第90話 精霊王への願い

「この先に、精霊王はいらっしゃいます。準備はよろしいでしょうか」


 僕は背筋を伸ばしてまっすぐ前を見つめた。左手はアスさんと繋がり、肩の上にはスミがいる。


「大丈夫です」


 白い花の導きに従って開けた世界には、鯨が巨体を宙に浮かせて漂っていた。


「おや珍しい。お客人かな」


 精霊王。その存在から放たれる震えが、僕の頭に音として伝達した。


「お寛ぎの中失礼いたします。私、人の世界から参りました。ブレンダン=クロフォードと申します」


「ほう」


「こちらのサイラス=アシュレイの願いを受け、こちらに連れ参りました。この者はまだ幼く、世界の理に詳しくありません。どうかご寛大に、そのお願いをお耳に入れていただけないでしょうか」


 彼は実名を告げ、うやうやしく言葉を並べた。


「中身を知らず、判断はしかねる」


 見下される視線は脅威そのもの。僕はその威厳に圧倒された。僕にはアスさんのような品性もマナーも持ち合わせていない。その中でこの精霊王に話を聞いてもらい、かつ願いを叶えてもらわなければならない。


 僕はゴクリと唾を飲み込んだ。僕が持っているのは嘘のないこの心と、信頼できる関係だけ。


「サイラス=アシュレイと申します。僕がどんな人間なのか、この記憶も含めて理解していただけますか?」


「過去を見ることは望まぬ」


「僕はこの記憶が本来ある、僕が生きてきた世界でこれからも生きていきたいんです」


「それが?」


 それが何なのか。僕の願いが精霊王にとって何になるのか。その言葉には、何も言うことができない。この願いは僕が叶えたいものであって、精霊王には得がない。精霊王が願いを叶える義務はないんだ。


「どうか、その心に寄り添っていただけないでしょうか」


 言葉に詰まり、何も言えなくなってしまった僕の代わりに、アスさんが声を上げた。


「ヒトの子の戯言たわごとに付き合う意義は?」


「寛大な御心みこころを願っております」


「残念だが」


 彼の言葉でも、精霊王を動かすことができない。僕の願いを叶えることは、それほどまでに難しいことだったのか。


「きゅい」


 肩から飛び降りたスミが、精霊王を前に鳴いた。


「きゅっ。きゅいきゅう……」


 その小さな体で、必死に何かを訴える。言葉を理解できない僕に、スミが何を伝えているかは分からない。それでも僕のために頑張ってくれていることだけは理解できた。


「なぜ?」


「きゅいきゅい、きゅっ」


 スミが話をして初めて、精霊王が耳を傾けてくれるようになった。スミの言葉は精霊王を黙らせ、熟考へと持ち込ませる。


「相応の対価を貰おう」


「対価……」


「甘いを示せ」


 精霊王が、大地を風で巻き上げた。その巨体が浮いていた場所のすぐ下には、まだ花の咲いていないあの植物で埋め尽くされていた。


「その価値は存じておろう」


 『甘い』は悲しいや寂しいという思い。この世界に生きるモノが好む感情。それを示すのは僕にとって簡単なことだった。僕と切り離すことなどできないものなのだから。



 目を瞑って考えた。心に積もる思いの塊。


 世界に嫌われたと思っていた時。仮面をつけた家族ごっこ。新しく広がる世界を見つけて、自分の世界の狭さを知った。その世界の違いを見せつけられて、対立するしかない運命を見届けた。自分の人生を生きるようになって、抱え込んだ大切なものを失いそうになった恐怖。実際に失ってしまったもの。自分の無力に自分を恨み、周りの優しさに心が痛んだ。


 今頃みんなはどうしているのだろうか。お父さんは家で、僕が帰ってくるのを待っているのだろうか。ラヴィボンドさんは日本でどのように過ごしているだろうか。マスターさんは? ノーマンさんは? アスさんはノーマンさんと仲直りできただろうか? アリーさんにはお世話になったのに、今回のことは何も伝えていない。リアンさんは彼女のことだから、また賢者と追いかけっこでもしているんじゃないだろうか。


 涙が自然と溢れていた。思い浮かぶのは大切な人の顔。思い至るのは辛くて幸せな記憶。そのどれもが、かつての世界で僕が経験したもの。この世界の僕が経験できなかったこと。


 これを失って生きていた僕は、本当に幸せだったのか。大切なものを抱えることができたのか。


「甘い」


 僕は本当の世界に戻る。僕の大切なものがいっぱい詰まったあの世界に。


「これで足りますか?」


 流した涙はさらさらと輝き、鱗粉のように宙を舞った。僕の『甘い』が詰まった雫で白い花が開花する。


「極上の甘さ。そなた、ここに残らないか」


「申し訳ありません。僕は、僕のいるべき場所に帰ります」


「……そなたの願い、叶えよう」


 精霊王が声を上げた。大地を震わせるのはその飛沫。満開の白い花々から、蝶のようなモノが羽を広げる。飛び立ったその大群は景色を隠し、羽ばたきと共に光の粉を振るい落とした。


 この世界のスミはもういない。左手を繋いだ、アスさんの存在だけがそこにある。光に包まれた僕たちは、もう精霊王の森にはいなかった。

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