最後の始まり

第73話 変わっていく日々

 週末まで、僕は授業を休んでカフェで過ごした。


「サイラス、大丈夫か? そばにいてやれなくてごめんな」


 お父さんは朝一番にやって来た。疲れきった様子は変わらず、硬い表情でしきりに僕の頭や首に手を当てる。


「僕は大丈夫だよ」


 心配そうな表情は、僕の言葉で晴れはしない。お母さんが死んで、僕までも熱を出したと聞いてしまったのだから、それも仕方のないことなのかもしれない。


「熱は……下がったみたいだね。体はだるくないかい? 食欲はある?」


「大丈夫だって」


 僕の声が聞こえていないかのように必死に尋ねるお父さんの様子に、僕は軽く笑ってしまった。


「良かった……」


 大きなお父さんの体に包まれる。やっと安心してもらえたのか、コトコトという優しげな心音が聞こえた。


「ごめん」


 回りきらない手で、僕はその大きな背中に触れた。体が小刻みに震え、鼻をすする音が聞こえる。お父さんがお母さんのことを心から愛していたことを知っている。今まで涙を見せたことがなかったお父さんの、その心の傷を推し量ることなどできなかった。




「寝ちゃった?」


「うん……たぶん」


 相当疲れていたのだろう。泣いていたお父さんはいつの間にか眠ってしまっていた。ちょうどいいタイミングで現れたノーマンさんに抱えてもらって、お父さんはカフェの奥の大きなソファに寝かされた。


 お父さんは病院で見たお母さんとよく似ていた。青白い顔に目の下の隈は随分前から消えなくなっている。大きな手は骨が浮き出て、かつて僕の手を引っ張ってくれた力強さは感じられない。


 このままだとお父さんもいなくなってしまわないだろうか。僕の前から消えてしまわないだろうか。それだけが心配で恐怖で、お父さんから離れられなかった。




 ちょうどお昼を過ぎたころ、お父さんが目を覚ました。目が合って笑ってくれたけど、それは作られたものだった。


「お待たせしました」


 一通り挨拶を終えたお父さんと、並んでお昼ご飯を食べる。今日のお昼はクリームパスタで、魚や貝、エビに加えてアスパラガスやニンジンが入っている。マスターさんのご飯はいつも通り美味しいのに、お父さんの顔は浮かないまま。


「仕事、辞めようと思っているんだ」


「どうして?」


 お父さんの手は完全に止まっていた。何も言われないままでは、僕はその気持ちを理解することができない。仕事場であんなに楽しそうに話していたのに、辞めてしまうのは寂しいような気がした。あの時のお父さんは、家で笑うときとはまた別の人に思えたから。


「今まではお母さんに全て任せてしまってたからね。家のことは、今度はお父さんがするから」


 お父さんが家にいてくれることは正直嬉しい。でもそれは、僕がいることが仕事を辞める理由になったということ。僕が、お父さんの仕事場での笑顔を奪ってしまうということ。


「ちゃんと……休んでくれるの?」


 自分の願望には逆らえなかった。お父さんが仕事場で笑ってくれるより、すぐ近くで元気にしていてほしい。それがどれほどわがままなことか分かっていたけど、我慢して取り繕うことはできなかった。


「ああ。もちろん。ただ家事をするのは久しぶりだからね。迷惑をかけると思う」


「僕は何をすればいい?」


 これまでとは大きく状況が変わる。それなのにずっとやるべきことが分からなくて、僕は前と変わらない日々を過ごしてきた。


「それじゃあ、毎日一緒にご飯を食べてくれないかな?」


「それだけ?」


「それだけ」


 お父さんに頼まれたのは、ほんの些細なことでしかない。幸せそうに答えるお父さんに、思い出せた記憶は数えるほどしかなかった。特別な日でない限り、一緒にご飯も食べられない。そんな毎日が、これからは一緒に食べることが当たり前になる。


 ほんの些細なお願いは、僕たちにとってはとても大きな変化だった。

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