第88話 精霊の棲む森
森の中で不思議な生き物たちの影を見かけた。その中には人に似た形を保っているモノもいれば、見たこともない動物のようなモノ、生き物であるかも疑わしいモノなど様々で、その誰もが静かに時を過ごしているようだった。
「彼らの姿が見えますか?」
「はい。彼らは……みんな精霊ですか?」
僕の言葉にアスさんは黙り込んで、周囲の生き物に目を向けた。彼らの中の一部のモノは、僕たちの存在に気付いて遠くから様子を伺っている。
「その質問には何とも……。普通の人には、彼らの姿は見えないのですよ。あなたは好かれているようですね」
僕が好かれているだなんて、それは皮肉のようなものだった。
「彼らの好む香りがするのでしょう。でもお気をつけ下さい。彼らはお気に入りを仲間へ取り込もうとする。戻りたい世界があるならば、線引きを間違えてはいけません」
「間違えてしまったら?」
単なる疑問から出た質問だった。
「人のままではいられないでしょうね」
優しく微笑んでいるのに、その言葉に恐怖を感じた。人が人でなくなってしまうことを、そんな簡単に口にできてしまう。さっきまで分からなかった違和感が、ようやく顔を出してきたようだ。
「あら、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
木の影から現れたお兄さんが、笑顔で手を振って隣を通り過ぎた。その顔の半分は鱗で覆われ、足は鳥のような
「彼も元は人だったのかもしれません」
心地よいと感じていた。平和な場所で、誰もが幸せな時を過ごしているのだと感じていた。元の世界に戻ることを目的としてここに来たのに、その次には『あわよくば僕も』という感情を抱いていた。
「ここに取り込まれてしまったモノは、時間の影響を受けなくなります。長い時をここで過ごすうちに、環境に順応する過程で体が変化するようです。彼ももう、どれほどの時間をここで過ごしているのやら」
取り込まれてしまったモノ。違和感に気付かなければ、僕もそうなっていたのだろうか。目的も忘れて、ただ幸せの中で
「あら、もしかしてアスちゃんじゃない? 変わらないわね」
「お久しぶりです」
次に現れたのは二本足で歩く大きな兎。両耳を垂らし真っ白な毛で全身を覆ったその生き物は、綺麗な緑色の瞳をしていた。
「もしかして移住する気になったの?」
「いえ、今日は案内役でして」
その言葉で、僕は大きな兎と目が合った。
「あら、かわいい子ね。あなたも移住してみる?」
僕は咄嗟にアスさんの後ろに隠れた。その姿は可愛らしいものなのに、どこかで恐怖を感じていた。
「……どうやら嫌われてしまったみたいね」
「まだ
「もちろん。これはお土産ね。私たちはいつでも歓迎しているわ」
その大きな兎がこの場を後にし、後ろ姿が小さくなったのを確認して、僕はアスさんを見上げた。
「それ……」
その手に握られていたのは、見覚えのある白い花。ウィラレントの露店で買って、お母さんの死を教えてくれたもの。
「花が咲くときに、大切なことを教えてくれるって……」
それは僕にとって不吉の象徴だった。この花を見ると、嫌でもお母さんの弱った姿を思い出してしまう。
「この花はこの世界で生まれる特別なものですよ。人の『甘い』と呼ばれる感情を吸って成長します。いわゆる『悲しい』や『寂しい』といったものでしょうか」
甘いが欲しいと、夢の中で彼らが求めていたのは僕の感情だった。その感情と、僕は長く深い付き合いだ。だから彼らに好かれるのかもしれない。この世界に取り込まれそうになるのかもしれない。
「『甘い』が大きくなるのは、大抵何かを失う、または失いかけている時でしょう。そうして何かを見返して、ようやく人は大切なものに気付く。ここに来るのは、そういった『甘い』に囚われてしまった生き物なのですよ」
「…………」
「だから気を付けてください。あなたは既に『甘い』に囚われているようですから」
「そうですね。あの花が咲いた時も——」
「それ以上はダメです」
「えっ?」
「口にしてはいけません」
僕の話を遮るように、アスさんは厳しい口調で繰り返した。
「ここで過去のことを語ってはいけない。彼らに私たちの世界の出来事を伝えてはいけない。それがここでの決まり、彼らにとっての幸福です。万一これを破ってしまった場合は、彼らの気まぐれで何をされるか……」
「……分かりました」
眉を寄せるアスさんの様子は、今まで見てきた彼とはまた別人のようだった。どこか遠慮のある、知り合ったばかりのような対応。僕のことを見ているけれど、焦点が定まっていないような感覚だった。
「アスさんは、僕のことを知っていますか?」
「表面上でなら、理解しています。私は精霊ではありませんので」
「そうですか……」
それから僕たちは何も話さず、ポツポツと咲いている白い花を追いかけるように歩いた。
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