第89話 この世界のあの子
「きゅん」
懐かしい声が聞こえた。振り向いた先に、その姿はない。
「今の声……ですか?」
「はい、あの子です。……名前は、呼んでもいいんでしょうか?」
何を話しても良くて、何が話してはいけないのか。その分類がいまいち分からず、少し話すだけでも躊躇いが生じる。
「やめておいた方がいいでしょう。多分こちらですね」
そう言ってアスさんは先に進んだ。
「きゅきゅー」
何かを呼ぶような声の主は、太陽が降り注ぐ開けた場所、大きな切り株の上から聞こえた。黒く小さな体が、空に向かって声を上げていた。
それは僕が知っているスミよりも、ずっと静かで落ち着いているようだった。僕が出会うことがなかった世界で、本来のスミの姿、僕の知らない裏の顔を見てしまったみたい。
「私はここで待っていますね」
アスさんに背中を押され、僕はその子に近づいた。初めて会った時と変わらない姿をしているのに、その子は僕の知るスミではない。こちらを向いたその子と互いに見つめ合い、僕は声をかけようとした。
「…………」
過去を話してはいけない。僕の世界もその状況も話すことができない。そんな中で何を話せば、この子に協力してもらえるのだろうか。精霊だから、マスターさんのように理解してもらえないだろうか。
「きゅう?」
「……助けてくれませんか?」
「…………」
その言葉だけでは何も伝わっていないようだった。やはり何かを伝えるべき。それでも全てを伝えることはできない。
「僕はあなたを知っています。もう一度会いたいんです」
意味の分からない言葉になってしまった。目の前にいるのに、また会いたいだなんて。頭の中がごちゃごちゃと整理のつかず、その状況でこの子に伝えたい一番の言葉を選んだ結果だった。
また別の言葉を伝えなければ。混乱した思いの波にそれを探しに出ようとしたとき、この世界のスミが鼻を近づけてきた。僕の存在を判断するようなその行動を終えると、そのまま首元に潜り込んできた。
この世界のスミに、僕の言葉は届いてくれたようだった。
「次は精霊王への謁見ですね」
様子を見守ってくれていたアスさんが、仲良くなった僕たちの元へやって来た。
「あの方はいつもの場所にいらっしゃるでしょう。ですがその前に、新たにもう一つ約束していただきたいことがあります」
過去について話さないこと。向こうの世界のことを話さないこと。彼が教えてくれたこの世界の決まりは、自分の思いを伝えることを難しくした。それにまた一つ、守らなければならないことが増える。
「嘘をつかないことです」
「嘘を……つかない」
「精霊たちは精神の変化に敏感です。嘘をついたところですぐに気付かれるでしょう。そして信頼や守護意識は消えて、まともに取り合ってくれなくなります。私たちは彼らに守られて、かつ願いを叶えてもらう立場です。そのことだけは忘れないように」
この世界で、いまいち自分の立場が掴めない。死神ではなく普通の子ども。人に恨まれることなく友達もいて、カフェの人たちやスミと関わることはなかった。ただどんな人であれ、この場では彼らに守られるものであるらしい。僕が元の世界に戻るには、そんな彼らにお願いをしなければならない。
嘘をつかないことは簡単だ。言葉を選びながらも、思っていることを伝えればいい。一つ心配なことは、この世界にいる間に、意識が虚ろへと落ちてしまいそうになることだった。
元の世界に帰りたい。でもこの場だって心地良いのではないか。それは本当の僕が『甘い』に満ちた時間を過ごしてきたからかもしれない。こんな状況で帰りたいという感情が本心なのか。曖昧になることは嘘にならないか。
「手を繋いでも良いですか……」
僕が元の世界に戻りたいと思うのは、カフェのみんなとの時間が失われることが嫌だったから。僕が多くを経験して、前向きに生きられるようになったのは彼らに会ってから。だからこの手に握られたのは、この世界の僕が失ったもので、僕が失いたくなかったもの。
それだけをしっかり心に留めて、僕は精霊王の元へ向かった。
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