第74話 避けられない苦悩

「昔はね、笑っていればいいんだと思っていたんだ。感じることも考えることもやめて、ただ笑ってるの。お父さんやお母さんも、仮面をつけたみたいに笑ってたから、それでいいと思ってた」


 あの日から、僕たちは少しずつ話すようになった。これまで一緒にいられなかった分、失ってしまった分を補うように。


「俺たちも慣れないことが多くて不安だったんだ。それを悟られてはいけないと、無理やりにでも笑って過ごそうとしていたんだけど、余計に心配かけちゃったな」


 毎日学院に行って、朝と夜はお父さんと一緒にご飯を食べた。無意識のうちに涙が零れてしまうことがあった。


「サイラスには悟られないようにと思っていたんだが、……本当は自分を騙したかっただけなのかもな」


 僕の痛みを、たぶんお父さんは知らない。それと同じように、僕にはお父さんの痛みが分からない。これまでだってそうやって、自分のことを見ず、互いのことを見ず、全てのことに目をつむって知らないふりをしてきた。


「お母さんは、俺よりもずっと深く悩んできたはずだ。元々親との仲が悪かったが、ひどい喧嘩をしてしまったみたいでね」


「おじいちゃんとおばあちゃん?」



 お母さんは子供の頃、毎日のように本当の死神の歴史について聞かされていたらしい。かつての賢者がどれほど素晴らしい人だったか。その事実を歪めた人々が、どれほど卑しかったのか。


 親から告げられる言葉は、子どもにとって呪いに等しい。世間で言われている言葉と親から聞かされる言葉の違いに挟まれ積み重ねられた苦悩は、彼女が問題から遠ざかる決意をさせたに過ぎなかった。


 そうして親との縁を切ったお母さんとお父さんが出会い、僕が生まれたことでお母さんが遠ざかっていた問題が再び顔を見せた。過去を知らないお父さんにこれまでのことを話し、解決できなかった問題と向き合わされ、漠然とした未来に悩み続けた。


 正しいことが分からない。微かな救いを求めるように尋ねたお母さんの親には、かつて逃げようとした呪いをより深く刻みこまれ、耐えられなくなってまた逃げ出した。それからはずっと一人で向き合うことしかできなくて、結果その悩みに押し潰されてしまった。


「そんなこと……知らなかった」


「サイラスには言わないようにしていたからね」


 そんな苦労をしている様子なんて知らない。ただいつも怒っているか諦めているような様子で、僕のことを真面目に考えてくれているなんて思わなかった。


「サイラスは何も悪くない。この言葉、覚えてるか?」


 それは僕が周囲から嫌われる理由、死神の話を聞いた時にお父さんが言ってくれた言葉だ。


「サイラスは何も悪くない。ただこの世界に望まれて生まれてきただけだ。だからこの苦悩を背負わせたくはなかった。普通の子どもたちのように、無邪気な毎日を過ごさせてやりたかった」


 それはお父さんの口から初めて聞いた願いだった。お父さんもお母さんも、僕のために悩んで考えて、そうして僕を守ろうとしてくれていた。それを僕だけが知らなくて、恵まれた環境に気づこうともしなかった。


「今更なことかもしれないけど、もう少し話していればよかったとは思っているよ。サイラスは頭がいいから。俺たちが守ろうと必死になっていたけど、自分でも十分考えられるようになってた」


「それはカフェのみんなのおかげだよ」


「そうだね。またお礼に行かないと」


 後悔しても、今更どうしようもないことだってある。それでも僕とお父さんは、生きていかなくちゃいけない。


「そういえば、花が咲いたって喜んでいたな。サイラスがくれたシーサイトのお土産だ」


 シーサイトの時には、すでにお母さんとの仲が悪くなっていた。それなのにお母さんは僕からのお土産を育てて、それに笑ってくれていた。


「綺麗な桃色のタンポポでね、ちゃんと咲かせられるか心配だったって。あんな風に笑うところを見たのは、よく考えれば久しぶりだった」


「…………」


「もしかして……見せてもらってなかったのか? サイラスには、最初に見せたものだと思っていたんだが」


 お母さんが見せてくれなかった理由は一つしかない。


「喧嘩……してたから……」


 そんな簡単な言葉で表していいものなのか。お互いに恨み合っているものだと思っていた。お母さんの立場も思いも、その考えだってまともに取り合わずに、ただその態度だけで決めつけてきた。


「……知らなかったな」


 今更理解してもどうしようもないこと。いつどこで間違えたのか分からないって、いつだってそう思っている時だって間違っていたんだ。目の前の現状を否定するだけの、その行動自体が間違っていたんだ。


「俺も仕事に逃げてしまったからな。あんなに嬉しそうに話していたのは、俺に助けを求めていたからかもしれないな」


 お母さんがお父さんに見せた表情は、本当は僕に見せたかったものだったのかもしれない。それができなかったから、きっとお父さんに見せたんだ。


「俺たちは、もう後悔しかできないからな。もう話し合うことも、元の生活に戻ることもできない」


 声が震えている。それもそうだ。こうやって後悔して後悔して、後悔し続けたところじゃ足りない。もっともっと後悔し続けて、何も残らないし何も生まれないのにその先を望んでしまう。こうして望む現状が悪いことなんだとぼんやり理解しているから、それがまた自分を追い込んで抜けられなくなる。


「それでも無かったことにはしたくないな。それにもう失いたくはない」


 涙を流したままの顔で、お父さんはこっちを向いた。無理やり作った笑顔は苦しそうだけど、それでもずっと綺麗な顔をしていた。

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