストに鶏の骨が入った木箱が入れてあってさ、それが誰の仕業か考えていたんだが、お前くらいしかいないだろうと思ったわけだ。」
「え。僕ですか?うーん、違いますけどねぇ。先輩に挨拶もせずに郵便受けに物を入れとくだなんて、そんなことするわけないじゃないですか。それに、鶏の骨だなんて。」
「まぁ、そうなるか。」
「うーん。ちょっと気味が悪いというか、変な話ですね、それは」
「ああ、さっぱり意味がわからん。薄気味悪いどころか、もはや滑稽にすら感じてきた。」
「はあ。えーっと、それで、僕以外に心当たりはあるんですか?」
「全くない。お前も大体分かっているだろうが、俺は洋子が逝ってからほとんど家を出ていないし、人ともほとんど関わっていないんだよ。だから、あの後も少しくらい家に来てくれていたお前ぐらいしか、思い当たる人がいないんだな。」
「ああ、確かにわかりますが、あいにく僕ではないんですよね・・・。手がかりとかもなさそうですよね・・・。」
「そうなんだよ。ただのいたずらにしては、モノが妙だからどうしても気になってしまって。」
彼は頭をかいて、数回咳払いをした。少し沈黙が流れた。
「あー、お前ならどうするよ、もしこういうことがあったら。」
「どうですかねぇ。警察とか興信所とかに相談するのがいいと思いますけど。何かしら進展はある気がしますよ。」
「いや、俺は警察は個人的に嫌だなぁ。」
「あー、それは昔に聞いたことがあるような気がします。」
「その興信所っていうのは、ここら辺にはあるのかい?」
「えーっと、この町にあるっていうのは知っているんですが、場所までは・・・。電話帳に載っていると思うんですがね。」
「ああ、そうか。わかった。ありがとう。では、お前ではないということでいいんだね?」
「はい、それは確かです。」
「じゃあ、早速調べてみることにする。それでは、失礼。」
電話を切ると、彼は電話の置いてある棚の隅の方から電話帳を出し、興信所・探偵事務所の欄を調べてみた。すると、確かに市内に一つだけあった。
「マッキー探偵社・・・」
彼は、数年ぶりに街へ下りて行くことにした。妻がいた頃は2人で商店街を回ったり旧友と喫茶店でお茶をしたりしていたが、妻に先立たれてからはめっきりなくなってしまった。年がら年中ステテコ姿で生活していたので、どんな服を着て行ったらいいのかも分からない。ひとまずアロハシャツに緩めのズボンを合わせ、あごひげを剃ってみった。洗面所の無駄に大きな鏡を覗き込み、彼は自分の姿をしげしげと見つめた。毛が一本も生えていない頭、シミが点在する頬、長年の農作業で鍛わった頑強な腕やふくらはぎ。全てが妻のいた頃と同じだった。が、部分部分ではなく全身を見ると、自分でもはっきりと分かるほどやつれている感じがするのだ。パートナーを失うことで、こうも人は纏う空気が一変してしまうのだろうか。彼は自問してみた。しかし、妻のことはあまり考えないようにしていたことを思い出し、慌ててその問いかけを消した。
彼は洗面所を離れると、書斎から持ってきた茶色い肩がけカバンを身につけ、何やら新鮮な気持ちで母屋を出た。一応道路に出るときに郵便受けを確認してみたが、何も入っていなかった。街へ下りていくのは一本道だったが、数キロほどある。しかし、彼には帰りを考えても辛い距離ではなかった。むしろ、気持ちの良いウォーキング程度の気分だ。
彼の家から少し降りたところに、彼がよく使っている商店がある。日用品は大抵ここで揃い、売っていなければ頼むと仕入れてくれる店だったので、彼の生活圏はここが下限だった。そこより下は、彼にとっては久しぶりに見る景色だった。坂を下りながら周りの家々や畑、森などを見ていると、薄れつつあった記憶がうっすらと蘇ってきた気がした。
山を降りると、視界が一気に開け、市街地に入った。空には所々雲があるが、昼過ぎの日差しと向かい風が心地よい。彼は近くにあった自動販売機で緑茶を手に入れ、バス停の椅子に座って一息ついた。小さいバス停でベンチはなく、2つ丸椅子が置いてあるだけだった。だだっ広い道路は数分に一度車が通るくらいで、人通りも少なかった。彼はただ何も考えず座っていたのだが、何やら市街地からの疎外感のようなものを感じていないわけでもなかった。自分が街の景色に溶け込めていないことに対する歯痒さも・・・。
彼は、柳から教えてもらった道を、メモ帳と照らし合わせながらゆっくり進んでいった。アパート、公園、学生寮・・・。決して便利なところではなかったが、静かで秩序だった暮らしの営まれる場所だった。周りの景色を見ながら歩いていると、彼は先にある交差点の右の方から、音楽が流れていることに気づいた。近くに行ってみると、それはビートルズだった。
「ウィー・キャン・ワーク・イット・アウトか。いいところを突いているな。」
ビートルズを流している店は、小さな喫茶店だった。
「こんな店、あったかなぁ。」
店の前に立つと、ほのかにコーヒーの香りがする。久しく嗅いでいない香りだ。彼は、ドアにかかっている「OPEN」と書かれた札を見て、そして窓から店の中を覗いてみた。オーナーらしき男がカウンターでコーヒーを挽いていて、その前に座っている客と何やら話し込んでいる様子だった。彼はしばらくそれを見ていたが、探偵社の予約の時間が迫っていることに気づき、先を急ぐことにした。
マッキー探偵社は、町役場の向かいにある小さなビルの2階にあった。彼がドアをノックすると、四十代前半くらいのひょろひょろとした体格の男が出てきた。丸顔で、無駄に大きい黒ぶちの眼鏡をしていた。
「こんにちは。依頼人の向田さんですね。」
彼は、「依頼人」という仰々しい言葉を久しぶりに聞いたので少し戸惑った。
「あー、はい。そうです。」
「どうぞこちらへ。」
案内された部屋は意外と大きかった。相手と向かい合って椅子に座ると、さながら内科の診察室のような格好になった。
相手はワイシャツの胸ポケットから名刺を取り出した。
「では、よろしくお願いします。」
その白地の名刺には「マッキー探偵社代表 マッキー松尾」と書いてあり、あとは連絡先しか書いていないシンプルなものだった。
「えー、何やらおかしなものが郵便受けに入っていたとお聞きしたのですが、まずはそれを見せていただけないでしょうか。」
「はい。」
彼は、カバンから例の木箱を取り出した。中身は、彼が開く前の状態に事前に戻しておいたものだった。
「開けてもらっていいですか。」
「はい。」
彼は箱を開け、中から綿と鶏の骨をゆっくりと取り出した。
「うーん。何だ、これは。」
マッキー松尾はそれを見て、目を丸くした。そして引き出しから新品の手袋を取り出した。無駄につややかな素材でできているようだった。マッキー松尾はそれをつけ、慎重に綿から観察し始めた。
「百貨店で売っているような、高級な枕の中に入っているような素材ですねえ。」
次に鶏の足をつかみ、より慎重に見だした。彼はそれを、黙って見ていた。彼の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。
「きれいに肉が削がれていますねぇ。ええ。かなり丁寧な仕事ですよ、これは。ここまでやろうとすると、この軟骨まで取りのぞきたくなるものだと思うのですが、そこまではしていない。つまり、この代物を置いた人物は、敢えて軟骨を残して二本の骨をつないだままにしておくことに意味を与えていると思われます。」
「ほお。」
彼は、マッキー松尾の説明を聞きながら、「こいつは自分と違った部類の人間だな」と思った。自分で観察しても何もわからなかった彼にとっては、それだけでも貴重な情報だった。
「それでなんですがね。」
「はい。」
マッキー松尾は、軽く咳払いをした。黒ぶち眼鏡が少しずり落ちた。
「向田さん自身に、何か鶏肉や手羽先についての思い出や印象に残っていることなどはありませんか?」
「鶏肉・・・。」
何か思い出せそうだったが、それがつかめない。モヤモヤしたものがあったが、彼は思い出そうとすることを諦めた。
「いや、特にないです。」
「うーん、なるほど。もしあったら、その人物もその件を知っている可能性が高いと思ったのですが・・・。まあ、思い出したらまた言ってください。ただ、私の経験から言わせてもらうと、あなたと何の縁もゆかりもない人間がこういった手の込んだことをするとは考えられません。おそらく、あなたについて、何らかの印象を抱いている人間、つまりあなたと比較的親しい間柄にある人物だと思います。心当たりはありますか?」
彼は、柳の顔を思い浮かべたが、すぐに取り消した。柳は高校の剣道部での彼の後輩で、後輩の中でも一番仲良くしていた。明るい性格で話もうまく、卒業後もよく会ったりしていた。
「いや、特にないです。一人だけいたんですが、直接確認したら、自分ではないと言うので。実は、そいつが興信所に聞いた方がいいというので、こちらに来たわけなんです。」
「はあ。そういうことなら、その方がやったとは考えられないですねえ。」
マッキー松尾は首をひねり、眼鏡を机に置いて目を閉じ、小さく唸った。彼の方は、ただただその姿を眺めているしかなかった。
「うーん。向田さん、残念ですが、私にできるのはここまでのようです。」
「あー、そうですか。まあ、ある程度新しいことを知ることができて、良かったです。ありがとうございます。」
「いえいえ。」
「えーと、今日の相談料のようなものはいくらですか?」
マッキー松尾は笑って言った。
「いやいや、全く必要ないですよ。向田さんのご依頼は、有志で相談に臨ませていただいたようなものなので。」
「ああ、そうなんですか。それは、どうもありがとうございました。」
「では、これを忘れずに。」
マッキー松尾は、丁寧に綿と骨を木箱に戻し、手袋を外して彼にそれを手渡した。そして、唐突に吹き出した。
「ハッハッハ。」
「え?どうかされたんですか?」
マッキー松尾の顔は、驚くほど柔和になっていた。
「実は、こんな案件はこの仕事を始めてから初めてでしてね。こういうことを言うのはあまり良くないと思うんですが、普段私は不倫問題だとか、会社同士の係争だとか、借金問題だとか、なんとも気が滅入るような案件を扱っているものですから、今回のことは非常に興味深いわけですよ。一つ短編小説が書けてしまうくらいの話ですよ。」
「ははは。確かに、普通に考えたらありえないことですよね。」
彼もマッキー松尾につられて、つい笑顔になった。思い返せば、ここ数年笑顔になったことなんかあっただろうか。彼の眉間には、いつも皺が寄っていた。少なくとも彼自身はそれをわかっていたが、何とも思っていなかったのだ。しかし、つられて笑っただけであって、それが本心からではないということは、彼が一番わかっていた。
「ええ。そうなんです。ああ、少し愚痴を言い過ぎてしまったようですね。探偵という仕事に就いたからには、仕方ないことでしたね。」
マッキー松尾は視線を机の上に落としたまま、一人で軽く頷いた。
「いや、お気になさらず。誰だってそういうことはありますから。」
「ええ。いやはや、改めて、今日はご相談ありがとうございました。あまりお力になれなかったかもしれないですが、また何か気づいたことがあったら伝えてください。」
「もちろんです。では、また。」
彼はマッキー探偵社の入っているビルを出ると、ふと後ろを振り返った。そしてまた向き直り、帰路についた。またメモ帳を見ながら歩いていると、彼は例の喫茶店の前に来ていた。というより、引き寄せられていた。その時に流れていたのは、「リアル・ラヴ」だった。窓が半分開いていて、窓際でレコードを回しているようだった。
彼は、その店に入ってみる気になった。少し躊躇したのち扉を開けると、すうっとコーヒーの香りが彼を包んだ。
「いらっしゃいませ。」
声の主は、先ほど中を覗いた時に見たオーナーだった。客はいなかった。彼はカウンターに、オーナーの真正面から2席ほどずらして座った。そして小腹が空いていることに気づき、何かコーヒーの他にも頼もうとメニューに手を伸ばした。オーナーは、タオルで丁寧にカップや皿を拭いていた。
「すいません。えーと、卵サンドとレギュラーコーヒーをお願いします。」
「はい。」
彼は、オーナーが調理しているところをチラチラと見ていた。オーナーは十歳ほど年下のようで、髪を刈り上げ、口ひげを少し生やし、小綺麗なチョッキを着ていた。腹は少し出ていたが、小太りという程度で収まっていた。なんとなく、円熟したコメディアンや名物司会者を思わせる雰囲気があるな、と思った。
「はい、お待ちどおさま。サンドは温かいうちにどうぞ。」
「ありがとう。」
卵サンドは、耳を切り落としたトーストに卵のフィリングが挟んであるだけのシンプルなものだったが、そういったものでさえ、彼にとっては久しぶりに食べるものだった。彼は思わず「うまい」とつぶやいた。すかさずオーナーが反応した。
「ありがとうございます。」
彼は、ビートルズについて訊いてみようと思った。
「ビートルズが好きなんですか?」
オーナーの目が光った。
「ええ、そうなんです。ビートルズのレコードを集めるのが趣味なんです。」
「いやあ、実は僕もビートルズが昔好きでしてね。」
「ほお、同じじゃあないですか。」
「ええ。さっき、ウィー・キャン・ワーク・イット・アウトが流れているのが用事に行く時にきこえてきましてね。それで、興味を持ってお邪魔させていただいたわけなんですよ。」
「なるほど、それはそれは。」
「あの、『ゼア・イズ・ノー・ターイム』で声が重なるところ、いいですよね。」
「そうですよね。僕もそこが好きです。あ、卵サンドが冷めてしまうので、続きはコーヒー片手にどうですか。」
「ああ、そうですね、はい。」
彼は、いい店だなぁ、と思った。オーナーは言わずもがな、店内の雰囲気も好きだった。音楽に関しても、気にせずに会話できる程度の音量だったし、店内にあるビートルズ関連のポスターなどが最小限であるところもよかった。壁一面に趣味のポスターが貼ってあるような店を彼は毛嫌いしていたからだ。そもそも街の店に入ったこと自体が数年ぶりだったが・・・。
卵サンドを食べ終わると、彼は口を開いた。
「あまり街に来ることがなかったので知らないんですが、この店って最近できたものですよね?」
オーナーは頷いた。
「はい、そうなんです。私、倉田というのですが、二年前に銀行を定年退職しまして、コーヒーを淹れるのが趣味だったものですから、周囲の後押しもありまして、一念発起して店をやることにしたわけです。」
「なるほど。」
オーナーは、本当に楽しそうな顔をしていた。
「私は向田と言いまして、山で農家をしています。わけあってどこにも行く気にならなかったもので、街に出てくるのは本当に久しぶりなんです。」
「へぇ、いや、ぜひちょくちょくいらしてください。ここには休日になるとビートルズの愛好家が集まったりするので、とても楽しいですよ。」
「それは面白そうですねぇ。」
「はい。」
彼は、自分がまだ顔も知らないビートルズ愛好家たちの輪の中に入って話に花を咲かせている姿を頭に浮かべたが、すぐ取り消した。まだ自分はそういう状況を楽しめる人間ではない気がした。
その後、彼はビートルズについて倉田と話し込み、日が暮れかかってきたので店を出た。いい日だったな、と彼は思った。街に出て行くときより、足取りが軽い。その時、柳の営んでいる八百屋が近くにあることをふと思い出した。さっきの喫茶店を知ることができたのも元は柳のおかげだから、礼でも言いに行こうという気になった。
柳の店は大きな交差点の角にあるが、夕方というのもあり、近所の主婦で予想以上に混んでいた。しかし、柳の姿はすぐ見つかった。トマト売り場で色を見ているところに、彼は声をかけた。
「おい。」
「え?はい。ああ、向田先輩じゃないですか!」
柳は、両手で持っていたトマトを置いて彼の方に向き直った。
「ああ、会うのは久しぶりだな。さっき、例の探偵社に行ってきた。」
「そうなんですか。何か収穫はあったんですか?」
「やった相手は分からなかったが、少し有益な情報を手に入れることはできた。ありがとう。」
「どういたしまして。僕は紹介しただけですが。」
「いやいや、十分だよ。それに、いい店を見つけることができてな。」
「へえ、どんな店ですか?」
彼は、自分が自然に笑顔になっていくのに気づいた。
「うん。喫茶店なんだが、そこの店主がビートルズの愛好家らしい。」
「ああ、先輩、昔ビートルズが好きだって言ってましたね。」
「なんだか懐かしくなってさ。その店主と話し込んでいたら、ビートルズの魅力にまた取り憑かれてしまった。」
「ほう、それは良かったですね。」
その後、昔の懐かしい話を幾つか交わして、彼は柳に別れを告げた。
「じゃあ、また。」
すると、柳が伏せがちに言った。
「先輩、街に出てきて良かったですね。率直に言って、嬉しいです。」
それを聞いて、彼はハッとした。こいつは、自分のことをずっと心配してくれていたのかもしれない。そのことが、彼の頭の中を回り出した。
「ああ、ありがとう。」
いたたまれなくなって、彼は柳と目を合わせずに、店を出た。柳は、彼の出て行く姿を目で追いながら、つぶやいた。
「つながりを取り戻せそうですね。」
柳は静かにサングラスを外し、店先から遠くの方を見つめた。
家に着くと、日はすっかり暮れていた。彼はいつものようにステテコ姿になり、ベッドに転がった。そのまま寝てしまおうかと思ったが、急に紅茶でも淹れたいような気分になった。彼は、コンロの横の棚に数ヶ月前に何となく買ったティーバッグがあることを思い出し、いそいそと紅茶を淹れ始めた。
テーブルについて紅茶をすすると、結び目がほどけたような安心感が湧いてきた。彼は、洋子の写真でも見てみるか、と思った。その時、彼は思い出した。洋子の得意料理は、手羽元の煮物だったのだ。
老人 Canal @pompon_Heid
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